レヴィナスと井筒、ドーナツの穴

レヴィナスを読んでいるとやっぱり井筒がチラついて、斎藤慶典先生の「「東洋哲学」の根本問題 あるいは井筒俊彦」を読み直している。

斎藤先生は現象学を専門とされており、レヴィナスに関する著書も色々と出されている。おそらく「存在があるということ」への根本的な疑問が派生して、井筒俊彦に向かったのだろう。
したがって、こちらもレヴィナスを読んだ後だと、著者の論点がどこに発端があるかがわかり、以前読んだときよりもずっと面白い。

本書の議論は、「真空妙有」への批判的論考によって進められる。「無」が即座に「有」に結びつくことへの問い直しである。
このことをドーナツで例えるとすれば、ドーナツの穴という「無」に対して、「ここにはまだ見ぬドーナツの兆しがあるのだ」と顕在せぬドーナツの存在(有)を当然のこととして仮定してしまう発想、無を前にして無根拠に「あるべきドーナツ」を規定する、その前進的なメンタリティがわからん、「無」に対して不徹底ではないか、ということだ。

一方、穴に端的に穴として沈潜せざるを得ないレヴィナスは、ドーナツの穴に直面した時に、穴という「ない」が忽然とそこに「ある」ということに極限まで吸い込まれ、ドーナツの可食部(小麦粉でできた輪っかの部分)が「なかったかもしれない」という存在しなかった過去が身体を貫いて交錯するのに慄き、そのうち自分が穴を見ているのか、穴が自分なのかよくわからないグシャグシャの地点まで一気に行くイメージがある。
これに対して、井筒にとってドーナツの穴は、あくまで豊穣な「有」に向けて蠕動している肯定的なものだ。そのため、ぽっかり空いた穴に対してもその内側から生成されるであろう、まばゆいドーナツを認めうるというか、ミスドでいえばハニーディップがエンゼルクリーム (穴なしドーナツ、この言い方は大きな語弊があるが)へ流転変化する「生命の期待」とも言える態度が根底的なスタンスとしてあるのではないだろうか。
語弊があるとした部分に関して言及すると、そのような、生きつつあるエンゼルクリームはエンゼルクリームとしての姿を認めた途端に自ら安定した存在に穴を開けてしまうのだが、そのうごめき、隆起する織物の流れに生命をみている

個人的な見解では、かつての私にとって井筒のいう「有への潜在性を秘めた無」という発想は美しく煌めいたイメージとして感覚に到来し、実際がどうであろうと穏やかで淡い美への信じたさを込めて「そうであってほしい」という救いであった。しかし、レヴィナスの立場もよくわかる。穴に吸い込まれるときの、足場のぐらつきや、ぐわんとした眩暈の感じ。

「ある」を端的な無、一切の主語を伴わない純粋に宙吊りの動詞としての「ある」ではなく、常に有に転じるエネルギーを潜在するものとみた井筒は、レヴィナスと同様に存在の深淵と触れていたものの、思考における「身の置きどころ」が異なるといえる。それは、思考の手前で、思考者のそもそもの資質に宿っているものとも考えられよう。
「無」から「有」が展開されていく営みに目を向けていた井筒は、その点健康的というか、レヴィナスのような病理的な危うさは感じられない。やはり、レヴィナスの離人親和的な感覚、今にもここで「消えて無くなってしまうこと」から必死で抵抗して、繋ぎ止めているという、生きることの難儀さ、不如意さが、彼の思想の根幹に脈づいているように思われるのである。

巻き爪がひどくなって自分自身の肉を抉ったり、重度の歯軋りによって歯肉から出血してしまうことがあるというが、レヴィナスが「外傷」という言葉によって表現する事柄は程度は違えどこれと似ている。核心的なのは「外から」直接的に負った傷ではなく、むしろ「外から傷を負うわたくしによる自傷」、内側から蝕む生傷、つまり生きること、息を吸うこと、息を吐くことの切々とした苦悶が自分に跳ね返ってくるという、内在構造があるのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?