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未だに消えることのない、インターネットが持ち続けている悪しき風潮について

 SNSサービスや書き込み掲示板など、様々な方法で個人が情報を発信できるインターネット、その全盛の時代。

 多くの情報によって多くの人を助けたと同時に、インターネットは目を覆いたくなるような間違った情報もまた生み出してきました。そして、その間違った情報は完璧に正されることなく、その情報の根幹を確かめる手段を持たない、あるいは正否について強い関心を抱かない故に放置され、まるで正しいことであるかのように扱われている情報も多くあります。

 今回、私はその『間違ったまま伝わっている情報』の一つについて、どうしても気持ちに蓋をしておくことが出来ずに、この記事を書くことを決意しました。

 皆さんは『週刊少年サンデー』という漫画雑誌をご存知でしょうか?

 週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年チャンピオンと並べて4大少年誌と呼ばれる漫画雑誌です。

 国民的人気アニメにまで周知されている『青山剛昌』先生の『名探偵コナン』や、2018年に実写ドラマ化され2020年には映画化も果たした『西森博之』先生の『今日から俺は!』。また、掲載当初まで遡れば『赤塚不二夫』先生の『おそ松くん』、藤子・F・不二雄先生の『パーマン』、手塚治虫先生の『どろろ』など……そして、何よりも。少年漫画における女性漫画家の草分け的存在であり、多くの大ヒット作品を描き上げた『高橋留美子』先生の『うる星やつら』や『らんま1/2』、『犬夜叉』が掲載されていた創刊60年を超える大人気漫画雑誌です。

 そんな大人気漫画雑誌において、高橋留美子先生と同じく切っても切り離せない存在がいます。

 そう、『あだち充』先生(以下、あだち充)という天才の存在です。

 『タッチ』、一億部。『H2』、五千五百万部。『みゆき』、二千五百万部。作品の累計発行部数は二億を軽く超え、テレビアニメ化した作品は『ナイン』『陽あたり良好!』『タッチ』『みゆき』『H2』『クロスゲーム』『MIX』の七作品と輝かしい実績を持っています。今更、説明すること自体が失礼なぐらいの漫画家です。

 どの出版社も『第二のあだち充』を求め、多くの漫画家が『あだち充のような漫画を描こう』と目標にし、それでも、結局は誰もあだち充になることなど出来なかった、それこそレジェンド級の漫画家なのです。

 ここでタイトルと序文に戻ります。この仄暗きインターネットの世界の悪しき風潮として、異常なまでの『あだち充への軽視』というものがあります。嘆かわしい。本当に嘆かわしい。言葉を取繕わないで言うのならば殺意を覚えます。お前ら全員ペンギンなのか?インターネットは南極でもちゃんと繋がっているらしいな。

 誰も彼もがあだち充が本物の天才であることを理解していない、その才能を軽視している発言の数々がこのインターネットでは散見されているのです。

 『いやいや、あだち充がすごいことはちゃんと理解しているよ』『理解した上で親しみを込めて茶化してるんだよ』『だって『アオイホノオ』で言ってた』と人は言うでしょう。

 それがナメてると、なぜか気づかない。現役メジャーリーガーに向かって「君なら巨人に入団できるかもね」と言っているような、ソ連の鉄人であるアレクサンドル・カレリンに向かって「吉田沙保里ぐらい強そう」と言っているような、愚地克巳との会話で「現在の私は烈海王にだって勝てる!!!」と言っているようなものだということに気づいていないのです。

 日本は、日本人はもう駄目なのかもしれません。それでも、無くなったものは取り戻せなくても、間違ったことを正すことは出来るはずです。

 今回はこのあだち充先生のことについてまわる誤解と軽視について二つありまして、それについて触れながらあだち充の話をしたいと思います。

①キャラの顔が全部おんなじ。

 これは正しくもあり、同時に大きな誤解でもあります。

 確かに『陽あたり良好!!』の高杉優作、『タッチ』の上杉達也、『みゆき』の若松真人は同じ顔です。テレビ番組企画であだち充も区別がつかなかったことで有名ですね。ヒロインで言うなら、僕も『ラフ』の二ノ宮亜美と『H2』の古賀春華と『いつも美空』の坂上美空の区別はつかないと思います。

 ただ、この三人の男性キャラクターに関しては明確に理由があります。意図的に同じ顔に描いているのです。『いや、描き分け出来ないからそう描いたんだろう?』という言い方もあるでしょうし、いわゆるイケメン顔や三枚目顔ではない正統派主人公顔としての引き出しが少ないということを言いたいのかもしれません。

 ですが、同じ顔の造形である『虹色とうがらし』の七味や『ラフ』の大和圭介、『H2』の国見比呂らは髪型で些細ではありますが描き分けをしている一方で、先に上げた三人はそういったこともせずに明確に同じビジュアルとして寄せているのです。

 これはあだち充先生が仰っている『劇団あだち充』、『あだち充一座』の考え方で、「『あだち充劇団』の劇団員がいろんな役をしている」という考えで、そういった造形の顔立ちのキャラを使いまわしているんです。ちょっと違うけど、手塚治虫先生が採用しているスター・システムの代表的なキャラクターである『アセチレン・ランプ』を捕まえて、キャラの描き分けが出来ていないというようなものなんですよ。

 それに何よりも、その『同じ顔』というものにしても、あくまで別作品同士の間のことで、同作品内でその作品を読んでいて誰が誰だかわからない(名前と顔が結びつかないではなく、顔を見ても違いがわからないというレベル)ということはまずないです。

 『タッチ』の中学生編を読んでいて、浅倉南と篠塚かおりの見分けがつかないなんて本気で言う読者はいないでしょう。いるとしたら、それは実写映画版デビルマンのインタビューで「不動明と飛鳥了は同じ顔なので双子の役者を採用しました」と言い放った監督と同じですよ。

 『みゆき』の若松みゆきと鹿島みゆき、『いつも美空』の坂上美空と小久保都、『QあんどA』の前沢遊歩と大内忍。美少女と称される作中キャラクターで同じ顔だったことはないですし、むしろ、『H2』では国見比呂と橘英雄は同じ主人公顔で吊り目がちなのに比呂は丸みを帯びた顔で英雄は面長とかき分けが出来ている! いや、ごめんなさい。これはちょっと嘘だ。

 とにかく、同じ顔なのは確かですが、キャラクターとしての特徴は分けている上に、同じ作品で同じ顔のキャラクターは『タッチ』の達也と和也のような兄弟でなければ出てこない上で、それを欠点のようにあげつらうのはあまり良くないと思うのですよ。

②話の展開がどれも一緒。

 いや、これは絶対に嘘だろ!!!!!!!!!

 誰がどう読んだら『タッチ』と『H2』の展開が一緒に見えるんだよ! 『クロスゲーム』が『タッチ』の焼き直しって正気なのか!? 同じアプローチで全く別の物語にしただろうが! 『MIX』を明確に「今までのあだち充漫画の要素を混ぜ込んでアレンジした作品」と言っているのにめちゃめちゃ上手くアレンジして、めちゃめちゃ上手く組み合わせて、正しく『remix』にしている、稀代のストーリーテラーであるあだち充を捕まえて言うことじゃないだろう!?

 本当にこれだけは理解できない言説でして、それでも読み解いていくなら、『とにかく人を殺す』というものがあります。

 言いたいことはわかりますし、確かにあだち充作品ではよく人が死にます。それはサンデーで言うなら『藤田和日郎』先生の作品のようにキャラクターが燃え尽きるような死でも、他の戦争漫画やバトル漫画のように一般市民や一般兵といったモブキャラクターが巻き添えになるような死でもなく、ただ、普通に生活を送っていた人たちが、普通の生活の中で起こり得る病気や事故によって突然消えてしまうような死です。

 ただ、その死でも扱い方がまるで違います。

 『タッチ』はあるメインキャラクターがストーリーの中盤、起承転結で言うならば転にすら差し掛からないような場面で、本当に突然、交通事故で命を落とすという『死』が登場します。今まで双子の兄弟と幼馴染の少女という一歩間違えば泥沼になりかねない三角関係を、奇跡的なバランスと演出で爽やかな少年少女の恋物語としていてものを、そのキャラクターの死に囚われて今までのラブストーリーから逸れて別の物語になっていく『死』です。

 『KATSU』では主人公の実の父親が、実は今の育ての父親とのボクシングの試合でリング禍によって亡くなった天才ボクサーという形で『死』が登場します。その道半ばで急逝した天才ボクサーの血を受け継いだ主人公が、様々な理由で届かない夢を託されて、背負っていく……そんな継承という意味合いのこもった『死』です。

 『H2』では本当になんの予兆もなくメインキャラクターの母親が死んでしまいます。これに関しては『タッチ』にあった『なにかが起こっている』という予兆すらなく、本当に読者も作中キャラクターも一切予兆が出来ずに死んでしまいます。その死によって揺れるそのメインキャラクターを見た主人公の比呂が、ある一つの決心をしてライバルである英雄に恋の勝負を挑むという形になります。物語を終わりに向けて加速させるための『死』ですね。

 『クロスゲーム』では物語の開始直後に大好きな幼馴染が事故で死んでしまい、その大好きな幼馴染の死を受け止めて、乗り越えて、その大好きな女の子が居なくなってから喧嘩をしながらも過ごしてきたその子の妹に対して「世界で一番好きだ」と言う物語です。言うならば、受け入れて乗り越えるための『死』です。ここらへんは『タッチ』と似ていますが、『タッチ』ほどの間違っていく、囚われている描写はなく、過去に出来ているものです。

 『死』による別れはあだち充作品にとって重要なファクターですが、その『死』に対するアプローチと受け止め方はまるで違います。タッチは主人公とヒロインが死に囚われて逸れていって遠回りになってしまう形、KATSUは死によって奪われたけどそれでも残されたものが他の人の夢を背負っていく形、H2は突然の死によって突きつけられた初恋の女の子の弱さを自覚させられる形、クロスゲームは幼馴染の死という当たり前に起こりえる不幸を乗り越えるというよりも受け入れる形。

 同じように『死』を大きなものとして受け入れながら、その料理の仕方を見事に変えることで与える印象をまるで違うものとしているのです。

関係のない語り及び、本題

 重ねてなりますが、あだち充は天才です。

 あれだけのヒット作を生み出しても『第二のあだち充』が未だに誕生できていないぐらいには、あだち充は他に類を見ない、本物の天才の一人です。

 一度でもあだち充の作品を通して読んでしまえば、今のインターネットに蔓延る悪しき『あだち充に対する不相応な軽視』の空気は起こり得ないはずなのです。あの震えてしまうような演出力を前にして、そんな考えがどうして起こってしまうのか理解できない。ごめんなさい、これは言いすぎました。趣味は人それぞれですので。

 ただ。

 風景背景の中に、ラジオから出る実況のセリフを並べるだけであれだけの緊張感と夏の空気を生み出せる漫画家があだち充以外にいるでしょうか。それこそ両手の指というものです。

 セリフだけを見たら背中がむず痒くなって照れくさくなってしまうような台詞回しを、素直に受け止めて気持ちよくなってしまうようなテンポの良さを出せる漫画家があだち充以外にいるでしょうか。それこそ両手の指というものです。

 一度でもあだち充作品を読んでしまえば、その才能が日本の漫画文化においても飛び抜けた存在の一人だということはわかるのに、なぜかあだち充だけが異常なまでに軽視されているのです。

 『アオイホノオ』におけるホノオくんの「俺だけが……俺だけがあだち充のことをわかってやれる……!」という、本来ならば『読者の誰もがあだち充の天才性に気づいているというのに、ホノオくんは自分だけが気づいていると思い込んでいる』というネタを、本当にホノオくんだけがあだち充が売れることを予感していたと思われてしまっているんです。タッチをなー!1話から読んでりゃそんなバカみたいな考えにならないんだけどなー!はー!タッチを1話からちゃんと読んでたらなー!

 ちなみに上の『死』に関する例にはあげませんでしたが、『QあんどA』にしても死んでいた大好きな兄が幽霊となって現れることで、止まってしまった時が動き出すという演出になります。ただ、この『QあんどA』は『いつも美空』と並んであだち充が手癖だけで描いているので1~5巻が非常に退屈で、最終6巻のまとめに入った巻の完成度だけが飛び抜けているという困った作品なのです……天才でも、そういうことはある。

 読むのなら、まずは全11巻の『虹色とうがらし』か、全12巻の『ラフ』か、全12巻の『みゆき』といった入りやすいところ、もしくは短編集の『ショートプログラム』『ショートプログラム2』『ショートプログラム3』。そして、名作と名高い『タッチ』や『H2』に触れ、あだち充の天才性を理解してから、天才でも手癖で描いたら打ち切りに合うんだということがわかる『いつも美空』を読みましょう。

あだち充短編集・ショートプログラム3『天使のハンマー』

 最後に、お気に入りの話を一つ。

 これはあだち充短編集『ショートプログラム3』に掲載された『天使のハンマー』について語りたいです。

 雪の降る夜、仕事の都合で東京に訪れた心太(ところてんではありません)は、バーで一人の男性に出会います。

 心太はその男性が誰だかひと目でわかりました。ただ、少しタイミングが合わなかったことと、過去の男性と目の前の男性像がいまいち結びつかなかったことと、話に伝わっていた現在の男性とも結びつかないことで、自身の名前を告げるきっかけを逃してしまいました。

 一方で男性は心太のことに気づかず、自分が経営していた会社を潰し、妻と子供にも逃げられ、家申しなしてしまった身の上の話をこぼしていきます。曰く、『見ず知らずの人だから』と。

 男性はかつて日本海側の離島で暮らしていて、中学生に上がると同時に東京に引っ越した過去がありました。華やかな都会への引っ越しですが、大好きな友達とその思い出の詰まった田舎を離れることへの不満がありました。それでも仲間たちと交わした『都会の奴らに負けない』との約束を守ろうとしましたが、都会に行ってみればクラスメイトは塾に通って自分の知らない問題をどんどんと解いていく現実が待っていました。

 男性は自分の低い成績に、応援してくれた仲間までバカにされたような気持ちになり、それでもいつかは追い抜いてやると思って、仲間たちへの手紙に『自分は負けていないぞ』と返します。結局、それも全部嘘のままで終わってしまいましたが。

 そして、それは大人になっても同じで、会社を経営して成功しているという嘘をついたまま、最後に東京に仲間を招待して笑い合って、行方をくらますことを決めます。

 心太は、その男性────かつて慕っていた兄貴分である俊道を思って、自分のことを明かさずに、バーを立ち去っていきます。

 そして、電話で仲間たちに自分は俊道と会う日に都合が出来てしまったと断りを入れます。

 そのまま、本当のことを知ってしまった自分は俊道と出会わないままで決めた、その帰り道。心太の前に俊道が現れます。ナイフを片手に持って。

 俊道は今の薄汚れた身なりでは、『自分は成功者』と伝えている仲間たちと会えないと言って、心太の上等なコートやスーツを奪おうとします。心太は涙ぐみながら、そのスーツを渡し、俊道はスーツの裏地に書かれた名前を見て。最後のページに、腹部から血を流して雪を染める男性とかつての仲間たちの写真が写って、話は終わります。

 話にしてみれば、本当にただの虚しい話なのですが、だからこそあだち充の回想の使い方という最強の武器がわかります。話の途中途中に挟まれる、セリフのない楽しそうに笑っている過去の映像と、俊道に対する期待とそれに対して答えようとするセリフだけが描かれているコマ。この扱い方がべらぼうに上手い。話が、そこまで大きなパワーを持っていないすれ違いの話なだけに、あだち充の漫画力を痛烈に感じることが出来ます。

 ショートプログラム3は電子書籍でも購入できます。同じ短編集にも掲載されている、『北斗の拳』などの原作者である『武論尊』先生原作の『白い夏』や、天才投手であるものの女であるために甲子園にもプロ野球にも行けない幼馴染のために成り代わる『アイドルA』など、他にも面白い作品があります。

 『ショートプログラム3』、880円。電子書籍販売サイトで好評発売中。


最後に

 インターネットからあだち充への過剰な軽視が消え去る日を夢見て。

 あと『みゆき』のラストは結婚式の披露宴で主人公が義妹ヒロインをさらっていくのに、なぜかリアル結婚式でアニメ主題歌『思い出がいっぱい』を歌い出すあだち充エアプ勢だった現実に顔をしかめながら。

 みんなもあだち充を読んでほしいです、多分びっくりします。本当に天才なので。

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