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小沢健二900番講堂講義 所感

小沢健二900番講堂講義での興奮が冷めやらぬ月曜日のお昼、下のようなツイートが目に飛び込んできた。

と書いて下書き保存したのは、ちょうど一か月前。
駒場で感じたことを残しておこうと思うのだけれど、どう言葉にしても陳腐になってしまいそうで気が付いたら10月も終わろうとしている。それでも、これ以上時間をおいてしまったら本当に何も書けなくなってしまうので、オザケン(敬意を込めてこの呼び方)の言っていたことを思い出してみよう。

あの講義のテーマを自分なりにかみ砕くとすると「分けること(分けられるように見えること) と 分けないこと(分けられないこと)」になると思う。抽象的すぎるからオザケンが前者の例として提示していたものをあげるとすると、「客観的視点」「科学」「デジタル」「国家・国籍」「性別」「言葉」「学問」「階級」などが思い出される。オザケンはこれらを例示しつつ、(情報過多な)現代社会で如何にこういったものが盲目的によりどころとされているか、そして欧米諸国がこれらを利用して彼ら以外の人々を圧倒し世界を「創り上げて」きたかについて話していた(と思う)。同時にそれは、分けないこと(分けられないこと)の大切さのプレゼンでもあった(と思う)。

分類して、形を与えることは安心できるし、気持ちが良いし、得をするかもしれない。例えば、最近いろいろな場所で聞く「言語化」は分けること(分けられるように見えること)の一つであろう。自身の輪郭が曖昧な思いや考えをうまく型にはめて他人に提示する姿は、なんだかキッパリサッパリしていてかっこいいし、多分社会ではそういう人や力が必要とされている。しかし、それは本当に自分の思いであって考えを表したものなのだろうか。だとしたらなぜ、悩みを打ち明けたときに「こんなことでくよくよしていたのか」と腑に落ちない感じがするのだろうか。おそらくそれは、取りこぼしがあるからだ。本当は多面的で流動的な感情に綺麗に当てはまる言葉はないのに、無理やり表現できたことにするから違和感を感じるのだろう。それでもこの文章は言葉で書いているし、言葉にしなければ意志は伝わらない、そしてその結果社会は回らない。これは全部にいえることで、そのジレンマは一生付きまとうのだろうなと気づく。

それで、冒頭の「ツイート」に戻る。ツイートとしてURLを貼ろうとしたのはマヒトゥ・ザ・ピーポーのツイートをオザケンがリツイートしたものだ。


同じ会場にマヒトさんがいたことにはもちろん驚きながらも(赤い服を着た人はおそらくいなかったはずなのに)、奇しくも講義の前日、私は高円寺TKA4という場所で行われたGEZANのゲリラライブを見に行ったのだ。会場では日本人が半分くらいしかいなくて、中国語や英語、フランス語(多分)が聞こえてくる。年齢だってバラバラだし、この人どうやって生計を立てているんだろう、とつい尋ねてしまいたくなる人もたくさんいる。でも、ライブが始まれば一旦そういうことは忘れられる。「国籍」とか「年齢」とか「性別」で括ろうとしていた自分が、あの汗臭くて蒸し暑い空間でしか感じられない楽しさを思い出すと、すこしどうでもよくなる。そして数行前に「日本人」と言っている自分に驚く。

今思い返すと、講義でオザケンが言おうとしていたことと、高円寺のあの空間(そしてその空気をつくったGEZAN)には共通するものがあるんじゃないだろうか。輪郭を与えること(=分類すること=言葉にすること=属性で分けること)を保留して、その瞬間を受け入れようとする大切さと難しさをオザケンとマヒトさんは全く異なった方法で見せてくれてたのではないか、と一か月経ったからこそ思う。

講義を受けるには「自分が学んでいること」についてレポートを提出しなければならなくて、その文章も一緒に投稿してみる。



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