長谷川一,2014,『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか—テクノロジーと身体の遊戯』慶應義塾大学出版会
「ディズニーランド化する社会」というリッツアの「マクドナルド化する社会」の新形態のような見出しだが、合理性や計算可能性といった点に着目したわけでもなく、単純なアメリカナイズ信仰批判でもない。それは良くも悪くも「希望」という点に注目しているからであろう。長谷川の問題提起を引用する。
先述の通り、この本の中核は「希望」である。故に、議論はどこか馴染みがありながら実体性を伴っていない。上述の引用部の感覚は我々が持つ感覚と大きく一致するものであり、そこに異論はない。しかし、研究において最も残酷な問い、「だからどうしたの?」という問いに本書は答えられていない。問題提起の面白さがあるだけに残念な部分である。例えば、次の記述である。
ディズニーランド化が、テクノロジー化の別称であるという点には大きく賛同できるのだが、急に後段で「ここではないどこか」などと意識高い系の学生団体というかスピリチュアルというか自分探しのようになってしまう。外部を想像する力を奪うという点には説得力があっても、「ここではないどこか」なんてものがあるのだろうかと疑ってしまう私が悪いのだろうか。
ゆるキャラブームの下地には、列島を覆ったディズニーランダイゼーションがあり、それは「みうらじゅん化する社会」ということもできるかもしれない、などとみうらじゅんFESに行き損ねて私は一人考えたりするのである。