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わが心の近代建築Vol.8 斜陽館(太宰治生家)/青森県金木

昨日から一気に記載している、このブログ。
今回は、2022年の6月に訪問した青森県金木にある、斜陽館について記載します。
この邸宅も、先述の福島県にある旧亀岡家住宅と同じく、地方都市にある疑洋風建築として代表的な建物になります。

まず、斜陽館は1907年に太宰治の父で衆議院議員の津島源右衛門によって、青森県の金木に建てられたものになります。
源右衛門は県内有数の大地主である一方、「金木銀行」や「金木電燈株式会社などを設立した人物で、金融業なども営んでいました。
文豪・太宰治は、1907年から1923年に中学進学までここで暮らし、東京へ出たのちは、女性問題や心中などを繰り返し、実家から勘当され戻ること許されたのは母・夕子が亡くなった1942年のこと。
その後1945年までこの町で執筆活動を行いました。
なお太宰の著作、『津軽』や『思ひ出』などに、彼がこの邸宅に抱いていたイメージが記されています。

なお、この邸宅は太宰治亡き後、1950年に他人に売却されたのちは、「太宰治文学記念館」を併設した宿泊施設に利用。名前は、太宰治の小説『斜陽』から取り、斜陽館と命名されます。
旅館時代は太宰ファンの方も数多く宿泊しますが、経営悪化に伴い手放され、1996年に金木町が買い取り文学記念館として再出発。
1998年に現在の「太宰治記念館 斜陽館」と新装オープン。
2004年には国指定重要文化財に選定されました。
現在の斜陽館では宿泊はできないものの、太宰治の文学資料や津島家の貴重な資料が展示。今日も多くの観光薬や太宰ファンでにぎわっています。

また、斜陽館の建築様式として、木造2階建て。
建材には青森県産材のヒバがふんだんに使用されています。また1階部分に11室、2階部分に8室、付属建物など合わせて、宅地約680坪の規模を有する大豪邸。
外観こそ津軽地方の町家の間取りを踏襲したものになっていますが、内部は洋風の旧銀行店舗部分や階段室、応接間など洋風になっており、屋根構造は洋風建築のトラス構造になっているなど和洋折衷様式がとられています。
そのほか、母屋はじめ文庫蔵、中の蔵、米蔵などの大型土蔵、敷地周囲の長大な煉瓦塀など、屋敷構え全体がほぼ当時のまま保存された、近代和風建築や大地主の屋敷構えの貴重な遺構になっており、設計には、当時、弘前地域を中心に活躍した大棟梁・堀江佐吉率いる堀江組があたり、設計も堀江氏本人のものと思われますが、彼は完成を見ることなく亡くなり、そののちの指揮を斎藤伊三郎が引き継ぎ完成させました。

たてものメモ
太宰治記念館 斜陽館
●竣工:1907年
●設計:堀江佐吉
●文化財指定:国指定重要文化財
●交通アクセス:津軽鉄道「金木駅」下車 徒歩7分
●写真撮影:(一部を除き)可
●入館料:大人¥600
●参考文献:
・邸宅内のパネル各種
・米山勇編「日本の近代建築」【東日本編】
・高橋敏夫/田村景子監修「文豪の家」
など
●留意点:
五所川原までJR五能線。五所川原から津軽鉄道に乗るわけですが、津軽鉄道自体が車内ガイドをやっており非常に趣深く見どころ満載です。
ただ、双方とも便が少ないので、くれぐれもダイヤを調べて向かうことをお薦めします。

設計者 堀江佐吉(1845~1907):
まず、斜陽館を設計した堀江佐吉氏について記載すると、弘前出身の方で、明治期の青森県に数多くの洋風建築を建てた棟梁として知られています。
祖父の代から弘前藩お抱えの御用大工の家柄で、父親も「お城大工」として知られました。
1879年に北海道に出稼ぎに行った際に現地で見た開拓使関係の工事に従事しながら洋風建築に感銘を受け、これらを見て回り、構造を研究。
弘前に帰った後は、青森に家を借り、軍関係施設などに携わり、東奥義塾校舎を請け負い、これが彼初の洋風建築として1886年に竣工。そのほか、生涯にわたり1000棟近くの設計に関わるも、そのほとんどは現存していませんが、弘前地区は空襲を受けなかっらことから、今日もその姿を見ることができ、観光資源になっています。
また、彼は、その生涯で多くの後進を育てたこととしても知られ、彼のもとで働いた方も多くの洋風建築や近代建築を遺しており、今回の斜陽館は、その中でも、彼が設計した建物のひとつでもあり ,佐吉氏は完成を見ることなく亡くなりますが、4男の斎藤伊三郎氏が引き継ぎ完成しました。

斜陽館外観:
入母屋造りの伝統的な外観に加え、レンガ塀を配しています。
近代において、銀行経営もした大地主の邸宅の風病を遺しており、玄関左側部分が、銀行経営に用いられました。
青森県金木は、斜陽館を保持した津島家を中心に発展したと言っても過言ではなく、余談ですが斜陽館反対側にある青森銀行金木支店は、津島家が経営していた「金木銀行」と青森銀行が合併したものになります。

斜陽館平面図【五所川原市HPより拝借】
邸宅は何か所も洋間を保持したものになりますが、全般的には津軽地方を中心の多くみられる伝統的な町屋建築をベースにしたもので、この邸内には3つの内蔵などを配した大豪邸になります。

1階どま部分:
家の中にありながら、履物を履きながら入れる「土間」は、「タタキ」や「通り土間」などと呼ばれており、津島家では「長通り」と呼んでいました。
間口5.5m、奥行き22m、広さ90㎡になり、収穫の秋になると大勢の小作人の方々が米俵を積み上げ、米の検査が行われていた場所になります。
5段15俵もの米俵がいくつもでき、多い日には邸内に山が2列並んだそうです。

中庭部分:
建物右側のレンガ塀の中は中庭になっています。

1階ミセ(金融執務室):
「ミセ」と呼ばれるこの場所は、津島家の商売である個人向け金融業と総合的な事務が行われていました。
津島家には小作人さんが300戸近くもいたそうで、農家には「秋払い」という秋の収穫を見越して先にお金を貸すシステムがあり、小作人さんと帳場さんの話し合いや商談が行われていました。
太宰治は、そんな実家の商売があまり好きになれなかったうようです。

1階「ミセ」の金庫:
「ミセ」内部には大きな金庫があり庵したが、現在は金庫の写真が残るのみです。

1階ミセ(金融執務室)脇に付随した和室

1階大広間(前座敷):
斜陽館の大きな座敷は18畳の仏間を中心にして「小座敷」「前座敷」いろりのある「茶の間」の4つから構成されており、これらの襖を取り外すと、63畳もの大広間になり、収の父・源右衛門の時代にはしばしば「宴」が開催されました・
邸内には青森産のヒバ材を用いて、柱や梁には丈夫なケヤキ材を使用。
襖や建具も立派な造りに案っており、欄間部分には贅を尽くした彫刻が彫られています。

1階大広間(仏壇について):
大広間にある津島家御仏壇は1907年の津島家(斜陽館)竣工に合せ、父・源右衛門が京都の仏壇店に特注したものになります。
高さ189㎝、幅115㎝の三方開きで、左右4枚の扉をすべて開けると幅は4mにもなります。
2重の屋根瓦から内部の彫刻まで非常に美しく、引き出し部分には輪島塗の蒔絵と細工が施されています。
なお、津島家の宗派は浄土真宗東本願寺派。菩提寺は金木街にある南臺寺(なんだいじ)になります。

1階茶の間:
座敷(前座敷)に付随する部屋で、庭園側の部屋になっています。

1階小座敷:
仏間の隣、庭園側の座敷になります。
斜陽館の和室は、各部屋とも贅を尽くしたものになっており、明治期の平崎地区の建築技術の高さを伺い知ることができます。

1階常居:
1階茶の間部分の隣にあり、廊下側、一番奥の部屋になります。

1階小間:
庭園側、1番奥にある部屋。
文豪・太宰治は1909年6月9日夕刻に、この部屋で生を受けます。
太宰治は、母が尿弱だったため、叔母のきゑに育てられ、太宰にとってこの部屋はきゑや子守のタケとともに過ごした、思い出深い部屋になっています。

1階渡り廊下:
釘隠しや欄間も美しく、床材も非常にこだわっており、北海道産のアオダモが使用されています。

1階より北側庭園を臨む:
廊下部分からは庭園を臨めますが、とても個人邸宅とは思えない、非常に豪華な庭園になります。

1階洗面室:
渡り廊下を玄関側に向かった奥には洗面室と厠になっていますが、床部分は事情に奇麗な細工が施しています。

1階厠:
玄関部分の厠にも、洗面室と同様の床に細工が施しています。

1階台所:
台所部分は吹き抜けの板の間になっています。
右手の釜場には、当時、大小の釜が並び、大釜では毎日朝湯を沸かし、ほかの釜場でもモチ米や大豆を蒸して、納豆や甘酒をつくり、ジャガイモなどを茹でており、味噌や醬油は自家製。ここはさながら、小さな工場のような出で立ちでした。
炉端は、この邸内では太宰にとっては、最も気楽な場所で、幼少期の彼はこの部分でよく遊んだといいます。
建築的には縦横に張り巡らされた梁が見どころで、この奥には3つの蔵を配していました。

1階煙突:

1階浴室跡:

1階米蔵:
青森ヒバ材で作られた米蔵は、小作人が収めた米俵を収めていました。
大きさは約11m×7m。ここには約2250俵もの米俵が収納されました。
津島家の米蔵は、この邸宅向かいにも2つあり全部で3棟…
年間約6000俵、多い時には9000俵もの小作米が収納されました。
幼いころの太宰は、この蔵で遊び、父から叱られたことを自伝小説「思い出」で語っています。

1階米蔵内部:
中にある市松状の梁は
米俵が点灯しないためのものになっています。

階段を一階部分から臨む:
ロココ風階段になっており、外向きは洋、内向きは和のテイストになっています。

階段踊り場の奥にある部屋:
この奥の部屋は津島家の離れに当たる部分になり、時代とともに使われ方が変わった部屋になります。
はじめは太宰治の曾祖母・サヨの隠居部屋として。
次に治の兄・英二が結婚して独立するまでの住まいとして・
のちに父・が留守の際に女中頭のアヤが警備のために住み、現在は奥の部屋は記念館の事務室として活用され提案す。
また、この部分の天井には木組みの文様になっています。

2階より階段部分を臨む:

2階西側和室:
一般の来客時や議員お付きの人が通された部屋になっており、春夏秋冬の絵が書かれた襖絵は、河鍋暁斎門下の真野暁亭がきさいしたものにあんっています。

2階西側和室向かいの部屋:
こちらには津島家に仕えた行儀見習いの人が茶道や華道の練習をした部屋になっています。

2階洋間:
応接室として使用された部屋で、設計者の堀江佐吉作品の部屋になっています。
明治末期の和洋折衷様式fが採られ、壁がいは張り替えられていますが、天井部分には金唐革紙を貼り、ビロード状のカーテンを吊り下げ、照明にはシャンデリアを吊り下げています。
また奥のソファーは、中学時代の太宰がサイダーをがぶ飲みしたことが小説「津軽」に記載されています。

2階「控えの間」:
先述の洋間の

2階母親居室:
「蔬菜とも呼ばれている部屋。
母・夕子の居室でしたが、実際には太宰治らの勉強部屋に充てられました。
雪の結晶の欄間、格天井、カーブした戸棚の天袋など、非常に手の込んだ造りになっています。
また右から3枚目の襖に書かれた時に「斜陽」の文字があり、太宰はこの部分に机を置いて勉強し、太宰にとって「斜陽」の言葉は幼いころから見慣れた言葉になっています。

2階「金襖の間」:
金の襖が印象的な日本間。
隣の「銀襖の間」とともに、遠方から訪れた客人や議員が通され、貴賓室として使用されました。
太宰は小説「斜陽」を執筆する際にこの部屋に立ち寄ります。
兄とここで会食をする際、太宰は手土産に磐田からカニを持ってきますが、上品な迎賓の間。
手で食す野趣あふれたカニを出してよいものかと多い悩んだそうで、兄弟間でも、どのくらい打ち解けてよいものかわからない、太宰の心が垣間見られるエピソードが伝わっています。

2階「銀襖の間」:
先述の「金襖の間」と対になる迎賓の間になっており、迎賓の間として使用されました。

2階主人室:
斜陽館の中でも質素な造りの部屋は、主人・津島源左衛門の居室として使用されましたが、源左衛門は貴族院議員に選出され、東京の暮らしが多くなり、邸宅に変えるのは1~2か月に1度くらい。滞在期間も1週間程度で、源左衛門が齢51で他界したのちは、長男の文治氏が居室に利用しました。

2階から1階のダイドコロ部分のの梁を臨む:
この部分は天井を貼らず、トラス構造の柱をみせるようにしています。

斜陽館の洋風小屋組みの模型:
斜陽館の屋根組をモデル化したもの。
斜陽館は日本建築の入母屋造りの建物に寄棟造りの上に切妻の小屋根を合わせたような形状になっています。
また、その屋根の小屋組みは、西洋建築の「キングポストトラス構造」が選ばれています。

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