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「届いているのに、届かない」状況をファントム理論で考えた その②

その②では、冒頭であげたカップルの話から「届いているのに届かない」状況を、その①で説明したファントム理論に基づき段階を追って考えてみる。
自分でも試行錯誤しながら、色々な説明を試してみたい。

〈事例〉

ちょっとしたすれ違いから、カップル間の口論が痴話喧嘩に発展していく。彼女は時間の経過とともに声のボリュームが大きくなり、しまいには「なんでわかんないのよおお!」と通行人がギョッとするほどの声量で泣き喚く。彼氏はしどろもどろで的外れな応対をしている。

〈問題〉

相手に音声は物理的に聞こえているのに、明らかに相手の心に届いていないという、心理的疎通性に乏しい状況がある。これは、不安感や不気味さ、苛立ちなど、ネガティブな印象として体感される。そのような時、発話主体は感情的になって思わず声を張り上げてしまう。この過程に何が起きているのか、考察する。

〈分析〉

・言葉の主体的・精神的側面を「ことば」、客観的・物質的側面を「コトバ」とすると、ことば=A、コトバ=Bというパターンが見える。

・健全な対話では、言葉の体験様式は図1のように、A-Ffの並びになる(われ→自我→コトバ→ことば)

図1


あくまで、コトバは「われ」が率いることばの領域に収まるものであって(ことば>コトバ)、「自我」はコトバまでしかその権威を示すことができない(EF対応)。そのためか、ことばにはどこか神聖な響きがあり、われ-ことばの結びつきは聖域空間のようである(と思いたい)。

・しかしながら、音としてコトバは届いているのに肝心のことばが届いていかない場合では、本来B極はF-fとなっているはずが、f-Fに逆転する。
したがって、ここでの軸の並びはA-fFとなる(われ→自我→ことば→コトバ)(図2)。
※以下で解説するが、これは安永先生言うに離人症の症状とされる記号順と一致する。

図2

つまりこれは、本来は主体の下で話されるべきところ、形式的なコトバだけが主体を追い越して上滑りする状態である。

・ここでのf-Fの間のギャップ(安永語では「裂隙」)は「こいつ、絶対聞いてない。わかってくれてない」というモヤモヤや、転じて「どうして伝わらないんだ!」というもどかしさ、そばにいるのにそばにいないような歯痒さ、苛立ちとして体感される。「転じて」というのが地味に重要で、苛立ちなどの攻撃性の手前には、本来であれば届くことばが届いていかないという戸惑い、主体にとっては窮地に立たされるようなたじろぎ、うろたえのモーメントがあると考えられる。

・このB極の逆転によって、e主体は一瞬ぐらっと脅かされた後、フラストレーションの増大へと転じる。欲求不満はすなわちeエネルギーの増加であり、これは体験強度a系の増大を意味する。

↑ここまでは、オリジナルの理論そのままだが、以下は若干自分の想像が含まれる。

eに対応するfは、物自体に近い概念のため、直接体験することができない。そのため、fを操作しようとすれば、それは経験可能なFによって代弁される事になる(ことばが伝わっていかないのだから、コトバによって物理的に解決するしかない)
・そこでf-Fの間のギャップに対応しようとしたeの試みが、「声を大きくする」という行動によって表現される(定まった形を持てないeの欲望をEによって外化・補償したイメージ。主体側A項のエネルギーが増大するため、A-fFとAを相対的に大きく表記するといいかもしれない)

※A-fFは離人症の症状とされる記号順と一致する に関して

離人症では、自分の世界と外界の間に霧がかかっているようだとか、世界がガラス越しに見えるという体験様式がある。

いくら話しても相手に「この私」が入っていかない、「通じた」という安堵感が得られない時の焦りを伴う感覚には一種の疎外感があり、見えないゼリー質の薄膜で隔てられているように感じることがある(これは、夢の中でいくら走っても足がもつれて進まない感覚や、水の中でしゃべっても言葉にならない状態に似ている)。

参考までに、以前「精神の幾何学」を読みながら覚書として描いたイラストを貼る。言葉体験においても似たようなものだろう。
ちょっと記号が矛盾しているところがあるが、イメージは多少伝わると思う。

正常なA-Ff(われ→自我→コトバ→ことば)
打てば返される手応えのある対話
「届いているのに、届かない」A-fF(われ→自我→ことば→コトバ)
薄膜越しに外界が広がる
体験としては、こんな感じ
外界は彼方へと遠のき、それにしたがって私は遠ざかる。

つまり、コトバが生きた主体から遊離し、相手に届いていかないという言葉体験には、離人症と類似した質の外界からの隔絶感が存在していると考えられるのである。

〈考察〉

「届いているのに届かない」状況におかれた主体は、離人感に匹敵する類の周囲からの隔絶感を感じるそこで「声を大きくする」という行動は弱体化した主体に対する反動としてのエネルギーの増大であり、それは主体のなす決死の行動、苦肉の策に他ならない。
・それに対して「デカい声出すなよな…」「聞こえとるわ」とか思ってしまうのは、端的に気の毒である。
・社会からの隔たり感、疎外感によって声が大きくなってしまう現象として、認知症の高齢者はまさに上記のような心境にあるのではないかと思われる。

〈結論〉

感情的になって喚き散らしたり、怒鳴りまくっている人は、内心は多大なる孤独感を感じていたり、届かなさにのたうち回っている可能性があるため、こちらぐらいは優しく労ってあげるか、少なくともそっとうなずいて“ことばを”聞いている感を出してあげると良さそうである。なお、そこで「コトバ」的側面に働きかけるのは効果がないか、かえって火に油を注ぐ事になる(話の内容について字義通りにマジレスする等)



以上、思い立って考えてみた次第である。
ファントム理論は、そもそも統合失調症の体験を理解することを目的として使われているのだが、通常の我々の体験世界を客観視する上でも役に立つし、何より日常的な体験をパターンやファントム理論に透かしてみると楽しい。

自分の中でファントム空間を立体的に立ち上げて、理論的に記述された内容と合致する感覚を探り当てる作業は、ギターのチューニングに似ている。基準音(文章)に対して、ペグを回すように自分の感覚をじわじわ探っていくと、ここだ!とハマる一点があるような気がする。そのようにして次第に文章が会得されるのが、とても面白い。

身体で読んでいくうちに、今度はこちらが外界に対してファントム空間の網を自在に被せられるようになるものだと思う。そうなったら、世界の解像度はものすごく上がるはずだ。少なくとも、「パターン」によって世界を見るだけで、既にだいぶ違う。安永先生は、パターンの基本論理を掴むと、他の哲学の「骨格」もよく見えるようになる。と述べている(この、骨格という表現が非常にわかる)。
これは、現実離れした硬質な形而上学ではなく、日常生活を快活に楽しく健康に過ごすための開かれた術(すべ)なのであって、パターンでいうところのA性に由来し、A性に寄り添うものなのだ。

参考文献 
安永 浩(1987)「精神の幾何学」


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