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【一冊千字】『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』(2023.05.10)

長谷川一,2014,『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか—テクノロジーと身体の遊戯』慶應義塾大学出版会

「ディズニーランド化する社会」というリッツアの「マクドナルド化する社会」の新形態のような見出しだが、合理性や計算可能性といった点に着目したわけでもなく、単純なアメリカナイズ信仰批判でもない。それは良くも悪くも「希望」という点に注目しているからであろう。長谷川の問題提起を引用する。

ディズニーランド化した社会を覆うのは、いわば「それなりに愉しく幸福な絶望」である。モノに囲まれ、あらゆる欲望を先どりしたきめ細やかなサービスが諸種の快楽を提供し、消費が性を形づくっている。楽で清潔。不快なモノやコトは視界から極力排除されている。幸か不幸かを問われれば、ともあれ「幸福」と答えるほかない。だが同時に、どうにも息苦しい閉塞感の中で出口を見出すことは諦めている。そんな類の絶望であろう。

同書p.5

先述の通り、この本の中核は「希望」である。故に、議論はどこか馴染みがありながら実体性を伴っていない。上述の引用部の感覚は我々が持つ感覚と大きく一致するものであり、そこに異論はない。しかし、研究において最も残酷な問い、「だからどうしたの?」という問いに本書は答えられていない。問題提起の面白さがあるだけに残念な部分である。例えば、次の記述である。

ディズニーランド化とは、グローバルな資本主義的な消費社会化や社会のメディア化という側面をもつだけではない。テクノロジー化の別称でもある。そこを貫く仕掛けとは、今日の社会のあらゆる細部に多種多様なテクノロジーが浸透している事実を基盤としたものであるだろう。それらテクノロジーは、さまざま仕方で持って、わたしたちの身体と絡み合い、同期して運動することで、日々の行為を織りなしている。そのようにしてテクノロジーは、あらゆる種類の利便を提供しつつ、多様な欲望を無際限に喚起し、開放感や高揚感をもたらす一方で、「ここではないどこか」や「ありえたかもしれない別の様態」といった外部を想像する力を奪っていくようにも見える。

同書 p.6

ディズニーランド化が、テクノロジー化の別称であるという点には大きく賛同できるのだが、急に後段で「ここではないどこか」などと意識高い系の学生団体というかスピリチュアルというか自分探しのようになってしまう。外部を想像する力を奪うという点には説得力があっても、「ここではないどこか」なんてものがあるのだろうかと疑ってしまう私が悪いのだろうか。

建築史家の中川理は、一九八〇年代から九〇年代にかけ、日本各地の公共的な建築や施設においてキャラクターの着ぐるみのようなキッチュな外観を持つものが急速に氾濫するようになってきたことを、多数の事例と主に報告し、この現象を「ディズニーランダイゼーション」とよんだ。ディズニランダイゼーションのインお悪とは、文化ホールや視聴者といった大規模な公共建築のみならず、交番、電話ボックス、—いまや死滅しつつある建築様態のひとつであろう—、公衆トイレから駅前のゴミ箱に至るまでの、小規模にして、通常「建築」の範疇に括られにくいようなものにまで及んでいる。それらはすべからく、「かわいい」イメージがとめどもなく自己増殖を繰り返してゆくプロセスの一部である。「現実」から隔離されたところに人工的に構築されているはずの「虚構」が、再帰的に「現実」へ再投入し、全域化しつつある様相だといえる。

同書 p.32

ゆるキャラブームの下地には、列島を覆ったディズニーランダイゼーションがあり、それは「みうらじゅん化する社会」ということもできるかもしれない、などとみうらじゅんFESに行き損ねて私は一人考えたりするのである。


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