【SF】計量カップの中の幸福(1236文字)


下、下、上、上、左、右、左、右、β、α。
教えられた通りにボタンを押すと、
何もなかった壁に窓口が現れる。
チップを、という声は、人間のものだった。
昨今窓口そのものがあまり存在しないし、
出くわすとすれば向こうにいるのはGTS※が常であったから
随分と新鮮に感じた。

シブヤ駅の地下にこんな場所があることを知る人は
とても少ない。
機械化された硬質の場に灯る利用客以外の人命。
「人が出てくると思いませんでした」
と、つい口をついて出る。
何分特殊なものですから、
とやわらかく返る声に肩の位置が下がる。

微かなノイズに混じって響いた、
あなたの場合は三名です、に息を吐く。
そうか。ひとりで三人分か。
既にご存知かと思いますが、と前置いて続く。

あなたについての記録はテルースにのみ残り、
その他のあなたの関わる全ての記録と記憶については
抹消や改竄が行われ、
受領者の設定は書き換えられます、と、
穏やかに滑らかに流れていく説明。
全て最初からそうだったように、と付け足され、
ノイズに混じるのは自分から滲む音だけになった。
一人の人間の幸いが三人の人間に分配される。
人が一人消えるが、以前より幸福な人間が三人増える。

よろしいですか、と問われる。
吐いてから吸い、「お願いします」と再び吐き出した。
実行は三十日日曜日、二三時五九分です、
が全ての空気を押し出す前に返ってきた。
手続きはこれで終了です、は、もう一度吸う頃に。

「ありがとうございます」
たぶん見えないだろうが頭を下げて、その場を後にする。
エレベーターで地下二階まで戻り、
ホロの裏から辺りを探って足を踏み出した。

吸って、吐いて。
ようやっとその日が来ることを噛み締める。

人生は順風満帆だった。
恵まれて育ち、高ランクの大学を卒業し、
高ランクの企業に就職して六年。
友人もいい人たちばかり。
今はいないけど素敵だったと思える恋人がいた時期もある。
程々のストレスの中で、
比較的羨まれる側の人生を過ごしてきた。

その中で降り積もっていったのは疑念だった。
スタートから幸せな人生を送りやすい人、
そうでない人がいる。
上手くいかないが積み重なっていく人を目にして、
自分はもう充分なのではないか、
という思いが湧き出で始めた。

親には褒められなかった。
もっとやれとも言われなかった。
わかりやすくかわいがられたという記憶はない。
いつも距離を感じていた。
両親は感情を表現するのがあまり得意でないだけなのだと思う。
明らかに恵まれているという抗いようもない証拠に囲まれて、
どこか孤独を感じながら生きてきたのは
贅沢なことだと自分を責めるようになって久しい。
完璧なんてあり得ないし、誰しもどこかが欠けるものだろう。
自分はその中でも欠けが少ない方だ。

この先の人生を思う時、別に続かなくても構わない。

就職して新人の時期が終わり、
忙しなさから解放されて感じたのはそれだった。

一緒にいたいと思う相手もいない、今がチャンス。
自分がいなくなり、誰かの幸せが増すならば
そんなに素晴らしいことはない。
この制度は確実に救いだった。

電車に揺られて家に帰る。
もう少しで終わる…いやなかったことになる人生。
胸に灯ったのは安堵だった。
あたたかさだった。

どうか、誰かが幸せでありますように。
今よりも幸せでありますように。
欠け始めた月に見下ろされて、ゆらりまどろみ始める。



※GakuTenSoku。アンドロイドと同義。

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