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カリフォルニアの青もしくはベーグルの記憶

「ベーグルってバターいれないの。知ってる?」

そんな会話を10何年か前に、隣にいた誰かとした気がする。

はじめてベーグルを口にしたのは、カリフォルニアのサンフランシスコだった。リュックサックを担いでいったスーパーで、袋入りのそれを買った。

がらんとしたアパートのキッチンで、横にナイフを入れそいつを半分にし、トースターで焦げ目をつけて、カロリーの概念を無視してクリームチーズとブルーベリージャムをたっぷりとぬると、カリカリともちもちの食感で天国にいけた。

それから日本でもベーグルがばんばん流行って、ドライフルーツがぎっしりと入っていたり、チーズが練りこまれていたり、目移りするような華やかでおいしいものを食べた。

けれども記憶のなかの"人生暫定1位"は、あの青いカリフォルニアの空の、武骨なダイニングテーブルで食べたベーグルなのだから、人生ってふしぎだ。

人は、家にこもると小麦粉を練るらしい。

塩、砂糖、イースト、ぬるま湯、そして小麦粉。スマホをなぞって見つけたレシピに習い、どばどばとボウルに入れる。ぐるぐると混ぜて、白い塊を作る。ぎゅっぎゅっと力を込めてこねる。まとまりはじめる白い物体を見つめながら、頭のなかも真っ白にする。

切り分けた生地たちは、ふわふわとやわらかい。くるくるドーナッツ状に丸めると、できあがりの形が見えて愛おしさが増す。

ぱつんと膨らんだ変身前のベーグルを、そっとゆらゆらと湯気の立つ鍋に入れる。この過程がなければ、正しい姿にはなれない。細々と操作するキッチンタイマーをなにかの儀式のように思う。

適切な温度に温められたオーブン。やがて漂ってくるたしかにパンの焼ける匂いには、おだやかな夢がつまっているといってもいい。

焼きたての熱々を、半分に切る。クリームチーズを塗って、ピンクのスモークサーモンをのせる。隣では、娘がレーズン入りのベーグルを頬張っている。

ニュージーランドの強力粉のせいなのか、もちもち感が若干足りない。それでも、カリカリと一緒にサーモンのしっとりした脂が口に広がれば、これはこれで天国にいける。

窓の外の空を見ながら、カリフォルニアの青はもっと青かったな、なんて思う。

なんどベーグルを口にしようと、きっとあのときの味が塗り替えられることはないのだろう。

あの日、隣にいた人がどんな風に笑っていたかなんて、とっくに忘れてしまったけれど、ベーグルの食感は記憶に残っている。そういうのは、人生のふしぎでもなんでもない。



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