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【#1】エッセイストになりたかった

多摩川サイクル

緊急事態宣言が出る2、3日前、世間はすっかり自粛ムードが走り出し始めていたあの時期に、高校時代の友人と調布から多摩川沿いにナイト・サイクルしようと夜中の2時過ぎに落ちあった。


誰もいない側道の暗闇を他愛もない話をしながら走り続けていた。イニシャルDの話、フラれた話、ビートルズの話、ギターの話、高校時代のサッカー部の話。かれこれ2時間以上は喋っていた。


まだ空が白む前に光り輝く特徴的なフォルムの大きな建物を見つけた。羽田空港だった。ボクたちは羽田の国際線ターミナル(現・第3ターミナル)に入って、台北行きとマニラ行き以外全便欠航、時間帯も時間帯な羽田を「誰もいない」「誰もいない」と手を叩いて歩いて回った。


それから屋上の展望デッキに行って日の出を見た。2つの太陽が昇る惑星タトゥイーンに想いを馳せたり、ジョージ・ハリスンの名曲「ヒア・カムズ・サン」を流したりしながら、水平線から太陽が顔を出すところを眺めた。


そうこうしながら開けたところで落ち着いて見ると、確かに「春はあけぼの」だなと思ってしまった。言い訳をさせてもらうと、ホントに「紫立ちたる雲」が「白くたなび」いているのである。なかなかいい感性してるじゃんと口に出してしまった。


大体、『枕草子』なんてものを国語の教科書に採録したせいで、毎年本屋大賞状態である。そのせいかエスタブリッシュメントな感じがして今まで好かなかったけど、もし、Instagramやってたらフォローしてたな、清少納言。



夢を持っている人たちへ

エッセイストならラクそうだなと思った。ワイドショーの評論家みたいに無責任に書き散らして、文章の末尾は「いとおかし」で締めればOK。もしかしたら、これはなかなかいい仕事かもしれない。ちょうど、将来の夢も探していたところだったし。


ほとんどの人が漠然とではあるのだけど夢を持ち歩いていることを知って、うらやましいなと思った。誰かの夢の話を聞くときは、素敵な夢であればあるほど、温水便座機能付きのトイレに籠りたくなる。


夢を持っていないことが恥ずかしいことのように思えてくる。夢を持ち歩いていないと、夜中職務質問にあったとき、なかなかお巡りさんが帰してくれないんじゃないかと心配になる。


「将来の夢は何か」と聞かれたらいつもテキトーに答えてきた。機関車、餃子、ウルトラマン、ロナウジーニョ、ゲリラ、遊び人。高校教員に映画監督、ペンション経営にコモドオオトカゲ、それから東京都知事。そう言うとみんなして「きっとなれるよ」なんて大げさに頷きながら言う。どれになっても幸せになるのかなんて疑ってしまうボクが悪いんだろうか。



エッセイストになりたかった

結局どこを歩くのにも「将来の夢」は身分証のようについて回るものだから、エッセイストということにした。エッセイストのいいところは、資格も学歴も問われない、名乗った人はみなエッセイストになれる。資本金もいらないというおまけつきだ。


同じ文筆業でもエッセイというのはどうにもハードルが低いようである。小説家だったら、村上春樹みたいな作品を書く必要がある。主人公の男は、友達は大していないのだが、女にやたらモテてしょうがないというアレを書かなくてはいけないのだ。友達が少ないのはボクと共通項だが、残念ながらモテはしないので断念するしかない。そもそも長編を書く根気もなかった。


詩人というのも難しいものがある。ただ自分に陶酔してるというのでも駄目だ。茨木のり子を読んでいると、朝の畑でもぎたての野菜を食べる子どもを眺める軒先の雑草のような気持ちにさせてくれる。それほどまでにシンプルで力強い言葉なのだ。ボクみたいなくどい文章を書く人間には無理だ。


そういうわけで「将来の夢」はと聞かれたら「エッセイスト」と答えることにした。これでもうこれからは悩まずに済む。少しは人生が楽になるだろう。


ところでエッセイというのは本業で書いている人は少ない。エッセイというのは大抵、小説家とかタレントとかミュージシャンとか書店員とか、なんかしかの別の顔を持っている人が書いているものだ。そういうエッセイがおもしろいエッセイというものだ。


おっと、またしても挫折してしまったようだ。ボクには社会に顔向けできるような地位も実績もない。これから「将来の夢は」と聞かれたら「エッセイストになりたかった」と答えるしかない。全くようやく夢ができたと思ったら社会は厳しい。しばらくは、エッセイストを兼業できるような仕事でも目指すことにしよう。

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