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優しさについて

優しさは怖い。
親切にされると胸がぞわぞわして、居心地が悪くなって、その場から逃げ出したくなってしまう時がある。なんならその場をぐちゃぐちゃにして。でもそんなことはもちろんできないから、「ありがとう」と必死に言ってみるのだけれど、それは無意識のうちに心の底から出ていない。こんな表現は変だけれど免罪符だと思って感謝の表明に努めてしまっている。どんな「罪」から逃れようとしているのか?自分はその人の優しさを享受するための資格がないのに、優しくされてしまっているという間違いから許されるために感謝の態度を示しているのだと思う。本当はその人に優しくされるためのステップみたいなものをしっかりと踏んできていないのに、急に優しくされてしまうから戸惑ってしまうみたいな。
ここで「資格がない」といっているのは、自身に虐げられた過去があるとかそういうことではなくて、普段からその人との人間関係の構築に献身的ではないということだ。「どうせ仲良くなれないし」みたいな気持ちが最初からあって、そもそもその人との関係を深めようとしていない。ひどい時には心の中で悪口をいったりしていて。でもそうやって他人の粗を探す行為は自分の輪郭をはっきりくっきりさせてくれるようで落ち着く(うーーん最低だ)。そんな自分だから無視されるくらいでちょうどいい。

でも人に優しくしたい。その人の選択肢をできるかぎり想像したい。どうすればその人がすこしでも生きやすくなるのだろうかと。
例えば、電車で席を譲る行為は優しいことだ。なぜなら目の前に立っている人の事情を慮りつつ、立っている辛さを想像する過程がその途中にあるから。でも、自分より疲れている人がいるだろうと予想して、最初から席に座らない人がいるとしたら?席を譲る事がなんとなく恥ずかしくて始めから立っている人がいたとしたら?そういう少し不器用な優しさを意地でも見ていたし、欲しいと思ってしまう。それは少し体力がいることだけど。


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