「唇と唇 瞳と瞳と 手と手」がもたらすのは/ 郡司ぺギオ幸夫著「やってくる」感想

無限に広がる地からどうにか一定の形を保つ図を引き上げる。それはたっぷり張られた豆乳の中から今にもデロンと溢れ落ちんとばかりに掬い取られた湯葉の姿であったり、あるいは気を抜くと液状化してしまうドロドロの片栗粉を必死に捏ね続けるようでもある。リアリティとは一瞬たりとも目が離せない、流動する生ものである。地と図がなすギリギリの緊張関係の末に「やってくる」。何が。何かが。

疑いないように思われる現実はなんとも覚束ないもので、圧倒的に現実「でなはい」可能性に躍動する生がある。
例えば、目の前の猫。これは縞模様の被毛に覆われ、なおかつニャアと鳴く。その意味で「猫ではない、というよりはむしろ猫」という程度のほどほどの距離感でもって目の前のこれを猫を認めてみる。
その背後に潜在する、「猫ではない」可能性が見え隠れし、「ではない」部分の豊かさに何やらとんでもないものを嗅ぎつけ、興奮する。

P82「潜在する「Aではない」の有する力こそが、「Aでないというよりはむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げている。

郡司ぺギオ幸夫 /『やってくる』

これは、現前する「あなた」に対するまなざしでもある。

川本真琴の1/2という曲がある。
このサビで、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手 神様は何も禁止なんかしてない 愛してる 愛してる 愛してる」と歌っている。
唇瞳手、どれも主語がない。
もっとも、「境界線みたいな身体がじゃまだね」と曲の序盤にあるが、ここでの身体は誰の身体なのだろうか。

私のものでもあって、あなたのものでもあると同時に、私のものではなくて、あなたのものでもないのではないか。

「やってくる」中の表現で言えば、「唇と唇 瞳と瞳と 手と手」という対応は、互いに問いであると同時に答えであり、問いでもなく、答えでもないのではないか。

つまり、唇と唇 瞳と瞳と 手と手は「恋してるチカラに魔法をかけ」られたことで発動する、互いに照り返し合い、限定づけながら可能性を解き放つ、リアルタイムな現象なのではないか。
唇も瞳も手も、互いに規定しあうことでやっと認めることができるくらい、微妙で不安的なものだ。それは、誰のものでもないから、私のものでもあり、あなたのものでもある。それくらい存在の定義はあいまいで、あるかどうかもわからない。
いわば「唇と、唇 ?  瞳と…瞳と、 手と手、、!」くらいの、たどたどしい手探りの過程が、「見染め合い」のようなプリズムのまたたきとして現出する。西田幾多郎は「自覚について」において「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。」と言っていたが、こういうことだと思う。

そこに、はかなくも確かな、リアリティのきらめきがあるように思われる。

すでに知り尽くしたかのように思われた、見知った「あなた」の「あなたではない」外部が目の前でどんどん展開される。あんな輪郭も、こんな曲線もあるのか。そんな相槌も、どんなまばたきも、全てが新たに「やってくる」。
それは創発に立ち会うということと同義であり、予想もしないような、「あなた」性の奔流に翻弄されるということである。それはあまりに圧倒的で、「あたし」は呑み込まれ、骨抜きになるしかない。

だから、「苦しくて せつなくて 見せたくて パンクしちゃう」と続くのである。ここでポイントは「見せたくて」である。
目まぐるしく開示されつつある「あなた」に「あたし」も全身で追いつこうとするのだが、あなたが眩しすぎてできない。その甘苦しさや、絶対的に足りない感じ。しかし同時に、「あたし」は外部を歓迎していて、受動的であることにまんざらでもなさそうである。

そういう核心をつく気持ちを「素敵すぎて」、「かっこよすぎて」→「あたしもうダメ」→「なんとかして神様」という超女の子な刹那パッションに凝縮し、バイオリズム的な部分ともひっかけながら歌うところが川本真琴のすごさで、そういうギリギリさが魅力なのだ。
意味を限定しながら、限定を解放する。こうした位置関係が絶えずずらされながら発展する対話こそ、「理解を召喚するずれ=スキマ=ギャップ」を導くという。

ほぼ川本真琴の話になっちゃったけど、郡司先生の「やってくる」、ちょっとヤバいんではないかというほどおもしろい。おすすめです。


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