自律のすすめ~自分の機嫌を取る~

これを書いているのは2019年7月18日だ。

2週間ほど前に選挙の公示があって、なんとかという候補者はああだとかだれそれを支持している人たちはこうだとかといった具合にいろんな人が罵り合ったり、その少し前には何やら表現の自由について身近で論争が起こったりしていた。

そんなやりとりを眺めながら、僕は一つの違和感が膨れ上がっているのを感じていた。

それは一言で表すなら「話し合いが成立してない気がする」というものだ。

のみならず、「会話はできるが話し合いができない」人ってなんか多くないか、なんて違和感もじわりじわりと膨れ上がってきた。

違和感の正体を探ろうとツイッターなんかでそういう議論を多く眺めてみて、そういう場面では冷静に話し合おうという努力より自分の感情を叩きつけることを優先している(ように見える)ということに気が付いた。

相手の話を聞いて理解し、立場の不一致や同意できる部分を明確にしようというより、相手を黙らせたいだけのやりとりに見えてしまうのだ。

匿名性が高いネット上の話なので、感情的になりやすいというのは分かる。

相手の人となりが分からない状態で、限られた文字数で放たれた鋭い言葉を受け止め、主張を読み取らなければいけないからだ。

フォローする言葉は削られがちだし、気心知れていればできる、こういう人だからこういう意図なんだろうと想像する補完もほぼ期待できない。

だが、それにしても感情的になりすぎてやしないかと首をかしげていた昨晩、ふと、祖父の言葉を思い出した。

「自分の機嫌は自分でとれ。それをやってもらえるのは子供の特権で、高校生にもなってそうしてもらっているのは恥ずかしいことだ」

これ、実はほとんどの人ができてないんじゃないか? という疑問が、今のところ僕に見えている景色を矛盾なく説明してくれている。

これは自分でも辟易するくらいの激情家だった僕を叱責した言葉だった。

尊敬する祖父から「自分の機嫌が自分でとれないのは恥ずかしいこと」というかなり強い言葉を贈られた僕は、「あらゆる大人は当たり前に自分の機嫌を自分でとっている」と思い込んでいた。

だが、よくよく思い返せば決して物分かりがいいとは言えない、若造の僕の方が相手に話し合いの目的を懇切丁寧に説きなだめすかしようやく意見交換ができたりその段階にこぎつけるのに失敗したり、という経験は対面の話し合いでも存外多かった。(仕事の中ではほぼ毎日、週に1回その段階をスキップできる話し合いがあればいいほう、という体感)

10年ほど偉大な祖父の言葉を盲信し続けて、そろそろ僕にも現実という奴が見えてきたわけだ。

ただ、自分の機嫌を自分でとることは人物ができているとか人格的な特性とか、そういう何か高度なものではない。単なるテクニックだ。

少なくとも、「自分でも辟易する激情家」だった僕が今では当たり前にできる程度には単純なテクニックに過ぎない。(主張にはあまり関係ないので、僕の方法はメモ程度に末尾に残しておく)その気になれば簡単なことだ。

感情はエネルギーにはなるが道具にはならない。感情は確かに僕達を突き動かしてくれるが、感情のままに動いて問題が解決することなんてない。

言い方を間違えるとか、伝え方のミスとか、いくらでも転がっている話だ。
そんなのにいちいち腹を立てて、感情に振り回されて問題解決がどんどん遠のくなんてもったいないしバカらしいじゃないか。

その積み重ねで無限にお互いに腹を立て合い続けて永遠に罵り合うなんて、不毛でもっとバカらしい。そういう人を僕は身近に何組も知っている。

そのバカらしさを「平成(僕たちの時代)の遺物」と言える、そんな大人でありたいじゃないか。

この新しい時代に、いろんなことに腹の立つ時代に、「自分で自分の機嫌を取る」ことに挑戦してみるのも、一興だと思う。


ここからはメモだ。あくまで僕がやって僕がうまくいっている単純な方法なので、合う合わないはあると思う。合わないと思ったら他の方法を探すといい。きっとこれよりいい方法なんてネットにごまんと転がっているはずだ。

僕がやっている自分の機嫌の取り方だが、以下の3ステップだ。

1:「自分が遭遇した現象」と「その現象への自分の認識」を切り離す。

2:次の行動の起点は可能な限り現象の方をベースにする。

3:現象が行動の起点として不足しているとき、少しずつ認識を加える。

現象と認識の線引きについて少し補足したい。「立場によって変わるのが認識」と一言で片づけてもいいが、知り合いの中にこれで通じる人が体感4割くらいだったのでもう少し長く記す。

「その場のほかの誰が見ても、どんなひねくれもの(あなたとなかなか意見が合わない知り合いや、あなたが大嫌いな誰かを想像すればOK)がいても、必ず全員が同意する何か」が現象だ。

逆に、ひねくれもの(という一番厳しい条件)を仮定したとき意見が分かれそうなら、それは認識だ。

誰かが誰かを殴ったとしたら、「殴った」ことだけが現象(オレみてないもーん、とかはさすがに考えなくていい)で、殴った理由とか、どっちが悪いとか、そういうのは認識だ。

で、たいていの場合もめ事は複数人の認識が違う&自分の認識が正しいと疑わないのコンボで成立するので、認識の優先順位を下げてやるわけだ。

現象というまず揺るがない基点をセットし、「その現象についての私の認識はこう、あなたの認識はそう」という立場の違いを明確にして、相手の認識の根拠を知るとか自分の認識の根拠を伝えるとかして話し合うようにする。

これが当たり前になって来るとどう楽になるか、というと、まあ以下のような感じだ。

例えば相手の言っていることが不愉快でも、言い方が不愉快なだけなら自分の苛立ちは単に自分の認識に過ぎないので、言葉に相手が乗せている「伝えたいこと」を読み取ることに集中したほうがいい、と自然に思えてくる。

「伝えたいこと」そのものが不愉快ということはさほど多くない。

あるとしたら、「伝えたいこと」=「悪意そのもの」という紛う方なき罵詈雑言くらいなものだ。

慣れてくるとこの場合でも、悪意を伝えることに利益なんてないので「僕に何か伝えたいという目的ではないんだな、じゃあこの人の今の目的はなんだろう」とか思えてくる。

なんなら「読み取れなかった他の意図があるかもしれない」という認識を加えることで「残念ながらその言葉に悪意以外を読み取れなかったので感性の足りない僕に今の言葉の意味を教えてもらってもいいですか?」とか尋ねてみて誤解だったと分かる、なんて展開もごくまれにある。(さすがに言い回しはもう少し気を使わないと皮肉にとる人もいるけどね💦)

欠点があるとすれば、これが当たり前になりすぎると、これができない人の気持ちが分からなくなることか。

こと僕のように、学生のころから「それが当たり前でそれができないのは恥ずかしいことだ」と盲信して目指してきた若造だとそれが酷い(笑)。

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