カーリーヘアーに憧れて

「お母さん、かみ、くるくるにして」

朝、家を出る10分前。私が鏡の前で化粧をしていると、娘が話しかけてきた。

娘の髪は、夫に似てストレート直毛である。あと、とても明るい栗色をしている。私たちはニュージーランドに住んでいるので、娘のクラスメイトの髪の色や髪質は多様だ。

ブラック、ブラウン、ブロンド……きれいなクルクルの髪の毛の子もいれば、やわらかいストレートヘアーの子もいる。

娘はあこがれている。仲良しのお友だちのような、毛先がくるんと丸まった髪に。自分にないモノを、手に入れたいと思う気持ち。うん、わかるなあと思ってしまった。

大前提として、直毛であろうがクセ毛であろうが、娘の可愛さは揺るがない(親バカの目線)。しかしながら、「ありのままを可愛いと思う」気持ちと、「ああなりたいと願う」気持ちは別物だと思う。

私はクセ毛だ。幼少期はくるんくるんの柔らかい髪の毛が、10歳を超えた頃から固い髪質になった。中学時代は特にクセが強く、「くるくるヘアー」なんて生易しいものではない「チリチリ爆発ヘアー」と毎日格闘していた。

「私もストレートに生まれたかった」とぶーたれる私に、母は「くせ毛も可愛いわよ」とフォローしてくれる。私の髪質は、母からの遺伝だ。自分の髪質が娘に受け継がれたという点で、母も思うところはあったのかもしれない。

しなしながら、どんなに親から言葉をかけられても、私は嫌だった。雨の日はおでこの上で爆発する前髪も。何も考えていないような男子たちに、変なあだ名をつけられることも。バレッタをはじき返す剛毛も。おしゃれなんて何一つ決まらないチリチリヘアーも。

校則のない高校に入学し、念願の縮毛矯正をあてた。ようやく、私は忌々しいと思ってしまうくせ毛からサヨナラした。

「なりたかった外見」を手に入れたことで、内面にも変化があった。おしゃれが楽しくなったし、もっと笑うようになったし、簡単に言うと自信がついた。

それでも、中学時代に抱いた容姿コンプレックスは、長く長く私の中に尾を引いた。

親としては、子どもが「ありのままの自分」と「なりたい自分」のギャップに苦しんでいたら、「なりたい自分」を手に入れる方法を一緒に考えたいと思うし、なるべく与えてあげたいと思う(可能な範囲で)。

中学時代の私は、心底自分のクセ毛が嫌いだった。だけど、同じような髪質でオシャレを楽しんでいる人にも憧れた。ありのままの容姿を好きでいる人は、強くてかっこいい。

コンプレックスを受入れることも、また、自信を生み出す。ただ、時と場合によっては痛みを伴う行為だ。なにより、30代で他人の目線にかなり鈍感になった私と比べて、繊細でやわらかく過剰と言えるほど外見を気にする思春期の心に、見るのもつらいコンプレックスを受入れろと他者が強要するのは酷であるなあと思う。

憧れや理想とする容姿を追い求めることは、かならずしも「ありのままの自分」の否定ではないと感じている。


髪の毛とのお付き合いは一生だ。年齢とともに、髪質も変われば自分の気持ちも変わる。

「なりたい姿」のあこがれが強い時期は、そちらに近づけばいいし、「ありのままの自分」を見られるようになれば徐々に受入れるのもいいと思う。そして、どちらを選択したからといって、片方を否定するわけではない。

いま、私は縮毛矯正をかけない。けれど、くせ毛に絶望してストレートヘアーに憧れていた10代の自分を愚かだとも思わない。縮毛矯正の技術は、確実にコンプレックスの谷に落ちていた私を救ってくれた。

月日は流れて、すぐにボサボサになるけれど、ゆるやかなカールの毛先の自分の髪の毛も、まあいいんじゃないと思っている。

そんなめんどくさい、髪の毛とのコンプレックスとお付き合いしている私は、朝の支度の忙しいタイミングで投げかけられた娘のリクエストにも付き合おうかなと思った。

ストレート用のアイロンで毛先をくるんとするだけで、柔らかい娘の髪はカールする。茶色の毛先が、ふわっと空気を含んだように丸まる。

「できたよ」と声をかけると、娘は鏡をのぞき込んで、いつもと違う毛先に触れ、えへへと笑った。

うん、可愛い。くるくるの髪の毛になった娘は、天使度が120%ぐらいアップしたように思える(親バカの目線)。

カールでもストレートでも、みつあみでもツインテールでも、ショートヘア―でもロングヘア―でも。君はなんだって可愛いんだよ。なりたい姿へのおしゃれを楽しむ娘に、私がかけたい言葉は、たぶんそういうことだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?