季節はめぐり - 第六話
「あそこです」
秋本さんが指さしたのは、こぢんまりとした三階建てのマンションだった。ベージュ色に塗られたコンクリート造りの平凡なマンション。入り口はオートロックになっていて、開錠した秋本さんに続いて中に入り、二階の廊下の端まで歩く。
「角部屋なんだ」
「そうなんです。いいでしょう」
ドアのカギを開けて、秋本さんが中へと招き入れてくれる。
「どうぞ。あまり広くありませんが」
「お邪魔しまーす」
秋本さんの言う通り、玄関はとても狭く、二人で並んで入ると思うように身動きが取れない。とはいえ、うちの玄関も同じくらい狭いし、一人暮らしのワンルームなんてこんなものだろう。黒いパンプスを脱いだ秋本さんに続いて、私も靴を脱ぐ。
入ってすぐ、短い廊下の左手には小さなキッチンがあって、右手にはバスルームとトイレと思しきドアがある。
廊下を奥に進むと、秋本さんが生活している部屋にたどりつく。部屋の真ん中、大きなカーペットの上にはローテーブルがあり、壁際にベッドと小さな本棚が置いてあるだけのシンプルな部屋。強いて言えば、本棚の横、きちんと手入れされた黄色いベースが目に付く。
家具は水色や白色を基調とした、明るめの雰囲気で統一されていて、私にはちょっと落ち着かない色合いだった。
「座っててください、私準備するので」
「ううん、手伝う手伝う」
手伝う、といってもやることはそんなにない。スーパーの袋からお惣菜を出して、蓋を開けるだけ。その間に秋本さんは二人分の割りばしと、取り分けるための小皿を持ってきてくれた。ただのお惣菜パーティだけど、普段一人では買わない量のおかずに豪勢さを感じ、少しだけテンションが上がる。
私はビールの缶を、秋本さんはブドウサワーの缶を開けて、二人で小さな乾杯をした。
「お疲れ様」
「お疲れ様です!」
秋本さんは両手で缶を持ち、すごく幸せそうな顔でこくこくと喉を鳴らしながらお酒を飲んだ。その様子がなんだか可愛らしくて、思わず見惚れてしまう。
「大学生に戻ったみたいですね」
言われてみれば、こういう飲みは大学を卒業してから久しくしていなかった気がする。学生時代の友達は、知らない間に結婚したり子供を産んだりして、気付いたら連絡を取らなくなっていた。かといって、今のバイト先でそんなに親しい友達ができるわけもなく、気が付いたら明奈としか遊ばなくなっていた。
明奈。その名前は、今、私の思考の過程で自然と出てきた。
次の瞬間、ほんの数か月前までの彼女との思い出が、とめどなくフラッシュバックしそうになる。
忘れろ。
開け放たれた記憶の扉を慌てて閉めて、思い切り押さえつける。
いま思い出すな。言い聞かせる。
「ベース」
とにかく何か喋っていないと彼女のことを思い出してしまいそうで、私はとっさに秋本さんのベースの話題に触れた。実際、この部屋に入った時からずっと気になってはいた。
「今も触ってるの?」
「ときどき。もうバンド活動はしてないですけど」
茄子の煮びたしをほおばっていた秋本さんは、小皿をローテーブルに置いて立ち上がり、おもむろにベースを持ち上げた。部屋のライトが反射すると細かい傷やへこみが見え、かなり使いこんでいることがわかる。
「大学の時のとは違うよね」
「サークルを引退する前に、もっと良い子に買い換えたんです。ずっと続けたいな、と思って」
秋本さんはベッドに座り、弾き語りをする姿勢で膝にベースを置き、簡単なコードを指で弾いた。二人だけの部屋の中、アンプにもつないでいないベースの控えめな低音と、弦がフィンガーボードに触れる微かな金属音が、この小さな部屋を満たす。
懐かしい。
この音とベースを抱える秋本さんを見て、唐突に思い出した。
秋本さんたち新入生がサークルに入ってきてから、最初に自分が担当する楽器を決めるイベントがあった。もともと楽器の経験者だったり、予め決めてから入ってくる子もいるけど、秋本さんみたいな全くの未経験な新入生たちは、先輩の楽器を借りて実際に触りながら、どの楽器をやりたいか決めることになっていた。
「ベース、やってみる?」
秋本さんにベースを貸したのは私だ。最初の自己紹介でベース希望って言ってたことを覚えていて、声をかけた。
「いいんですか!?」
私の予想を超えて喜んだ秋本さんは、いざ私のベースを目の前にすると急に緊張した顔つきで震えていた。私はストラップをできるだけ短めにして、椅子に座っている秋本さんの膝にベースを乗せた。
「大丈夫、ここ持って。支えてるから。ストラップはこうやってかけて、ここを膝に抱える、これで絶対落ちない。左手はまずは軽く支えるだけでいいよ、弦は触らない。右手の人差し指と中指で弦を弾く、そう」
手取り足取り教えた結果、秋本さんは「ベースを持ち、とりあえず音を出す」という未経験にしては十分な目標を達成した。
これは私の持論だけど、楽器には向き不向き、というより、似合っているか似合っていないか、があると思う。秋本さんには、ベースがよく似合っていた。
「いいね」
「指が痛いです」
秋本さんは少しだけ緊張がほどけた様子で笑っていた。
そうか。
トレーの持ち方を教えた時の既視感。あの時の感覚は、秋本さんにベースの弾き方を教えた時の感覚とそっくりだった。
なんで忘れていたんだろう。
いや、無理もない。忘れるだけの年月が経ったし、その間に誰かに話したり自分で思い出そうとする機会なんて一度も無かった。そうやって思い出されなかった記憶は、古い順番にどんどん消えていく。むしろ、今こうやって秋本さんとのことを思い出せるのが奇跡に近い。
私の記憶の中の秋本さんと違って、目の前の秋本さんはリラックスして、滑らかな指使いでベースの音を奏でていた。そのうち満足したのか、使い慣れたベースを軽々と持ち上げて、私のほうに差し出した。
「先輩の演奏も久しぶりに聞きたいです」
「えっ、無理無理、もう弾き方忘れたよ」
「じゃあ弾いてる姿だけでもいいので!」
可愛い後輩の頼みを無下にもできず、私は缶ビールをローテーブルに置いてベースを受け取る。重たい。ベースってこんなに重たかったっけ。ちょっと姿勢を正して、膝の上に置いて指のポジションを確かめる。体はまだベースの弾き方を覚えていて、いざ手にすると、簡単なコードのポジションであれば自然と押さえられる。飲食業だから爪を短くしてるのもあるし、ベース本体もよく手入れされていて弾きやすい。チューニングも合ってる。
しばらく触りつつ、大好きで何度も練習していた曲のコード進行を、探り探り思い出しながら弾く。まだ音楽にはなっていないのに、秋本さんは頬杖をついてうっとりと幸せそうな様子で私を見ていた。
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