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あつぎだいち、自己責任論を語る

「自己責任」という言葉があります。パワーワードです。非常にパワーワードです。しかし、自己責任について積極的に語ろうとする人は極めて少数派です。これは自己責任論に対する後ろめたさがあるのと同時にどこか心の底で肯定しているからに他ならないのでしょう。あつぎだいち、自己責任論を語る。議論の入り口になれば幸いです。


あつぎだいち、宗教勧誘を語る

早速、自己責任論を語ると思った人は、自己責任論の大御所・新自由主義に染まっているので反省してください。

というのも先日、仲良くしていた大学の友達からキリスト教の勧誘を受けました。彼は勧誘ではなく知ってほしいだけと言っていたけど、意地になって勧誘ではないと否定するあたりが複雑な気分にさせてくれます。

とにかく、人生で初めて宗教勧誘でとても不快な気分になりました。今まで宗教勧誘を受けることは大好きだっただけに、自分でもとてもショッキングでした。同時に突き付けられたのは、宗教あるいは宗教的なものに対する態度というものが全く定まっていないということです。

日本人(このくくり方が正しいかはさておき)の多くは宗教に対する姿勢からなるたけ逃れる方向で生きていこうとします。しかし、それは健全な姿勢でしょうか。そして、宗教的なものに全く無関心であるように装いながら、非常に我々の生活には宗教的な要素が含まれています。

朝のニュース番組の12星座占いなんていうのは極めて宗教的なものだと思いませんか?だいたい、宇宙の星々に勝手に線を引て星座にして生年月日ごとに割り当てて、「今日の運勢は~」なんて言っちゃうなんてとんでもないことのように思えます。

星座占いなんて、たまたま見た日にきまって最下位でがっかりしながら家を出るぐらいだと思っている人が多いかもしれません。

しかし、「21週連続147日にわたって12星座運勢ランキング1位をてんびん座が防衛中、記録更新なるか!」みたいなことになれば、その日のてんびん座のラッキーアイテムが業務用3Dプリンターでも、全国のてんびん座のみなさんが買い求めるに違いありません。


宗教への態度というのは結局スペクトラムで、「どこまで信じるのか」ということが考えるべき問題です。どこまでが運命として決まっていて、どこからが自分の意志で切り開ける領域なのかは自分で決めるしかありません。



あつぎだいち、自己責任論について悩む

ここまで長々と宗教観について語ってきましたが、ほかならぬ自己責任論が宗教的な性格を帯びていると考えたからです。

18世紀なり19世紀あたりに、ジョン・ロックでもモンテスキューでもカントでもいいから、『純粋理性批判』かなんかに「自己責任こそが社会の第一原則である」とか一文でも書けば、もう少し自己責任論も体系化された理論になっていたでしょう。(よく調べていないので実は書かれているかもしれませんが)

自己責任論というのは、いつ現れたのか、誰が言い出したのか、どのような議論を経てきたのか、少なくとも私は全く知らないですし、知っている人の方がレアケースな気がします。

ただ、理論の合理性や精緻性の有無は、理論の影響力の大小と無関係なこともしばしあるということに留意しなくてはいけません。大雑把な理論だけど、社会で大勢を占めている考え方というものはたくさんあるのです。

自己責任論が善か悪かについても十分にコンセンサスを得られていないのが現状なのではないでしょうか。

つまり、先ほどの宗教の話と絡めていうなら重要な問題は唯一この一点「自己責任論をどこまで信じるのか」、ということなのです。



あつぎだいち、自己責任論をどこまで信じるか考える

どこまでが自己責任で、どこからが自己責任ではないのでしょうか。これについても正直よくわからないのではないでしょうか。

例えば、東京湾からゴジラが上陸して23区の大半が何かしらのダメージを負い、新宿をほとんど焼き払ってしまった、地元の小学校に避難したので命からがら助かったけど、ローンがまだ20年分残っている持ち家が焼けてしまったとします。このとき、「火災保険に怪獣特約をつけておかなかったからだ、自己責任だ」と糾弾できるでしょうか。

ただ東京というのは世界でも稀なほど非常に怪獣が頻繁に上陸する都市です。なぜなら高層建築物が多く、人口密集地帯で壊しがいのある都市だからです。道民の皆さんには申し訳ないですが、北海道をゴジラが蹂躙したところで、酪農業が壊滅的な被害を受け日本の乳業に深刻な打撃を与える程度です。十勝の広大な平野をゴジラは荒らしまわったりしません。怪獣とはそういうものなのです。

怪獣に家を焼き払われたのは、怪獣が頻繁に襲撃される東京に住んでいるからだ、郊外の所沢に住めば怪獣のリスクを回避できたはずだ、自己責任だ、と言うことはできるでしょうか。東京は賃金も高いですし、大学も多いですし、夢を追って上京する人も多い、怪獣が壊したくなるようなドリーム感のある都市でもあります。東京で暮らそうとするのは自然なことです。仮に所沢に住んだところで、西武ライオンズの強力な打線を嫌って巨大なハゲタカが、ピンポイントで所沢を襲撃する可能性もないとは言えません。

では、ゴジラが東京をかなり荒らして回ったので「ゴジラ不況」が来たとき、立憲民主だか共産だか山本太郎あたりの野党が10万円の給付金と言い出したとき、貯蓄してこなかったからだ、自己責任だ、と言うことはできるでしょうか。政府をあてにするな、税金をあてにするな、ゴジラに備えたビジネスモデルに転換してこなかったからだ、と言い切れるでしょうか。あるいは「ゴジラ不況」で派遣切りにあったとなら、非正規職についていているからだ、自己研鑽を怠ってきたからだ、自己責任だと言うことはできるでしょうか。

ゴジラが野放図に口から放射能熱線を吐き出して新宿で大暴れしたため、新宿周辺は残留放射線の懸念が残り、多くの子どもを持つ家庭が別の地区に引っ越したとしましょう。そんな子どもたちが新宿出身というだけでいじめられたとしたら、いじめられた子どものコミュニケーション能力不足でしょうか、子どもたちの自己責任だといえるでしょうか。

ゴジラにより壊滅的被害を負った歌舞伎町のホストやキャバ嬢が路頭に迷ったとしたら、「夜の街」で働いているかだと見捨てることができるのでしょうか…

とにかく例を挙げるキリがありませんが、きっと自己責任論を信奉する人はこんなことを言うに違いありません。

「なんでもゴジラのせいにするな」



あつぎだいち、平等について考える

ただ、ゴジラのせいで株価が暴落して大損したという人がいれば、私は自己責任だと言い切ってしまうでしょう。

あるいはゴジラから逃げるために慌てて運転して車をぶつけてもやはり自己責任と言うでしょう。

自己責任と言う考え方が不要かと言われれば、そうではないのは確かです。ただ自己責任論がデカい顔をする必要はないということです。

ではなぜ自己責任論が跋扈しているのかということを考えると「平等」という意識の裏返しなのではないかと考えています。人間はみな平等に生まれたのだから、努力した人間が成功し、失敗した人間は努力が足りないという論理だと考えられます。

このことを考える前に「平等」とは何かを議論しなくてはいけません。学校では「平等だ、平等だ」とは言われたのだけれど、じゃあなぜ通知表に5段階評価をつけるのか誰もが疑問に思ったはずです。

私が考えるに、平等を構成する要素は「機会均等」「結果均等」「権利対等」の3つの要素からなるのではないかと考えています。勿論、諸要素の絡まりあいの中で完全に分節できる領域ではないことは考慮しなくてはいけません。(あくまで私の持論です。粗探ししてください)

「機会均等」というのは、チャンスは誰にでも同じということです。戸籍があれば日本に住む児童は、一定の年齢に達すれば誰でも小学校に入学できます。ホームスクーリングを希望しなければ、学習できるチャンスがあるということです。

「結果均等」というのは、誰にでも同じ結果として認められるということです。小学校に一度入学してしまえば、不登校でも、成績不振でも、成績優秀だろうとみな卒業できます。円周率が3でも3.14でも卒業できるということです。

「権利対等」というのは、誰とでも文句をつければ小学校ではケンカしていいということです。ブルジョワジーの子だろうとプロレタリアラートの子だろうと、目つぶし首しめその他危険行為を除き、仁義があればケンカしてどちらが強いかを決めることができるのです。



あつぎだいち、学歴について考える

言うならば、現在の日本社会は「平等」ということに対して「機会均等」にばかり比重が置かれているのではないでしょうか。同じ日本に生まれたのだから生活が苦しいのは、幸福になれないのは、努力が足りないからだ。という論理立てなのでしょう。小さい頃から努力していい大学に入ればいい就職ができたはずだ、そんな含意がある気がします。しかし本当にそうでしょうか。

私は機会に恵まれて大学に進学することができましたが、(特に東京の)大学受験というのは言うなれば現代の「参勤交代」です。名門進学校を御三家と呼ぶのもそのためですし、江戸時代の参勤交代と同じく財政が傾くほどのお金がかかるのです。

いわゆる名門大学に入るには、難しい入学試験をパスしなくてはいけません。赤本を一度でも手に取ったことがあるかたはわかると思いますが、分厚さと質量が十分にあり殺傷能力を持っています。殺傷能力のある本を相手にするには十分な学力を身につけなければいけません。

十分な学力を身につけるベースとして、幅広い教養を持たなくてはいけません。しかし、幅広い教養を身につけるにはかなりのコストがかかります。それゆえ経済的に恵まれた家庭と恵まれない家庭の間に学力格差が生まれてしまうのです。

幅広い教養を身につけるためには、まず本を読まなくてはいけません。2、3歳ごろの絵本から始まり最低でも1週間1冊、1年で52冊、18歳までには約800冊程度読む必要があります。本を買う余裕がない家庭ならば、図書館で本を借りればいいじゃないかと思った人もいるでしょう。しかし、それは全くの誤りです。本というのは読むだけでなく積むことにも非常に学力向上効果があります。本は積み始めてからだいたい1か月ほど熟成させると、マイナスイオンを発生させ知能向上の効果をもたらします。図書館の貸出期間というのは大抵数週間程度ですから、積読の恩恵を受けることができないのです。

また、本とは別に漫画も18歳までに最低500冊以上は読む必要があります。これにもかなりの費用を要します。漫画を置くスペースも買う余裕もない家庭はBOOKOFFで立ち読みすればいいじゃないかと考える人もいるでしょう。私もお金を出して買い揃えるのは、『HUNTER×HUNTER』だけでいいと思います。しかし、『HUNTER×HUNTER』が単行本を出してから次の単行本が出るまで非常に時間がかかりますから、なにか他のジャンプ作品を最初の1巻だけ買ってしまいます。すると『HUNTER×HUNTER』の次の単行本が出るまでに連載がクライマックスを迎え、「結構おもしろいじゃん」となって結果として買ってしまうという事態に陥いります。つまり、富樫が連載を終えれば漫画にかかるコストはなくなります。

さらに、映画も年間10~20本程度は劇場で見る必要があります。その際学生料金でチケットだけ買って見ればいいというものではありません。ポップコーンとコーラも買わなくてはいけません。なぜなら、見た映画が駄作だった時、口元がさびしくなるからです。もしポップコーンがなければ、スマホを開いて何か連絡が来ていないか確認してしまいます。スマホの画面の明かりは、駄作だとしても何とか集中して見ようとしているお客さんに迷惑です。後ろの座席で見ているお客さんがイライラすると、イライラが空気中を伝わり脳に伝わり、ネガティブなホルモンが放出され学力は低下します。だから、ポップコーンも買って映画を見なくてはいけないのです。

自己責任論のベースにあるのは「努力は報われる」という発想です。高学歴などのエスタブリッシュメントの方々が今の地位にあるのは、努力してきたことは間違いありません。しかし、残念ながら努力のコストというのはひとそれぞれで環境に大きく影響を受けます。自分の生活を削り出してまで人は努力できない。例えそのようにして努力できたとしても、それは人間の尊厳にかかわる問題です。

本がなくても生きていける、漫画がなくても生きていける、映画を見に行かなくても生きていける。そんな生活の中で勉強にすべてを注いで、奨学金で手にした学歴で成功を夢見ようとは、誰もしたくはありません。

明日ゴジラが来てもいいように、息苦しさのない世の中をどうやって作っていくのか議論してもいい頃なのではないでしょうか。




つらつらと長くて下らない記事を最後まで読んで時間を無駄にしたと思われたかたもいるでしょう。しかし、それこそ自己責任というものです。






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