終わりはどこにもないようでいて。
「ねえお母さん」とあんぐり口を開けた我が子を覗き込んだ。
ピンク色の歯ぐきから、白い頭がちょっぴりと顔を出している。2本の乳歯の横幅とおなじサイズの永久歯。はたして、この小さな口にまっしろでピカピカした大人の歯が入る隙間はあるんだろうか。
「お母さんも、小さいときこうやって歯が生えた?」
思い出せない記憶のかわりに、Google先生に「永久歯 乳歯の内側」と検索して「そうね」と答える。
ソファにぽんと座り、おずおずと指で前歯を触りながらテレビを見はじめる娘。変化はときに、不安も一緒につれてきてしまう。たとえ来るとわかっていても。
***
しばらくは続くだろうと思われた「触れない生活」は、南半球の冬の空気にまぎれて消えてしまった。
毎朝、窓に雨が注いだような結露がつく。この時期、寝起きの空は緋色に染まる。冷たい空気のほうが、やさしいピンクの色が映える。
庭のレモンの木の影を薄めていく朝焼けの空を行き来する飛行機が、4か月前の数%も飛んでないなんて嘘みたいだ。
空を見上げても、知らなければ気づかないことはたくさんある。予定していたカレンダーの日付にバツをつけるときになってようやく現実を飲み込める。少々の、切なさと一緒に。
4月と5月は溶けてなくなった。散歩しか許されない人々が、まばらに歩く秋の海辺は、出会ったことのないような静けさがあった。
気づいたら10年この国に住んでいる。それでも、終わりを迎えるときは春に桜色に染まる場所に帰れると思っていた。終わりは、ひたひたと私の周りにあり、クリック一つで航空券を買うように場所を選べるならば、それはとてもラッキーなのだと知った。
山の端をオレンジ色に染めて夕日が沈む。誰にも止められずに降りてくる夜につかまる前に、家に帰ろう。
***
冷たい芝生のグラウンドを裸足で駆ける娘が「歯がぬけた」と満面の笑みを見せてくれた。帰宅するやいなや、彼女は「歯の妖精」に手紙を書く。枕の下に歯を隠すから、教えてあげると得意げに言う。
2本いっぺんに抜けた乳歯は、すっかりと根が溶けていた。
変わる不安はあって、終わりはどこにもないようで、娘はこうやって少しずつ私の前からいなくなっていく。
カーペットに散らばったパステルカラーのレゴ、赤く塗られた小さな爪、虹色にはみ出した塗り絵。
彼女の目に映るものがすべて、生きるものに向かっているといいなと思う。できればずっと。愚かしくも、願う。
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