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自堕落なマヨネーズのように 4/25

日記(エッセイ)を書こうと思う。
この日記はいわばドローイングのような作業で、自身の創造力を活性化する目的として書いている。

同窓会の誘い

昨日、同窓会の誘いが来た。もう20歳か。個人的な感覚として、高校の頃の友達とはいつでも気軽に会える感じがするんだけど、中学の頃の友達には特別な時間的距離を感じる。それは高校生という"超思春期"をそれぞれ別の場所で過ごしたことによって生まれる距離だ。あの頃からみんなはどんな人に出会って、どんな価値観を手に入れて成長したのかな。未熟なまま離れ離れになって、それぞれが成長した状態で再会する緊張感。書いてるだけでドキドキしてきた…
こんなことを考えてしまうぐらい、私は過去の思い出を凄い大事にしている。だからこそ”エモ”を簡単に演出するコンテンツは好まない。ただ、そんな私が大好きなスーパーエモコンテンツがある。
新海誠の「秒速5センチメートル」だ。私は彼を兼ねてよりスーパーエモクリエイターとして勝手に評価していた。

以下、多少のネタバレあり

あの時のあの子は今何をしているだろう。


「秒速5センチメートル」は一人の主人公の恋愛を地続きに描いた短編3作の連作で、1部では小学生~中学生、2部では高校生、3部ではその後… といった感じの構成となっている。
基本的にそれぞれの年代の恋愛を描いているのだが、2部の高校生時代で主人公とヒロインは遠距離恋愛の形になり、結果自然消滅する。※1
この時最も重要なのは、その間に一度もヒロイン側の描写がないということだ。主人公と鑑賞者は、今彼女が高校生になってどういう人と出会って、どういう変化をしているか全く知る由もなく、途轍もない不安に駆られる。
それに加えて3部においてもヒロインに関して細かな描写はなく、結果的にヒロインが描かれるのは1部のみにとどまっており、物語が進むごとに彼女の存在が抽象化していくのだ。最終的に主人公は抽象化しきった彼女をふと思い出すように、あるいは忘れられないように生活していく。


「秒速5センチメートル」で描かれている抽象化というのは前述した、「高校生という"超思春期"をそれぞれ別の場所で過ごしたことによって生まれる距離」に近しい感覚のものだろう。きっと同窓会で会うみんなは私が覚えているみんなとはちょっと違っている。だからきっと昔の思い出話ばかりしてしまうだろう。そんなことを思いながら、私は同窓会に参加する旨を伝えた。




1.実際には中学時代から遠距離恋愛の状態にあったが、文章の便宜上、2部の高校時代からヒロインの描写がなくなるといった契機をもとに遠距離恋愛と表している。


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