キスをあげます
人生において、こんなにもキスされて、またキスを要求される日々がくるとは、ちょっと予想外だった。
私がソファーに座っていると、通りすがりにやってきて、ほっぺにキスして去っていく。寝る前には、「そういえば、キスされないといけないんじゃない?」と、図々しくもかわいい要求をしてくる。私がその柔らかい頬に唇をつけると、ちょっと大げさじゃない?と言いたくなるくらい、心の底から幸せという笑みを浮かべる。
6歳の娘の話だ。彼女にとって、キスとは愛をやりとりするコミュニケーションなのだ。
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日本でいえば、娘はこの4月から小学校1年生になる。私が彼女ぐらいの年の頃に、母親の頬にキスをしていた記憶はない。ましてや、布団にもぐって寝るときに、キスされた記憶も特にない。私たちがいま暮らしているのは、ニュージーランド。至極単純に、「文化の違い」を感じる。
1軒1軒のお宅を覗いたわけではないし、「ニュージーランド人のご家庭」の親子間愛情表現を調査したこともないけれど、距離は近いなと思う。誕生日会に呼ばれたら、ハイライトのバースデーケーキのろうそく消しで、主役の妻に夫がキスしていたり、学校に見送る朝に車から降りた子どものおでこに母親が軽くキスしていたり。
友人でも、会ったときに軽く触れあうようなハグをして、頬を近づけあうなんて接触も日常の範囲だ。10年住んでも日本人的コミュニケーションが抜けきらない私は、気後れしてやらなかったりするけれど。
体のぬくもりの交換をもって愛を伝えるコミュニケーションが、ごくごく自然にあふれている。
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だからって、日本で親子がキスするコミュニケーションがないとも思わない。たぶん、する人はどこでもするだろう。私は、もし日本で子育てをしていたら、こんな日常的にキスをしなかっただろうなと思うだけで。
せいぜい、おやすみ前におでこにキスするくらいかな?
お迎えで駆け寄ってきた娘のハグを受け止めて、周りに学校の保護者がいる状況で、娘から頬にキスされてキスを返す、はしなかっただろうな。
空気が変われば、それが清らかであったり柔らかであったりすれば、人は心地よく流されてしまう。愛の波に漂うのも、悪くないよ。
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愛を伝える最上級の手段は、言葉なんだろうなって思っていた。むしろ、とっておきの方法だからこそ、出し惜しみして伝えないほうがいいのかなと感じていたくらい。
いつからかな。忘れてしまったけれど。言葉以外に愛を伝える術を覚えたのは。朝に目が覚めて、夜にとなりで寝付くまで。笑顔でおはようって言うことも。汗でクシャクシャになった茶色の髪をなでることも。お弁当に大好きなイチゴを入れてあげることも。たぶん、何気ない愛なんだけれど。
それ以上に、抱きしめて体温を伝えるふれあいが、私と子どもという他人を、ゆるやかにつないでいる気がする。
夏の夕暮れにご飯を食べ終わって休憩していたら、娘がとなりにやってきてぬいぐるみを並べはじめた。おもむろに「Open」と書いた看板を掲げて、「キス屋さんでーす。キスほしいひといますかー」なんて、うれしそうに話しはじめる。
並べられたぬいぐるみたちは、イヌ、ネコ、ユニコーンとおとなしく順番にキスされて、さいごに頼んでもいないのに私の頬にキスしてきた。
お代を支払う代わりにおでこにキスを返したら、満足げな顔をして、しずしずと「キス屋」を撤収していたので、笑っちゃうくらい、胸に愛があふれてしまった。
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