見出し画像

季節はめぐり - 第三話

第一話はこちら


 秋本さんは、初出勤の一日が終わるまでそのやる気を途切れさせなかった。

 夕方になるころには、私が後ろにつきながらも、オーダーを取ってもらうのにもチャレンジしてもらった。今までのどのアルバイトの子よりもハキハキと喋るし、言い間違えた時の謝罪とか、お会計の時のお礼とか、言葉遣いがしっかりしている。そこまで踏み込んだことはまだ聞けないけど、多分、社会経験があるのだと察した。

 思い返してみると、秋本さんはサークルに居た頃から真面目でやる気に満ちていた気がする。未経験で入ってくる新入生の中でも、物覚えが早くてメキメキ上達する子と、なかなか要領を得ずに途中で飽きて別の楽器を始めたり、サークルをやめたりする子もいる。秋本さんは前者だった。

「期待の新人だねえ」

 お店を閉める準備をしながらオーナーが嬉しそうに言うと、秋本さんは謙遜して首を横に振りながらも、照れくさそうに笑った。

「明日も入るの?」
「はい。慣れるまでは毎日入ろうかなと思ってます」
「真面目」
「そのうち閉め作業とかも教えてあげてよ、香坂さん」
「もちろんです」

 初日だった秋本さんは私たちよりも早く帰り、私もやることを済ませたらさっさと準備をして、事務作業をするオーナーより先にお店を出た。慣れないことをしたからか、お店を出たら一気に身体が重く感じる。一度大きく深呼吸をして、朝の雨なんてすっかり忘れてしまったように澄んだ空気を吸い込む。

 そこから先は、期待の新人も誰もいない、いつも通りの帰り道。

 マンションの階段を登って、自分の部屋のドアを開ける。もちろん、電気なんてついていない。靴を脱いで電気を付けたら、嫌でも明奈の傘が視界に映る。不燃ごみの日に出し忘れないように、傘立てから抜いて玄関の隅に放り投げた。

 薄く埃が溜まりつつある床に鞄を放り投げて、ベッドに座って煙草に火をつける。明奈には換気扇の下に行けとうるさく言われたけど、今はもう関係ない。昼休みに吸えなかった分、二本続けて煙を吸い込むと、ようやく気持ちが落ち着いてくる。そしたらスマホを片手にベッドに転がる。今日は木曜日、だからマック。流れるようにウーバーイーツを起動して、近くのマックのお店から適当なメニューを注文する。これで夕飯が手に入る。とても便利。

 それから何をするでもない。そんなに面白くもないアプリゲームをしたり、YOUTUBEでつまらない動画を見たりしているうちに、夕飯の宅配が完了した通知が届く。そしたら重い体を起こして、玄関の前に無造作に置かれた夕飯を回収し、スマホ片手に半ば義務的に食べる。ゲームに飽きてきたら渋々シャワーを浴びて歯を磨く。ドライヤーで適当に髪を乾かす。この一か月、私の家での生活はお店以上に標準化されたルーチンワークかもしれない。

 そして、どうせいつも通り眠れなくなるのがお決まりのパターン。

 一か月前、いや、もう二か月経ちつつある。とにかく、明奈と別れた時からずっとそう。

 別れた直後は、寂しさとか悲しみとか、ぐちゃぐちゃで手がつけられようがない感情がずっと胸の中に居座って、吐くように泣きながら朝を迎えていたけど。今はそんな感情もすっかり胸の奥底に沈んで、何も感じなくなっているはずなのに、目を閉じても、全く意識が落ちる気配がない。かといって、スマホを触る気にもならない。

 この先、どうなるんだろう。
 心の中の自分じゃない自分が、ぽつりと問いかける。

『悠月もさ、ちゃんとした仕事に就いたら?』

 明奈の声の幻聴が聞こえる。

 もし私が「ちゃんと」してれば、明奈はずっとここにいてくれたのかな。

 私よりも数時間遅く帰ってきた明奈は、スーパーの味付け肉に火を通すような簡単な料理でも喜んで食べてくれた。二人で立つのが限界な狭いバスルームで一緒にシャワーを浴びて、シングルベッドで肩を寄せ合って寝て、時々セックスしたりして。それは別に「ちゃんと」した生活でも何でもないけど、私たちを満たしていたはずだった。

 大きく息を吸って、吐く。呼吸に合わせて、頭に浮かんだ明奈との思い出を消しゴムで消すように意識する。

 きっと、私は死ぬまで独りだ。
 自分じゃない自分がそうささやく。

 起きて、お店に行って、家に帰って寝て。それだけのルーチンワークを終わり無く繰り返して、誰にも知られることなくひっそりと死ぬ。

 それを寂しいとも悲しいとも思えない自分がいる。
 何か大切なものが麻痺している。

 カーテンの裾から見える窓の外が、うっすらと紫色になっていることに気付く。
 スマホを手にする。四時。

 もう少しだけ、目を閉じる。頭の中を渦巻く声に耳を傾けないように、思い起こされる映像に目を向けないようにしながら。


 ▼第四話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?