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遅れてきたGS(グループサウンズ)2

1960年代 前半(昭和30年代後半)博臣 @金沢

博臣の幼少時代を一言で表すとしたら……それは「テレビとの蜜月時代」とでも言えばよいだろうか。
彼が2歳の時、自宅には電気洗濯機も冷蔵庫も電気炊飯器もなかったが、テレビだけは既にあった。

昭和30年代のテレビテレビを持っていない家庭の方が多かったので、どうしても見たい番組がある時は、博臣の家の茶の間にご近所さん達が集まった。
母親はそれが自慢だった。
当時のサラリーマンの平均月収が4万円の時代に、価格が5万円もしたのである。それでもカラーテレビが出始めて、白黒テレビはずいぶんと安くなっていた。
そして、博臣はテレビコマーシャルが好きだったおかげで、随分と早く文字を覚えることが出来た。

満二歳の誕生日。
母親は次のように博臣のアルバムに記録している。
「シャープ 不二家 東芝 ニュース 味の素 森永 明治 日水(ニッスイ) コロンビア テイジン ママ パパ パン パブロン ヤクルト ベンザ ビクター ナショナル 日立 カネボウ アルペン テレビ リコピー キャベジン ポパイ ロッテガム ジェスチャー ……これらの文字を書いてやると読むことが出来る」
世の母親の常で、
「ひょっとしてこの子は天才かもしれない」
博臣の母親はそう思った。

好きだったのはコマーシャルだけではない。
好きな番組の放映が始まるのを、博臣はテレビの前に正座して待った。
特に好きだったのは、NHKの「チロリン村とくるみの木」である。

主題歌が流れ始めると、首を振り振り一緒に歌い出す。
登場人物たちの台詞もすっかり覚えてしまって、彼らと同時に口にする。
キャラクターの名前も全員憶えていて、
「ピーナッツのピー子!」「タマネギのトン平!」「クルミのクル子!」
などと画面を指差ししながら大声で叫ぶ。
そんな様子を見た母親は
「こんなにたくさんの人形の名前を覚えられるなんて、この子はひょっとして天才なんじゃないかしら」とまた思う。

当時、金沢では受信できる放送局は3つしかなかった。
NHKとNHK教育と、それに民放が1つ。
チャンネルに合わせて「1チャン」、「3チャン」、「6チャン」と呼んでいた。
手回しチャンネルはたった3つしか使われていなかったが、それでも当時は、国内の番組だけではもたなかったのだろう。アメリカ産のテレビドラマがたくさん放映されていた。
博臣が中でも好んで見ていたのが「名犬 ラッシー」だった。
犬とは思えないくらいの賢さをみせるラッシーの活躍に胸が躍った。

この番組の影響で、博臣は街中でコリ―犬をみつけると「あっ、ラッシー!」と叫ぶようになった。
飼い主が「頭なでなでしていいんだよ」と手招きしてくれるものの、大きな犬は怖いので近寄ることが出来ない。
「ラッシーおいで!ラッシーおいで!」
と言いながらどんどん後ずさりをしてしまう。
そんな様子を見る度に、博臣の母親は
「いろんな種類の犬がいるのに、コリー犬だけにこの子は反応する。ひょっとして天才じゃないかしら」とここでも親馬鹿ぶりを発揮していた。
日本中の子どもたちがコリー犬を見て「ラッシー」と呼んでいたことに、母親は気づいていなかったのだ。

当時、西部劇も流行っていた。
中でも博臣は「ララミー牧場」が好きだった。
この番組を目にすると、母親や父親に向かって

「手を上げろ!」
とホールドアップさせておいて、その後、バーンと撃ってしまう。
「だめだよ、博臣。手を上げたのに撃っちゃったら」
とたしなめながらも、やっぱり、母親は
「ちょっと卑怯な手かもしれないけど、この手だと絶対勝つことが出来る!やっぱりこの子は天才なんだわ!」
とはしゃいでいた。

その他には、時代劇もよく見ており、特に忍者ものが好きだった。
ビニール製の刀とライフル銃を、兵児帯をたすき掛けにして背負い、腰回りにも帯をつけ刀を差した。銀玉鉄砲はガンベルトにつけた。
拳銃を抜き「バン」と口で言ってから指でくるくる回し、銃口をフーと吹くのが格好いいと思っていた。

食べるものの中では、博臣の好物はカレーライスだった。友達から、
「ヒロオミ、ごはんで何が一番好き?僕、一番好きなのはライスカレー!」
と聞かれると、間髪入れずに
「僕もカレーライス!」
と答えていた。すると、
「僕が先に言ったんだぞ!ヒロオミの真似しんぼ!」
などと言われたりもした。
そんな時、博臣は
「違うよ。僕はカレーライス、しゅうちゃんはライスカレーって言った!」
こんなふうに相手をやりこめるだけの知恵もついてきていた。
実際、ライスカレーと言う方が周りでは多数派だったが、博臣は断然カレーライス派だった。
「ライスカレーって言うと、全然ハイカラじゃないし!」
と思っていた。
幼稚園のお弁当に冷めたカレーを持参して食べていたら
「あーっ!ヒロオミ、お弁当を匙で食べている。赤ちゃんみたい」
とからかわれて泣かされたことがある。
すぐに、担任の先生が
「ライスカレーは、お匙で食べるのが当たり前でしょ。お箸でライスカレー食べる人なんておらんわ」
とワルガキどもを叱ってくれたが
「ライスカレーじゃない、カレーライスだ。……それから匙じゃなくて、スプーンだ」
泣きながらも、そんなことを思っていた。
スプーン…そう、匙なんていうのはハイカラじゃない。そしてそのスプーンも子ども用のプラスチックのではなく、銀色のピカピカしたやつでないと。さらに、テレビコマーシャルでやっているように、水の入ったコップにドブンとつけてから食べるのが好きだった。
また、カレールーをライス全体にかけるのではなく、半分だけルーをかける食べ方が好きだった。
専用の銀の器にカレールーが入っていて、それを少しずつライスにかけて食べるのが流行るのは、かなり後の話になる。

当時は、次々とカレーの新製品が発売になって、その度に、テレビコマーシャルが流れていた。
一番好きだったのは「エスビーカレー新型」だった。味が好みというよりも、ともかくそのコマーシャルが好きだったのだ。
ターバンを巻いた芦屋雁之助が、カレーを一口食べた途端に、
「インド人もびっくり!うまいっ!」
と叫んで開脚ジャンプをする。

博臣はかなりの偏食だったが、カレーにさえ入っていれば、不思議とにんじんも玉ねぎも食べられた。
博臣のお願いは
「僕はカレーだったらお野菜も食べられるから、毎日カレーにして!」
というものだった。食の細い息子に何とか野菜を食べさせようと、いきおい母親も連日のように食卓にカレーを並べるようになった。そのため、
「また、ライスカレーか!」
会社から帰ってきた父親が露骨に嫌な顔をすることも多かった。
父親は、スーツのネクタイを外して着物の兵児帯を締めると、ちゃぶ台の前に座って、まずはビールの栓を抜く。
博臣の父親は大変恰幅がよく、着物がよく似合っていた。
晩酌のアテはちゃんと用意されているのだが、カレーはご飯の〆には合わないのだ。
ビール、熱燗と続き、その間に、おかずも平らげ、最後に、白米とみそ汁と漬物で〆るのが毎晩のルーティンだった。

1965年、博臣、5歳の誕生日。

産院で一緒だった由美と明の母親はどうしても都合が付かず、
「今年は、子どもの誕生会なんかしない」
と言っていた。かわいそうに思った博臣の母親は、自宅で3人の誕生会をしてやることにした。
「ヒロちゃん、お誕生会に何食べたい?」
「僕、カレーライス!」
「えっ、ケーキも食べるんだよ。ライスカレーと合うかな?ちらし寿司の方がいいんじゃない?」
とたずねても、
「僕のお誕生日だから、僕の好きなものがいいの!」
「みんなカレーが好きだし、僕たちの誕生会なんだから、僕たちが一番好きなものがいい!」
そう言い張ってメインをカレーライスにしてもらった。
ところが、実は、由美も明もカレーライスが嫌いだった。
博臣の母親は、カレーライスが嫌いな子どもがいるなんて思ってもみなかったので、すっかり面食らってしまった。

*この物語はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係ありません。

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