朱い眼球、序

 目を覚ませば、気味の悪い図柄の天井が目に入った。
 その天井は絢音が今まで彼女の寝室の天井に見たことのない、異様な模様であり、いつもなら眠りから覚めて数分は、うとうととしている彼女も、その違和からすぐに覚醒に至る。そうして急激な覚醒を獲得したがゆえに、脳に負荷がかかり若干の鈍痛を抱えた。この痛みによって彼女の覚醒はより鮮明になり、それがなんとも気に食わないようであった。
 半身を起き上がらせることもなく、頭がすぅっとなっている一方で、自覚のできるぼんやりとした感覚が彼女の脳を湛えてきた。非覚醒の網が頭の中をめぐっているような感覚である。目線の先には相も変わらず気色を害するような天井があり、その分析も非覚醒の網によって妨げられていた。
 やがて絢音は天井から目をそらしてみようと寝返りを打った。彼女は元来、異様なものに直面した際、その強い好奇心から対象をよく観察する気質を持っていた。むしろ、理解のできないものこそ直視分析をすべきであって、それを怠るものは最早人間らしくない愚者であるということが、彼女の専らの言い分である。しかし同時に彼女は割り切りの早い性であった。此度無理と認めれば、いったん対象を脇に置き、思考を別のことへ切り替えてから、もう一度立ち戻って、脇に置いたことを試験しなおそうという気概である。これによって、彼女は今回も天井の模様への思考を脇に置こうとした。
 しかし、体の向きを変えて目に入った白い壁には、天井と同様の図柄が浮かんでいた。
 思わず驚きの声を漏らす。なぜであろうか、昨日までは確実に、私の寝室の壁は、一面が白色であってどこにも図柄が張り付いた部分などなかったはずである、と彼女は思考を巡らせるも、その思考は依然非覚醒の網によって阻害されていて、論理展開に不十分である。更にはあまりに予想外の状況であったために、以前の確認と、異様な現状との比較に思考は終始してしまっていた。論理を重んじ、相当のことのない限り落ち着き払っている絢音も、この個人的な空間である寝室の異常性には焦燥を抱え、呼吸が乱れ、鼓動がどくんどくんと耳の奥に音を響かせた。窓の外では自動車の走る音が鳴っていたが、しかし彼女の耳元は鼓動の重たい音に支配されている故にそんなものは彼女の意へと侵入しえなかった。況や、彼女の意識は異様な状況への思考に蝕まれているならば、というわけである。なるほど彼女の眼は、思考は壁の模様に釘付けである。
 次に彼女が思い至ったのは、今見えている壁以外の壁、或いは寝室以外の壁についてはどうであろうということである。眼前の壁から目をそらすという意味合いもあるこの思考は、決して彼女の心を癒す結果を齎さなかった。なぜならば、上半身を起こして見回した絢音の視界に映った、寝室の壁と天井の一切には、件の模様が敷き詰められていたからである。これを知覚した彼女は、意図せず乾いた笑いを漏らす。理由無き笑いに対しての驚きが隠せなかったが、しかしその笑い声は途切れ途切れに口からこみ上げ抑えることなどできなかった。
 彼女には、まるで今まで生活してきた世界とは似て非なる世界へと迷い込んだのか、とすら思われていた。夢にさまよっているのか、とも思ったが、燦然とする焦燥と一種の恐怖によってそれは否定された。ここで思い至ったのは、これが妄想の産物であって実際にはこんな模様など我が部屋にはないのではないかということである。試しに、最も身体に近い壁に触れてみた。図の乗っていない部分は、どうやら尋常の手触りであって、見た通りの白い壁であった。しかし、異様である図の線の部分をなぞると、ねっとりとした触感があった。塗りたての塗料とは違う、油絵具か、あるいは乾留液に多少類似したような感覚が絢音の手を伝って心の中で観念と化した。ただでさえ、その図柄が気を害すようなものであったのに、その触感までも気味が悪いものであるから、一層、恐怖と呼ぶべき感情が彼女の心に訪れた。
 この恐怖への自覚が、却って彼女に冷静さを齎した。蓋し、なるほど恐怖ということは日常との乖離によって齎されるものであるのか、積み重ねてきた経験と現実との相違が恐怖という感情を人間に与えるのか。この客観的思考の到来によって絢音は恐怖への鎮痛剤を獲得したのである。この異常性の発現の理由は理解できないが、というよりは理解できないのであればこそ、この現象に対しては諦念を持つ外にない、と結論付けた。したがって、これからこの部屋から出てもこの異様な紋様が視界に続くようであっても、もはや術無しであるから、これを認めることしかできないだろう、と覚悟した。
 漸く絢音は布団から出た。部屋の時計を見るとどうやら既に午前八時を回っていた。平時に比べて一時間ほどの寝坊である。どうせ今日は予定が無いのだから、と思いこの寝坊をよし、とした。
 寝室から出てリビングに入ったが、そこでの壁、天井もやはり普段とは違っていた。寝室と同様に真っ白であったはずのリビングのそれらにも、件の図が一面に、乱雑に施されていた。そういえば、と思い、リビングを過ぎて玄関に来て、玄関扉の鍵を確認したが、昨晩に閉めたはずの鍵は、やはり閉まったままであった。だからだれかが侵入した可能性は減った。リビングの大窓なども調べたが、同様にして侵入の形跡はなかった。そうなると、彼の現象の原因がさっぱりわからなくなってしまう。いよいよ、この現象は理由を知りえぬまま認めるしかできないようである。
 平時において絢音は朝食を摂る人間ではなかった。不摂生を自覚しているが、どうにも朝には食欲が湧かないのである。もとより食欲の強い方ではないが、朝は一層なにも喉を通らない始末であって、これが数年続いている。数年前は今のように一人暮らしではなく、実家で暮らしていたから、親に多少無理してでも食べなさいと言われ、そうして朝食もとっていた。されども親から解放された現在ではもう朝食をわざわざ苦痛を伴ってまで撮る必要性が感じられず、何も食べずに活動をしている。こうした理由で、この日についても彼女は朝に食事をとることは無かった。洗面所に向かって顔を洗い、歯を磨く。洗面台の鏡にはあの図は付着していなかったが、しかし自分にとって後方の、鏡に映る壁なりなんなりには依然として異様さがのっぺりと張り付いていた。歯磨きを終え、うがいをし、口の中の水を吐き出すべく洗面台へ腰を曲げたところ、排水溝周りに張り付いた例の図画と目が合って、意図しない形で口の中の液体を零した。確かに起きてから沢山の異様な図画と目が合ってきたが、こうして至近距離でのことは無かったから、その分の驚愕が彼女に去来したのである。理性を以て打ち克った心算であった恐怖がこうして脳裏から脳中へと戻り帰ってきた。その排水溝の図画から飛びのいたから、すぐに理性が立ち戻って、絢音は呼吸を整え、再び理性の人へとなった。最早辟易の境地に至った彼女は、唇から垂れた水をタオルで拭き取って壁を睨んだ。ここでも図と目が合ったが、これは威嚇であって、恐怖の意味は伴わなかった。ただ、幾ら睨んだところで、幾ら敵意を示したところで相手はうんともすんとも言わなければ、そもそも口もないし、その上壁から消えるわけでもないので、溜息をついて藪睨みもじきにやめた。
 この日は午後から大学の講義を入れていたため、午前中はそのままリビングでコーヒーをすすりながら本を読んでいた。読んだ本はドイツの小説で、精神病を扱ったものである。前半は精神に関わらない病気の罹患者に纏わる話が展開されたが、後半は精神に支障を来した登場人物の発話に終始するものであった。この日に読んだのはその後半部分であった。支離滅裂な言動であり、かつ抽象的な議論であるために理解をするのは難解だが、しかし断片を取り出せば、そう突飛もないことを言っていないように納得をすることができる。彼女にとって議論における精神の疾患の有無は重要ではなかった。要するに彼女が納得できるか、或いは論理を認めることができれば、それは一つの議論として価値がある、という独自の作品内在論を持っていた。これによれば、この小説の精神病者の言葉だって、何も一切棄却すべき言葉でないという判断になる。
 本を読んでいる間だけ、彼女は周囲の壁、天井に張り巡らされた、“眼”の図柄の視線から解放されて、小説の世界へと浸って現実から乖離することができた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?