見出し画像

谷根千は山の手だ!「根津・千駄木下町まつり」で下町とは何かを考えてみた 2

下町/山の手 定義と歴史 

下町というのは元々、江戸の初期の都市計画に由来する。 
徳川家康が江戸に幕府を開く以前、江戸は片田舎だった。 
太田道灌が築城した江戸城を家康が手に入れたのだ。 
都市計画は地の利を活かすことが重要であることを熟知していた家康は、江戸城の東の方から隅田川、東京湾にかけての低地に運河を築き、物の行き来がしやすいようにし、そこを町人に割り当てた。これが低い町、つまり「下町」の起源である。 
一方、武士たちは高台の地盤の安定した場所に住む。これが「山の手」だ。こうして下町と山の手という二つの区分が江戸の町に誕生した。 
この区分は純粋に地理的な区分と階級的な区分である。 
 

(国土地理院、東京都区部標高地形図) 

黄色い台地の東縁が青い東京低地に接して急崖を形成している。 
黄色いあたりが武蔵野台地つまり山の手 青いところが低地である下町だ。 
現在でもこれを実感できる所がある。山手線、京浜東北線で上野から日暮里、田端、王子駅にかけて続くJRの線路の西側だ。ここでは台地の縁をはっきりと見ることができる。田端駅ではホームの真上に崖が迫っている。
 

田端の崖

これを見れば日暮里駅の西側にある谷根千は山の手に位置することが一目瞭然だ。 
高台になっている部分に武家屋敷や寺社が広がり、山の手となっていた。 
もともと山の手と下町という言葉は、江戸時代の17世紀後半から見られる言葉だ。江戸時代前期、山の手は早くも武家屋敷の町、下町は町人の町という意識が定着していた。 
もっともこの頃の山の手とは、江戸の高台にあたる麹町・四谷・牛込・小石川・本郷などの地域である。対して下町は、御城下の町という意味で、京橋・日本橋・神田を指していた。 
ただし、もともとの江戸の町はもっと狭いし、日比谷の東側はまだ海であり埋め立てられてもいなかった。 
元来の下町とは、江戸城から江戸湾、隅田川に掛けての地域であって、浅草ですら江戸初期は下町ではなかった。下町の中心部は日本橋や銀座の辺りである。日本橋や銀座を山の手だと認識している人も多いだろうが、下町の代表なのである。 
当初の江戸はとても小さく、今の東京とは大きくサイズが違う。 
江戸時代の後期に下谷や浅草も下町ということになった。今では下町の「本場」のようになっている浅草だが、日本橋、神田や京橋の住人にしてみれば、昨日今日の下町なのだ。 
したがって隅田川の東側は下町でもなんでもない。
葛飾・柴又の帝釈天だとか、スカイツリーのある押上、曳舟辺り、深川、木場、門前仲町、亀戸、小岩その他今下町と自称しているほとんどの町は元来の下町ではない。というか、江戸ですらなかったのだ。 
というわけで、前節のリサーチクエスチョンへの答えは一応出た。

谷根千は下町ではない、山の手だ。 

ここでまた新しい疑問が生まれる。 
この誤解が生まれたということは「下町」というコンセプトに何かしらの変化があったはずだ。 
したがって次に以下の二つのリサーチクエスチョンを元に考察を進める。 
〇なぜ谷根千が下町だと言われているのか? 
〇「下町」とはどのような概念であると認識されているか? 
これらの疑問に答えるべく、下町/山の手の歴史を調べてみた。 

山の手/下町の歴史 

江戸から明治に時代は移った。しかし下町と山の手の区別がなくなったわけではない。下町に住んでいた商人や職人は下町に住み続けるし、武士出身の者は山の手に住み続ける。つまり東京の中心は依然山の手の側にあった。 
したがって、明治日本の近代化・西洋化も山の手を中心に進んでゆく。そして山の手の側では開発が進み江戸の面影は殆ど残らなくなってしまった。 
一方下町も発展を続ける。交通の発達で新橋や銀座周辺が栄え、のちには浅草にも鉄道が開通し、明治23年には浅草に12階建てのビル「凌雲閣」が完成した。 
それでも、下町は庶民の町でありつづけた。そのシンボルは長屋といわれるもので、今で言うアパートとして機能していた。 
人びとの距離が近いので近隣の住民とは密接に関わることになる。人口密集地帯だ。 
町の様子は変わった。山の手は概して西洋化していったのに対して、下町、特に住宅地では比較的江戸らしさが残る状態で町の様子が変わった。 

この「江戸の面影」「江戸らしさ」が後々重要になってくる。

東京の東側には人口が密集しており、1923年の関東大震災で  下町は壊滅的な被害を受けることになった。東側の人々は西側に多く移り住み、それ以降東京は西に向けて拡大してゆくことになる。 
山の手は地盤が固いし建物が密集していないので、被害は下町に比べ少なかったのだ。 
山の手は復興が進み、下町は取り残された。 
明治に入ると、武士とか町人などの出自はさほど重要視されなくなるとともに、東京自体が江戸の範囲からどんどん広がっていったのである。そして山の手と下町の階級的な区分を意識せずに人々は活発に移動するようになっていった。 
大正期から、エリートも銀座や日本橋で買い物をするようになったそうだ。昔は銀座も日本橋もそんな高級な町ではなかったらしい。 
そして大東亜戦争、東京大空襲で下町は壊滅した。
戦後になると東京はさらに拡大する。 
都心に集中している首都機能を分散させようと、1958年に渋谷 新宿、池袋が副都心と位置付けられ、開発が進められた。また私鉄道網の拡大で西側が発展した。そこに住んだのは新しい層であるサラリーマンである。  

山の手のイメージ
下町のイメージ

ちなみに都心に副都心、そして新都心というのもある。 
新都心とは東京都の近隣県である埼玉県のさいたま新都心、千葉県の幕張新都心、神奈川県の横浜みなとみらい21が該当し、東京都の都心機能を担うべく開発が進められた。そのため新しい都心と名付けられたのだ。あたかも都心に次ぐ勢いで新たに発展した都内の地域を指しているのかと勘違いしてしまいそうだが、新都心は東京都内にはない。 
話を戻す。 

ここで、以下のような対比が生まれたのである。 
山の手=エリート、官庁街、政治的、西洋的、近代的、発展 
下町=町人、庶民、自営業者、人口密集、商業的、時代遅れ 
郊外=サラリーマン、住宅街 
 
イメージとしての下町 
下町がどういうイメージで受け止められているのかをここで考えてみたい。 
実用日本語表現辞典で「下町」を含む言葉の表現を調べてみると 下町気質 下町情緒、下町散策、下町娘、下町風、下町育ち、下町っこ、下町情報、下町グルメ、下町祭り、下町言葉、下町ロケット、下町のナポレオン、下町の玉三郎、など数多く見つかる。 
これらに共通しているのは、江戸から伝わる「粋」であったり、古い良さであったり、昔ながらの生活、伝統や文化に色濃く由来するものである。 
 
下町と言われる町にはいくつかの特徴がある。 
1.町自体が古いこと。ただし 必ずしも江戸時代の江戸と繋がっている必要はない。 
2.大きな建物がないこと。下町は庶民の町として発達し、山の手や副都心にはビルが建ち並んだが下町にはあまり大きな建物がない。 
3.食文化があること。下町には、独自の食文化や伝統的な食べ物がある。 
4.下町には、伝統的な日本の建築様式が多く見られる。古い町並みや木造の家屋が保存され、歴史的な風景が残っている。 
5.下町には祭りを中心に地域独自の伝統的な芸能が根付いている。 
6.密接な人間関係と地域社会がある。下町は地域社会のつながりが強い場所である。これは長屋暮らしや、近所づきあいの長さに由来する。人口密集地域であり、かつ昔から住んでいる人が多い。 
7.「古い」感じがする。これは発展の遅れに由来する。 
 
簡単に言うと、下町とは古くて、おいしい食べ物があって、大きなビルがなく、昔ながらで、伝統的で、お祭りがあって、人びとの関わりが密接で、フレンドリーだが排他的。 
そういうイメージが、前述の下町が入った言葉に集約されているのだ。 

今や下町と山の手の地理的区分が重要ではない 
下町と山の手の地理的区別がそこまで重要ではなくなったので、こういう「下町らしさ」の方が重要な「下町」概念になった。
だからこそ、あいまいな地理的区分の下町と、下町情緒の掛け合わせが谷根千を「下町」と認識するに至ったのだと確信できた。 
つまり、下町はもはや単なる地域ではなくて、それぞれの時代の要請によって重ね合わされたイメージを反映している複合的な概念だということだ。 
要するに、「下町」とは、都市の中で庶民が庶民的な暮らしをしている地域という意味で主に用いられる表現なのだ。 
「下町」という表現には、住宅や個人商店が密集し、生活感があり、人情味があり、昔ながらのレトロな雰囲気が残る街並みといったイメージがありそんな雰囲気にあふれていれば地理的な区分とは関係なく下町なのだ。 
明治以降、西洋化、近代化され合理化されてゆく社会、高度成長期に失われていった街並み、人情、貧しかったけど満たされていた古きよき時代の面影を人々は下町に求めたに違いない。                                       

下町には往時の雰囲気が名残をとどめていることが多く、昔を知る者にとっては懐かしさ(ノスタルジー)に浸ることができる場所になるし、往時を知らない若者にも、レトロな街並みが新鮮に映り、ある種のエモさが感じられる映えスポットとして受け入れられることがある。 

根津の商店


レトロなお店
民家
空地・私が子供のころにはこんな空地はそこらじゅうにあった

そして、これがビジネスになるし、マスコミがどんどん下町をつくっていく。 
下町は江戸の凍結ではない。人も町も変わるし、新しいものもどんどん生まれていく。下町の地域性に合わせて、下町らしさが再生産されていくのだ。 
過去にヒントを見つけて新しいものを生み出そうとする。それを下町という文脈と整合性を図った結果生まれたのが、現在の下町の姿なのだ。 
下町はこれからも変わっていくだろう。変わっていく時代に対して持つ不満の慰めを下町に求めて、下町は新しく作り替えられてゆくのだ。だけど、変わりゆく時代に人々が満たされないかぎり、下町は下町でありつづけるのだろう。  
なにしろ、「古き良き東京の姿」なのだから。

隅田川の東側でも葛飾・柴又の帝釈天、押上、曳舟、深川 木場、門前仲町、亀戸、小岩その他、自称下町を「下町」と呼ぶのはわかる。下町の範囲が広がったのだろう。
中野、杉並、目黒、世田谷などを「山の手」と呼ぶのも許せる。 きっと山の手の範囲が広がったのだろう。
ただ、江戸時代から地理的に山の手である町を下町と呼ぶのはどうしても解せない。何か魂胆を感じるのだ・・・
 
このようなことを下町風山の手の町に住みながら、ぼんやり考えてみた。 

哀愁の夕暮れ

10月14日(土)15日(日)はぜひ「根津・千駄木下町まつり」に遊びに行こう。根津神社はメイン会場として境内に露店やイベントも行われる。
そして近隣を散歩でもしてみよう。
フォトジェニックな町だからきっといい写真が撮れるはず。
素敵な町だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?