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映画『トラペジウム』について語る


「あ、この本、面白かったよ」

きっかけは3年前。高校生活がそろそろ終わりを告げてしまいそうな冬、クラスメイトと本屋に寄ったときのことだった。普段ジャンプ漫画ばかり読んでいる彼が小説コーナーで立ち止まったことに少しだけ興味を持ったのがすべての始まり。彼の指先は柔らかに微笑むひとりの女の子に向いていて、わたしはその表紙に見覚えがあった。

『トラペジウム』。

元アイドルが書いただかなんだかで、少し前から話題になっていた本。読んだことこそないが、加藤シゲアキの『オルタネート』といつも隣合わせで並べられていたことだけ覚えている。その頃文豪にばかり気を取られていた私にとって、ぶっちゃけてしまえばあんまり唆られない一冊だった。アイドルのエッセイ本のような形式だとすれば、多分私には刺さらない。

しかし口をついて出た「受験が終わったら読むよ」という言葉は額面通りに受け取られてしまい、3月下旬になって感想を求められたので渋々単行本を手に取った。ペラペラと読んでみるもやはりアイドルのキラキラ成長物語という感じがして、当時しにものぐるいで受験を乗り越えた私にはあまり刺さらず、結局最初の3割も読まないうちに飽きて投げ出してしまった。そのまま大阪に引っ越してから、『トラペジウム』のことは忘れていた。思い出すこともなかったはずだ。





「映画のチケットがあるんだけど、どう?」

大学3年生、春。好きなアニメ以外の映画など殆ど見に行かなくなってしまった頃合いに、友人からそんな誘い文句が飛んできた。どうやら無料の半券を持っているらしい。歳を重ねる度に映画鑑賞の料金は高騰の一途を辿り、ついには1500円となってしまった世界にひっくり返っていた身としては、なんとも有難い誘いだった。ふたつ返事で返して、映画リストを辿る。コナンの新作、ブルーロック、デデデデ。少し惹かれる映画たちに頭を悩ませていると、そこに並んで目に飛び込んできたのは、3年前に忘れたはずのタイトルだった。



本作を見ての感想


以下、ネタバレを含みます。

『トラペジウム』の概要を話そう。主人公・東ゆうが、東西南北の高校から美少女を集め、4人でアイドルグループを結成していくというお話だ。私が過去に投げ出した通り、序盤は分かりやすいほどとんとん拍子。敷かれたレールにそってただ歩いていくだけのように話が進んでいく。一端の高校生でしかなかった主人公たちは、気味が悪いくらい順調にアイドルの道を進んでいくことになる。

しかし途中までの都合の良いシナリオがすべて壮大な振りだったかのように、4人の友情は音を立てて崩れていった。正直なところ、前半の分かりやすく積み上げられた友情物語とそこに入る僅かなヒビから、「この後崩れちゃうんだろうな」というのはずっと感じていた。そしてその苦悩を皆で乗り越えてハッピーエンド、というなんとも見え透いたオチを予想しては流石に物足りないなあなんて考えてみたりもして。けれど崩壊の仕方が安っぽくなく想像の斜め上で、ゆるやかな瓦解を想定していた私はかなり面食らうこととなる。
そこでようやっと気づいたことは、これは「"4人"がアイドルを目指す話」ではなく、「"主人公"だけが、アイドルを目指す話」だということだ。他の3人がアイドルになりたいと思うような描写は一切なく、ただひたすらに友人のエゴに寄り添っているという事実がなんとも残酷だった。この物語は主人公の視点のみで話が進んでいくから、我々から見たときより一層他の3人との「アイドルへの熱量」の乖離が深くなっていってしまう。憧れを追い求めるあまり壊れていく主人公に付いて行けなくなった3人の友人は、結果として離れていくことになってしまったのだ。

この落差がとてつもなく好きだった。かわいさを売りにするような宣伝動画とは裏腹な、主人公・東ゆうのアイドルに対する貪欲な姿勢。少し歪んだ行動の伏線が、後半でぐちゃぐちゃに暴かれていくのはとても気持ちが良かった。特に衝撃的だったのは、メンバーの亀井美嘉に恋人がいたことが発覚したときのゆうの対応だ。あの可愛い顔が歪みに歪んで、「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」とまで吐き捨てた場面が心に突き刺さって抜けないままでいる。


思えば、最初から少し違和感を抱いていた。映画の冒頭、「南」こと聖南テネリタス女学院の校門にゆうが蹴りを入れるシーン。小説版だと「ちっ」という可愛い負け惜しみで済んでいた場面だったのだが、劇場版ではあまりにも生々しく鋭い舌打ちが聞こえてきて多少なりとも驚いた。この主人公がただ可愛いだけのありふれた女の子ではないことに、その時点で気がつくべきだったのかもしれない。





印象的だったシーンはいくつかあるけれど、特に好きだったのは主人公と母親との会話。メンバーと離別して引きこもっていたゆうが、「私ってさ、嫌なやつだよね」と暗い顔で呟いたところに、母親が「そういうところも、そうじゃないところもあるよ」と優しく声を掛けたのだ。ここまで映画を見てきた我々にとって主人公の東ゆうが「嫌なやつ」であることを否定できるわけもない。己の願いを叶えるためだけに友人を作り集め、ほとんど強引にアイドルの道に巻き込んだ挙句鋭い言葉で友人を傷つけてしまった彼女は控えめに言ってクズだ。
しかし「そういうところもある」という言葉は、母親の柔和な口調とは裏腹に、向けられた側としてはぐさりと刺されたような気持ちになるだろう。ゆうは自分って嫌なやつだよねと身内に聞けてしまうような「嫌なやつ」なんだけれども、母親の言葉で初めてきちんと自覚できたのではなかろうか。その後声を上げてゆうが泣くシーンは、いやに生々しいというか、キラキラのアイドルとは思えないほどの不細工な泣き方で辛かった。
ここで母親が「そんなことないよ」と言っていたら私は共感できなかっただろう。東ゆうには嫌なところも良いところもあるというのがこの映画を見た私の素直な所感だった。その言葉を母親が我々の代わりに口にしてくれたことが、私にとってこの映画の救いのひとつだったように思う。東ゆうに共感して観進めていた観客にとっても、疎ましく嫌っていた観客にとっても。



この映画を手放しで賞賛してよいのか


とはいえ、この映画のすべてを肯定しようとは思わない。東ゆうがアイドルに固執する理由が最後まで不明瞭だったこと。彼女の熱量とは裏腹に計画があまりに杜撰で、アイドルに成り上がるまでの過程に説得力がなかったこと。工藤真司と東ゆうの関係性が曖昧なまま、登場価値の感じられない友人として終わってしまったこと。あれほどの言葉を受けておきながら、他のメンバーたちが「なぜ東ゆうを許すに至ったか」について語られなかったこと。様々な違和感はいくつもある。特に最後の点が私にとっての違和感で、あれほど発狂して泣き叫んでいた大河くるみが、ノコノコと戻ってきたゆうを当たり前のように許してしまった場面がどうしても引っかかってしまった。ゆうに恩を感じていた美嘉や聖人枠である蘭子に比べて、くるみはゆうを許す理由なんてなかったはずだ。
また、一瞬で暗譜して歌い出す場面のリアリティのなさや、「歌苦手なら練習すれば?」と言われていた蘭子の歌が正直一番上手かったところなんかも少し違和感を覚えた。最初に描かれていたようなアイドル物語の中ではなんら抱かなかったような違和感も、挫折という見せ場の描き方にあまりに惹き込まれたために、そことのリアリティ/完成度の差から抱きざるを得なかったと言える。確かにこの映画はよくできているが、構成の"ギミック"を抜きにして語れば、手放しに賞賛できるほど私はこの映画に入り込むことができなかった。
ただ、数え出したらキリのない粗は沢山あるんだろうけれども、そのどれを差し置いても私にとっては良い映画だったとは思う。世間で言われていた"遅効性の毒"を感じることもできたし、その毒に抗って、噛み砕いて飲み込むことができたことは新鮮な経験だった。正直、見た直後には東ゆうというキャラクターを自分の中に落とし込むことはできなかったし、言うほど面白かったかと言われれば首を傾げていただろう。ただ時間が経って他人の感想を目にするところまでがこの映画の完成系だったというか、二次解釈で積み上げられた『トラペジウム』が自分の中で完成されたときにやっと毒が回ってきた。観ているときは何とも思わなかったような描写ひとつひとつに意味があったような気がしてきて、またもう一度映画館に足を運びたくなってしまっている。これが、本作が"遅効性の毒"と称されている所以なのだろう。
観て良かった。主人公のように、他人を傷つけてまで守れる矜恃があることに憧れすら抱く。東ゆうの言葉を借りるなら、「こんな素敵な映画ないよ!」という感じだ。あそこまで狂えはしなかったけれど。



余談

思い出したように、友人に「トラペジウムを見た」という旨を伝えた。結局小説を放り出したまま2年以上の月日が経ち、あまりにも今更すぎる報告だったと思う。

どこが面白かったかと聞かれたので、「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」という台詞であると素直に返したところ、そんな場面は原作にはなかったと言われて驚いた。友人が覚えていないだけではないのかと思って調べてみたら、どうやら映画オリジナルの台詞であるらしかった。……本当に!? 小説では主人公が「最悪」と言い放つだけで終わっているらしく、どこまでも抉るような言葉を追加してきた映画制作側に脱帽。というか、「一緒にアイドルやらなきゃ良かった」じゃなくて「友達にならなきゃ良かった」なのが本当に、本当に……。

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