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【#4】最後の晩餐

人生さいごに食べるなら

おもむろにこういうことを聞いてくるヤツがいる。


「人生最後に食べるなら、何が食べたい?」


ボクは答える。


「さんまの塩焼きかな」


こういうことを聞いてくるヤツは大抵自分の答えは準備してある。案の定、得意げな顔で


「オレは、母親の手料理かなぁ」


なんて言ってる。


いや、料理名じゃないじゃん。
それともグルジア料理にあるんですかね。ハハオヤノテリョリみたいなのが。シュクメルリの親戚みたいなものが。今や疑似科学の代名詞になった『話を聞かない男、地図が読めない女』を超えて、「自分から聞いといて、自分の質問に正対できてない男」状態。こういうヤツはどうせ、ボクがジョージアじゃなくてロシア読みのグルジアって書いてることも気にしないんでしょうね。


百歩譲って、まぁ譲れない部分だから、正確に言えば三国干渉を受けて遼東半島を返還する気持ちで、母親の手料理という意見を認めましょう。人生最期に食べる母親の手料理はなにか、ということを必然的に考えなくちゃいけない。人生最期の日なんて、それはとても不幸な日ですから、13日の金曜日だということは容易に想像がつく。金曜日に食べるものと言えば、日本においては帝国海軍以来の伝統で、当然カレーライスとわかる。なら最初から素直にカレーライスと言えばいいのに、と思う。


こういうませた言い方するヤツには、いちいち形容詞が気になってくる。心の中の蓮舫が暴れ出し、事業仕分けモードにはいってくる。母親の手料理?「母親じゃなきゃダメなんですか?」「手作りじゃなきゃダメなんですか?」こうなってくると自分でも自分を止められなくなってくる。


人生最後に食べるのに、母親の手料理が食べたいということは、それまで母親に生きててもらうつもりなのだろうか。そういうことじゃないんだよ、とか世の男性諸氏が言い出しそうだが、母親だって息子が死ぬまで料理のために生きるのは可哀そうだ。極度のマザコン(男は基本的にマザコンだが)でなきゃ、死ぬときに手料理が食べたいなんて言えない。


それに手作りじゃなきゃいけない理由がわからない。カレーは最近はレトルトでもおいしいから、自分でお湯を温めればいい。お湯を沸かすぐらい誰だってできる。母親は関係ない。それが面倒ならゴーゴーカレーかなんかをウーバーイーツで頼めばいい。もはやお湯を沸かす必要もなく、レンジでチンするだけ。


もう、こうなってくると全部批判したくなるのが人間の性なのだろう。


「人生」という言葉すらムカついてくる。人が生きると書いて「人生」。これじゃまるで、生まれたら人間は生きなくてはいけないみたいだ。それこそ最近の「人生100年時代」ときたら、人が生まれたら100年生きるのが常識と言わんばかりの態度。勝手に生きることを宿命づけやがって。


「最後」という言葉も「最期」と書くべきか紛らわしくて腹が立つ。かつて自分の中で、もうどちらかしか使うまいと思って、「最後」と「最期」を自分総選挙にかけた。ミケランジェロの「最後の審判」とダヴィンチの「最後の晩餐」のどちらも「最後」を採用しているから、「最後」が優勢だった。しかし、総統閣下シリーズでお馴染みのブルーノ・ガンツ主演の映画は、「ヒトラー 最期の12日間」だったので、「最期」サイドも盛り返した。結局決着がつかなかったから、今また腹が立ってるわけ。


こんだけいろいろ文句をつけてきて何が言いたいのかって?


某コンビニのお惣菜ブランドが「お母さん食堂」なことに憤っているわけではないよ。ポリコレに配慮しつつ、お母さんの手作り感を出したいなら、「人生最期食堂」に改名すればいい。日本国民が「人生最期何食べるか―母親の手料理」問答を経ていることが条件だけど。


みなさんの「人生最期何食べるか―母親の手料理」問答、初体験はいつですか。


ボクが「人生最期何食べるか―母親の手料理」問答を卒業したのは、純朴な小学生だったころ。ボクはショックだった。ボクの家は父親が料理を作る家庭だったから。ボクの家庭は「普通」じゃないんだなって。「普通」の家庭は母親が料理を作ることが当たり前なんだなって。


母親が料理をするという当たり前をうらやましいとか憧れに感じたことはない。だから、人生最後に食べたいものは、母親の手料理ではない。そして、父親の手料理でもない。ボクにとって手料理というものは、ノスタルジックな家族の幸せの象徴ではない。


リーマン・ショックが来る前、まだ家族が幸せだったころ、よく宅配ピザをとっていた気がする。そんなおぼろげな記憶だけが残っている。人生最後に食べるなら?―そんなときに食欲なんてきっとありやしないけど、ピザをデリバリーしよう。注文するだけだし、ね。


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