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「人並みに」という思い、それは家族を守りたい母の思い

私が小学生ぐらいの時、今から50年ほど昔になります。
新潟から横浜へ出てきた母。
生きるため、がんばるためなのか母がよく口にしていた「人並みに」という言葉を思い出す。
息子が二人、職を転々とする父。
故郷を離れた母にとっては知らない土地での不安定な生活の中、子供を育てるために負けられない母の思いがありました。


人並みに生活を守っていく

私が小学生の頃は、家はそれほどいい暮らしというほどではなく、両親が共働きでなんとかなっているような生活でした。

それでも母は子供を育てる中で、つとめて「人並みに」を意識していていたように思います。

母が疲れたり、落ち込むとため息のように

「お前達には・・人並みに生活できるように・・」

そんなことをよく口にしていました。

小学校で用意する物や服、食事などできるかぎりの準備をしてくれました。

当時は小学校で使う物には母の手仕事で用意してもらう物が多かったのです。

学校の掃除で雑巾がけをすると言えば、古いタオルを縫って作ってくれた。

音楽でリコーダー(縦笛)の授業があってそれを入れる袋や、その他、巾着ぽい袋はだいたい母の手作りだった。

そうそう、地震の避難訓練の時に小学生がかぶる「防災頭巾」なんてのもありました。
頭から肩までをすっぽり覆うようになっていて、中綿が入っている頭巾。
年代や住んでいた地域であったりなかったり違いがあるようですが、みなさんのところではどうでしょうか?
当時は店で売っていたりするところもありましたが、母は自分で作って持たせてくれました。

学校からは家で用意してほしいものを、お知らせの手紙で案内したり、先生から前振りで話があったりしたはずなのに、母に渡すのを忘れたりすっかり言い忘れたりして・・。

母に、急に用意させてしまい夜なべさせてしまったこともありました。

母はパートなどで昼間働いていたので、家に帰ってから洗濯物たたんで、買物して、食事作って片付けて終わったと思ったら子供の縫い物なんかして・・・。

母の時間なんてほとんどなかった。



母の世代はみんな同じようにがんばっていた

「人並みに」は、母だけでは無く当時のお母さん達はみんな考えていたように思う。

いろいろな物が少しずつ世の中に増えてきて、買い足したり、使ったりして取り入れながら、生活を良くしていくことに頑張っていた。

同じぐらいの子供を持つ家庭は環境も経済的にもスタートラインはそれほどかわらなかったと思う。

今はクーラーは多くの家にあるし、湯沸かし器も、お風呂もある。
洗濯機があるのは当たり前だし、乾燥機だって家によってはもっている。
本当に生活家電は充実しています。

買物も、よほど郊外でなければ仕事帰りに立寄れるデパートもあるし近所にはスーパーがある地域も多い。

冷凍食品は充実しているから買い置きもできるし、惣菜も間に合わせに買えるコンビニもある。

でも、そんな便利も時短もほとんど無かった時代。

赤ん坊のいる家では紙オムツなんてなかった。

オシメ(専用の布)を洗って繰り返し使っていた。

魚屋、八百屋、豆腐店、雑貨店、金物屋に銭湯、商店街が近くにあれば集まっているけど、無いところではそれぞれ離れた場所にあったし、早く閉まってしまう店もあってほんとうに大変だったと思う。

洗濯や買物、料理も日々継続、先を考えて動いていないと回らない。

自分の時間とからだ全部を使っていないと立ちゆかない。

それでも必要な物であれば、よその子供と同じようにそろえてあげたい。

子供にさみしい思いはさせられない。

人より良い生活をすることよりも、まずは「人並みに」人と同じように暮らせることを目標にていた時代。


女性らしい仕事はそんなになかった

母は近くの小さな町工場につとめていました。

事務職でなく工員として働いていた。

トタン板(薄い鉄板)で衣装ケースなどを制作している会社でトタン板を機械で切断したり、曲げたり、プレスで型を抜いたりする仕事。

工場の制服を着て軍手をはめて、機械油と作業音の世界。

今ならあまり女性が選ぶような仕事ではありませんでした。

安全管理も、「お互いに注意しよう」ぐらいで、機械に挟まれてケガをしたり指を切断してしまったりする人もいたと聞いています。

住んでいたアパートからはとても近かったので子育てのことや給与的なことを優先して決めていたのでしょう。

私は母の工場の近くの空き地でよく遊んでました。

当時の私は「鍵っ子」でした。
親が共働きで家にいないので鍵をいつも持っている子供のことをそう言ってた。


家庭を守って生きて来たのに・・。

母は60歳すぎたころ脳出血で倒れ左片麻痺になりました。
それから約20年。
何度か転んだり病気になったりして入院やリハビリ施設の入所、退所を繰り返しました。

少しずつ不自由になっていくからだに自分の気持ちを合わせて行くのはとても大変だったと思います。

当時の母は、からだの左半分が自分の意識では動かせなくなっていました。
左足には補装具を装着してぐらつかないよう固定して、左手は拘縮(間接が固まり)して肘が曲がったまま伸びず、右手、右脚で左側のフォローをしながら杖をついて歩いていまいた。

朝、洗面台へ行き杖を横に立てかけて、顔を洗うのでさえ全部右手でする。

気を抜いて意識が少しそれてしまえば、転んでしまうかもしれない。

それでも母は、ゆっくりコツコツとやれることをやっていた。

工夫をすればどうにかできるんだと・・。

ハンカチは胸ポケットへ入れ、ティッシュも一度使った物をズボンのポケットへ入れてまた使う。

すぐ使えて、すぐしまえるように・・。


日記もボケないようにと書いていた。

母は行動範囲が少ないので、あまり書くこともないのだけど天気や食べ物のこと、だれかと電話したこと等を思いだしながら1日1日・・・・。
1行でも2行でも書き留める。

病院へ通院する日に私が付き添うときも、保険証や診察券をいれた小さな
ショルダーバックを自分の肩にかけて、好きな帽子を選んでかぶる。

できないことは仕方ない、でもできるのなら人並みにと身支度を整える。

人様の前にでるのだから身だしなみはマナーだと言う。

それでも、時間は母のできることを奪っていく。


なんで報われないのだろう

80歳をすぎてまた再び脳出血で倒れて動けなくなり、もう口から食べ物を食べられなくなるかもしれない。
そう医師に告げられたけど・・。

「いや、でもなんとかしたい」

「これ以上、母から取り上げたくない」

病院に泣きついて転院し、食事のリハビリをしてもらい。

なんとかペースト状やとろみをつけた飲み物などは口から食べられるようになった。

でも食べられるものに制限があり、好きだった物も食べられない。
ときおり痰の吸引もしなければならない。

体幹も弱くなり、ささえがなければ椅子に座っていることもできない。

構音障害で言葉の発音が悪くなり、コミュニケーションが難しくなった。
母は、人が話しかける言葉は理解しているけれど、母が話す言葉は発音が悪く聞き取れない。
時々はっきり聞こえる言葉もありますが、ほとんど話している内容はわかりません。

最初に倒れてから、今までなんとかやってきたけど、母自身が好きなこともやりたいこともあまりさせてやれなかった。

ここに来て歩くこともできなくなるなんて・・・。

時々、認知症のような症状も出ていて、夜中に母にしか見えない人と話したり、天井を見つめて指を指しながら大きな声で騒いだりすることもある。

夜中に泣き始めるときもあった。
泣くというより嗚咽に近い・・・。
「ウッ、ウッ、ウォオ、ウォッ・・・」
母の部屋、ベッドで寝たままの母を見ると、目にいっぱいの涙があふれてる。
なだめても泣き止まないので様子をみるしかない。

「自分のからだの状態に心がついていけなくなってる・・。」
息子の私はそう感じるのだ。

母は、なんで報われないのか、私はそう思ってしまう。
人と同じぐらいでいい、人並みに家族と暮らして行ければいい。
そう思って頑張っていたはずなのになんで・・。

時代が変わり、冬にかじかんだ手で洗濯することも、食材の心配もしなくて良くなった。
時短の家電だっていっぱいあるし、息子はとっくに手がかからないから自由
な時間はたくさんある。
暮らしが苦しかったことも、大変だった子育てもみんな遠い過去になった。
なんだって好きなことができるようになったのに・・・。


寝るほど楽な世の中に・・・。

今、月の半分ぐらい日中だけデイケアにあずかってもらっているけど、
シート付の車椅子で支えられて座っているのがよほど疲れるのか、
夕方帰ってくるとベッドに横にしてもらってすぐに寝てしまい
そのまま目を覚まさないことが多い。

ほんとうに気持ちよさそうに寝てるんだけど、
からだのケアはしないといけない。
顔や手を拭いて、口腔ケア(口の中の清掃)したり、痰を吸引したり、
そして翌朝まで持つように紙オムツを新しいのに交換する。

紙オムツを交換していたとき、目が覚めて
眠りをじゃまするのはお前かあ~。
と言わんばかりに動かせる右手で私の脇腹をバシッ、バシッと叩く。
寝ぼけてか、幻覚を見ているのか、それとも息子が替えてるのが気に入らないのか。
「ばあがあ・・・ヴウアカアッ・・バ・カ・ヤロ・・ガア」(悪口?)
続けてバシッ、バシッ、と私の脇腹を叩く。

「ハイハイ止めてね」といっても何回もじゃまをするので
たまりかねて、
「ダメだっていってるだろがあ!」(暴言)
怒ってしまい母の方を再び見ると、ゆっくりと目を閉じて・・・。
「ぐおお~。ぐおお~。スウ~スウ~」(寝息・・!)
私は思わず笑いながら
「寝るのか~い?」

そういえば、母は元気で歩けるときから、夜、寝るぞと言うときに
「寝るほど楽な世の中に起きて働くバカもいる」(*1)
そんなことを言って寝ていたのを思い出した。

母は85歳になりました。
障害が残ったり、寝たきりになってしまったり確かに時間的には人よりソンしてるのかもしれないけど、母が人並みにと家族を守ってきたのに、報われていないなんて私が気にしているだけだね。
母がそういって悔やんでいるわけじゃない。
もし本人が悔やんでいたとしても、私まで落ち込んでもしょうがない。
母が守っていてくれた時代はきっとこんなこと考えて落ち込んでる暇はなかったんだから・・・。
これからも泣いたり笑ったり、母がもう少し楽しくできるよう一緒にいられればそれでよいのだ・・・そう思っている。

(*1)原文は江戸時代の狂歌でもっと昔言葉で言い回しも違うのですが
    母がどこからかこう(現代風?)覚えていたようです。








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