見出し画像

若葉のころの僕らは

風が運ぶ草をかき分ける足音。制服のシャツがつんと引っ張られる感触。声をきかなくても、まぶたが勝手にあいた。

「こーちゃん、いた」

ソーダーの水色が目立つアイスの袋が眼前で揺れる。肩先で切りそろえられた黒髪と、ほんのり赤い頬が見える。チカの背後に悠然と立つ鳥居の向こうに灰色の雲が流れ、気づけば空がすっかり夏の顔をしていた。

「すぐサボるんだから」

眠い4限目の数学を抜け出した俺の隣に、スカートのシワを丁寧に伸ばしてチカが腰かける。手にはオレンジの棒アイス。境内を抜ける風が、これから暑くなるよと告げている。

「アタリが出たら、やるよ」

いらない、と声を立てずにチカが笑うと、初夏のセーラー服から伸びる白い腕が余計にまぶしく光った。

同じ高さだった目線は、中学に入ってからどんどん合わなくなった。チカが話すとき、少しだけ左側に頭を傾けるのが俺のクセ。柔らかい息がかかる耳たぶは、いつも何かを我慢している。

お堂の縁側に落ちるクヌギの葉の影が、肌の熱を冷ます。石畳、提灯、太鼓の音。町を見下ろす景色のなかにはいつだってチカがいる。

なのに俺たちはもう、チューペットを当たり前のように分け合ったりなんてしない。たった5センチ左隣、白い歯が氷をかじる音が聞こえるのに。

誰もいない境内に風が吹き込んで、むせ返るほどの緑の香が舞った。



画像1

緑の壁に沿う山道を登ると、苔の蒸した階段の先にどっしりとした石造りの鳥居が構えている。お堂がひとつあるだけの境内は、巨木のクヌギの葉が光の玉をちらちらと落とす。

セミの鳴き声、蜜に集うクワガタ。小学生の恰好の遊び場が、夜になると魔法にかかると教えてくれたのは夏祭りだ。年に一度響く太鼓の音は町を守る神さまだと、ここらの子どもたちは聞かされて育つ。星に照らされた道祖神に太鼓の音が躍る夜、9歳の俺とチカがいた。


夏休みの初日、夕飯のカレーをかき込むと俺はスニーカーに足を突っ込んで跳ねた。プールの底の影みたいな空に昼間の熱気が駆けていく。ヒグラシの音を追い越す俺の長い影は、無敵だ。

山道のはじまりにある今にも崩れそうな駄菓子屋の店先で、丸まった背中がふわふわの白い毛を撫でていた。声を投げると、肩までの黒い髪がゆれて沈む前の夕日を浴びる笑った顔が見えた。

「こーちゃん」

普段は閉じた朝顔みたいなチカは、俺と一緒にいるときぱっと花ひらく。

「ポチ、じゃあね」

しっぽを振って湿った黒い鼻をならすポチに見送られ、俺たちは山道を登る。一歩一歩進むたびに、葉に、枝に、草に、夏の夜が降りてくる。昼が眠る香り、夜が動き出す音。等間隔に置かれた街灯が、淡い二つの影を導く。

さみしげな道祖神を過ぎると一瞬ぽっかりと永遠の闇が訪れ、きゅっとTシャツの裾を引っ張られた。

小学校の入学式や幼稚園のお泊り会。歩き始めた頃から顔を知っている友達の輪のなかで、チカは誰よりも俺の側にいた。チカの体温を感じると、どこかくすぐったいような気持になる。それはたぶん、母の抱擁とは違う、生え変わる歯やあっという間にちいさくなる靴と一緒に育ってきた愛しさの新芽だった。


黄昏の空を突く鳥居が目の前にあらわれる。石畳を歩く人影が本堂の灯りに照らされて、幾人かのクラスメイトに手を振った。

入り口で靴を脱ぎ、町会長にお辞儀をする。お堂は端から端まで徒競走ができるほどの広さで、跳び箱みたいなサイズから御神木のクヌギを切り倒したような途方もない円柱まで、大小さまざまな太鼓が並べられていた。

憧れだったつるりとした木のバチを手に取る。精一杯の打撃を跳ね返す皮面。ひとつひとつ全身に響く痺れに、俺は口元がムズムズした。

稽古初日、新メンバーは基本の「き」すら形にならない。数回太鼓を叩くとヒョロヒョロした腕が先に根を上げた。ちゃんばらごっこが始まる頃、青年隊の演武の時間になった。

おとなの隊員が一同に整列すると、お堂の空気の流れが止まる。口を一文字に結び、宙の一点を見つめる精悍な顔ぶれのなかに、ゴミを出し忘れ奥さんに怒られる斜め向かいのおじさんや、おつかいでコロッケを買うとオマケしてくれる肉屋のにいちゃんがいる。

ひとつ、息を吸う音。それが静寂を破る合図。磨かれた木の床を、灯りの届かない四隅の柱を、揺さぶる振動が一糸乱れぬ速さで波打ち、俺から瞬きを奪った。


あの夜、初夏の粒子を一粒残らず震わせた音は、俺の腹の底に煌々と燃える光を置いていった。名前を忘れられた神さまに捧げられた音色は、脈々と人の間で続く命のような力強さを放っていた。

隣では、練習でバチの重さに半べそをかいていたチカが、ビー玉みたいな目をさらに丸くして頬っぺたを真っ赤にしている。演武の音が去ったお堂に星の匂いがする風が吹き抜けていく。

練習が終わり迎えに来る親を待つ間、子どもたちへのご褒美であるチューペットを半分こして、縁側に座りチカと並んで吸った。

黒々とした木々の向こうに、ちらちらと町の明かりが瞬いている。怖くない夜が、じゃりじゃりと石畳を鳴らし帰路につく大人や、甘やかな氷にかじりつく子どもたちを包んでいた。チカとふたりで分け合う風の匂いは、どこまでもはじめての夏に続いていた。


画像2

住民総出で参加する夏祭りの数日前にもなると、町中があわただしく浮足立つ。

山道には、ぽんぽんと丸い提灯のあかりが灯り、境内には町を見渡せるやぐらが立つ。本堂までの石畳はタコヤキやリンゴ飴と書かれたテントに彩られ、一夜のためだけに繕いを整える町に生き生きとした開放感が漂っていた。

夏祭りにむけて連日続いた太鼓隊の練習は、厳しくないとはいえなかった。同じ年の子と比べてひ弱なチカは、満足に音を響かせる力がどうしても足りない。

「こーちゃん、どうしよ」

練習が終わるたび、目に涙をためるチカの顔を覗き込む。俺がでかい音で叩いてやるから心配すんなよと、オレンジのチューペットを半分渡すと、汗でしおれていた黒髪が幾分か元気を取り戻した。


祭りの前夜、太鼓隊のリハーサルを終えた俺とチカは縁側に座り、夕闇にいくつも浮かぶ提灯を眺めていた。チカの口数は、昨夜よりも今朝よりも、ずっとずっと少ない。じんわりと汗をかく8月の熱が落ち着かない。

目の前を行き交う大人たち。そのうちの一人に声をかけられた。明日子どもたちに配るチューペットが足りないという。高学年の太鼓隊はリハーサルの真っ最中で、青年隊は演武練習のほか祭りの準備に駆り出されている。山道を降りて駄菓子屋から3袋チューペットを持って帰ってくるおつかいを、俺とチカは引き受けた。

鳥居をくぐり太鼓の音が遠くなるにつれ、緑の隙間から染み出す夜が深くなった。一歩一歩進むたび、擦り合う葉や街灯に吸い寄せられる羽虫にまとわりつく闇が濃くなる。脇にじっとたたずむ道祖神がこっちを見ている気がして、夜道を下るあいだTシャツの裾を握る手のことをずっと考えていた。

駄菓子屋のばあちゃんは俺たちを一瞥すると、お祭りさんのは特別なんだとブツブツ言いながら店の奥に引っ込んだ。積まれた段ボール箱を引っ掻き回す音を背後に、チカは黙ってポチのやわらかな毛を撫でる。半ズボンから伸びた白い足に蚊が止まり、この夏なんども山道を行き来したスニーカーは土にまみれてくたびれていた。

「上の子たちの太鼓隊、かっこよかったねぇ……」

去り際に見た、高学年のリハーサルを思い出しているのだろう。町の子たちが参加する太鼓隊は強制ではない。向き不向き、熱意とやる気、才能と技能。様々なものが振るいにかけられ、中学生になるころには半分も残らない。女子はもっと少ない。

チカは次の夏、俺の隣にいるんだろうか。ポチを撫でるなめらかな手が、マメだらけの俺の手よりも、ずっとずっと小さく見えた。


散々待たされていつものチューペットを渡された俺たちは、小脇に抱えてもと来た道を戻る。変わらず街灯の光が弱々しい。山道の中ほどまできたとき、後ろからぐんっと引っ張られた。

「こーちゃん、なんか音するよ……?」

青ざめたチカの声に振り返る。等間隔で並べられた明かりが、緑の道を細々と照らしている。太鼓の音はまだ聞こえない。ぬるい風が葉っぱをゆらし、道祖神の頭に一匹の大きな蛾が止まっている。なんにも、と歩き出そうとした瞬間、

じゃららっつ……

鎖を引きずる金属音が、風にのって耳に届いた。それは、断続的に響き大きくなって近づいてくる。口の中いっぱいに苦い味が広がって、俺はチカの手をとって走り出した。

後ろから嫌なものが迫ってくる気配がする。喉が渇いて、抱える袋がずしりと重い。懸命に吐く息の音にチカが泣いている気がして、右手にありったけの力を込めた。くねった山道を曲がり、一瞬だけ街灯が木々にさえぎられて真っ暗になる角を抜ければ、お祭りの明かりが見えるはずだ。

地面を蹴ろうとした足が宙に浮き右膝に衝撃が走った。ぐるんと視界が回る。悲鳴が耳をつんざく。

泥が、手についていた。膝小僧が熱い。荷物は投げ出され、右手はからっぽだ。暗闇のなか、ひとり這いつくばる。

腹の底から声を出すのと、けたたましい金属音が目の前に飛び込んでくるのが同時だった。

力強くて柔らかいものが俺に覆いかぶさった。つづいて、フンフンと荒い息遣いと湿ったなにかが俺の足に触れる。ふさふさした毛に腕をくすぐられる。


「……ポチ?」

チカの声に顔をあげる。暗闇に目をこらす。白い毛並みをふわふわさせたポチが、チカの耳元に鼻を押し付けている。首輪には長い鎖が垂れ下がったままだ。

眼が慣れてくると、座り込むチカの膝小僧にも血がにじんでいるのが見えた。俺の手と膝はドロドロで、数歩先の道端にチューペットの袋が転がっている。肺が痺れる痛みに胸を押さえ上半身を起こすと、ポチが堪らないというように嬉しそうにしっぽを振った。

全身の汗が引き、体の奥ががくがくと開き力が抜けた。耳元で、ふ、ふ、ふ、とチカが泣き笑いのような声を出す。ビー玉みたいな目に、眉毛の下がった顔が映っている。

二人で笑い続ける間、小さな手がずっと俺の震える手をつかんで離さなかった。


***


境内に風がふく。縁側に座ると、いつだってあの夜の匂いがする。

締め切られたお堂には、夏祭りの出番を待つ太鼓が並んでいた。鳥居から伸びる石畳は整然とし、短く刈られた草がクヌギの葉から落ちる光の玉をとらえる。

「練習、明日からだねえ」

流れる白い雲に手を伸ばすチカの細い腕に、去年のお堂に響いた繊細なバチ運びと芯の通った音を思い出す。

「こーちゃん、来るよね」
「いくよ」

鳴きだした蝉の声が二人の間をさえぎった。手にもつ水色の塊が、ゆっくりと上昇する気温に負け、その輪郭をじわじわと崩していく。

机の引き出しにしまわれた太鼓のバチ。マメの消えた手の平。カバンの底でぐしゃぐしゃになった答案用紙。

あの夏は、ずっと続くと思っていた。一つのものを簡単に分け合えなくなったのは俺のほうだ。教室で俺じゃない誰かに笑顔を向けるチカを見ると、声変わりをした喉が詰まる。

たった5センチ左隣が触れられないほど遠い。夏の午後の日差しが境内に差し込み、まぶしさが増す。

「あ、たれてる」

目の前を、黒い髪が横切った。

俺の右手からしたたり落ちズボンに染み込んだ甘い液体を、チカがハンカチで拭う。黒髪からのぞく白い首筋。胸をくすぐる甘い香りは、お互いの舌に残る水色でもオレンジでもない色をしている。

変わらないね子どもみたいだねと笑うチカは知らない。俺が繰り返し思い出すあの夜も、いま俺の目が脳裏に焼き付けた白さも。

「代わりによこせ」

細い手首をつかむと、俺は残っていたオレンジのアイスを口に放り込んだ。ふざけた振りをする俺に腹を立て、一秒でも早く、なんでそんなことするのって赤い頬を膨らませてほしい。

それなのに、声はどこからも響いて来ない。蝉が静かに鳴きつづける。俺の前にあるのは、伏し目がちな瞳を縁取るまつげと真っ赤にそまった耳たぶ。

呼吸が、止まる。

「……あたり」

渇いた喉の奥から絞り出した声が、永遠の3秒間を溶かす。かすれた字が印された木の棒越しに、ビー玉みたいな目と視線が交わった。


夕日が町を包む頃、チカと二人で山道を下るだろう。駄菓子屋で不愛想なばあちゃんに棒を渡し、額を寄せ合ってアイスを選ぶ。食べたことのない色を手に取れば、一口ずつ分け合えるかもしれない。


重なった笑い声が緑の香る風にとけて舞う。鳥居の向こうに、はじめての夏の空がすぐ側までやってきていた。






写真提供:一誠(Twitter@Nikond4810


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?