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【創作小説】『いとぐるま』第2話

車から降りて、買ってきた糸車をそっと抱え、マンションの玄関に向かう。
わたしの住んでいるマンションは4階建てで、その3階の302号室がわたしの部屋だ。幸いエレベーターがついているので、階段を登って変に糸車にダメージを与えたりしなくて済んだ。

「ただいまぁ〜…」

一人暮らしなので、もちろん返事をしてくれる相手はいない。部屋の明かりをつけると、手洗いうがいもそこそこに、箱をテーブルの上にどどんと乗せて、糸車を早速取り出した。

moumouで一度目にしていて、どんなものかは分かっているはずなのに、古新聞の中から出てきた糸車を見てわたしはうっとりした。
古い木の香りがふわっと漂ってきて、思わず顔がゆるむ。そして、車輪の下の板の上に指を乗せると、押したり離したりしてみた。

キィ、と小さく軋むような音がして、そのままカラカラカラ…と小さな音を立てて糸車が回り始めた。

カラカラカラ…
カラカラカラカラ…

うん。やっぱり買ってよかった。羊毛フェルトでちくちくやるよりよほど自分には癒し効果があるようだった。

国語の教科書に出てきたあのたぬきも、おかみさんが回す糸車を見ながら、きっとわたしみたいに癒されていたに違いない。カラカラと回る糸車が刻む独特のリズムは、まるで走っている電車のガタゴトというリズムのようで、聴いているとホッとして、眠くなってしまう。

いやいや、眠っている場合じゃない。わたしはぶんぶんと頭を振って、眠気を振り払った。
こんな素敵な糸車を箱の中に入れてしまっておくのはもったいないと思ったわたしは、はやく片付けてしまおうと思って箱を持ち上げた。

コロン。

古新聞に包まれたパーツがひとつ、床の上に転がり落ちた。

あれ。まだ道具が入ってたのか。なんだろう。

そう思って包みを開くと、四つ脚の上に丸い天板がついた小さな…椅子が出てきた。お人形さんサイズの椅子だ。

…はて。これは?

椅子までついているとは、なんて凝ったミニチュアだろう。でも、別に人間が座るわけでもないのに、どうして椅子なんてついているんだろう。インテリアとして飾ることまで考えられた商品だったんだろうか?

そうだ、と思い出したようにわたしは立ち上がった。そして、羊毛フェルトの道具と作ったもの一式をしまった引き出しを開けると、ひとつの作品を取り出した。

黒く歪な下膨れの顔に、キョロっとした大きな目、長い耳に茶色くて丸い大きな鼻。頭のてっぺんとボディは白くてぼわぼわした毛に覆われて、そこから黒くて長い手足が伸び、おしりにはボディと同じくぼわぼわの大きなしっぽがついている。
そう、これは羊。
わたしが、moumouで材料を買ってきて初めて作った羊毛フェルト作品だ。ふわふわもこもこの羊という存在が好きで、それならいっそ自分で作ってみようと思い羊毛フェルトを買って作ったのだった。

羊と言えば…顔が黒くて、真っ白な毛が雲みたいにもくもくと身体を覆っているというのが、わたしの中のイメージだ。調べてみたらわたしのこのイメージはサフォーク種という羊のもので、いざ作ってみるとサフォーク種のスターとも言うべきあのコマ撮りアニメーションの羊とかなり似てしまっている。もちろん、身体のパーツは不揃いで、お世辞にもきれいな仕上がりとは言えないけど。

丸みのあるかわいい顔にするつもりがうまく行かず、修正しようとして羊毛を付け足していったら、でこぼこの妙にへんちきりんな、歪んだ形の顔になってしまった。
頭の上やボディのぼわぼわの毛の部分は、大量の毛玉を作ってそれをちくちく刺しつけていったけど、何度も針を指に刺してしまったり、針を折ってしまったりして作業は難航した。おまけに、指先から滴った血が白い羊毛にところどころついてしまって、何箇所も茶色いシミになっている。これは最早呪いの人形なのでは?と思われても仕方がない。
ボディからはふわふわの大きな白い尻尾と、黒くて細長い手脚が伸びている。
足先になんとか蹄っぽい割れ目を入れることができたけど、左右で違って不格好。腕も脚も、場所によって太さがまちまちで、変なところで曲がるのでまるで骨折したみたいに見える。
目は流石に小さすぎて羊毛では作れないと思い、1番雰囲気とサイズがイメージに近い目パーツをmoumouで買ってきて、ボンドでくっつけた。
細かい作業だったのでやっぱり失敗して、キョロっとした目は左右で高さが微妙にズレている。

…と、そんな妙ちきりんでへんちきりんな羊くんだけど、初めて自分が作った羊毛フェルト作品ということで、結構気に入っている。
気に入ってはいるけど、他の人に見られたら不気味がられそうなので、いつもは引き出しにしまってある。たまに取り出して撫でたり、話しかけたりもするので、傍から見たらぬいぐるみを愛でている幼稚園の子どもみたいに見えるかもしれない。さすがに年齢が年齢なので、見られたら引かれそうだと思って、そんなところは人には見せたことはないけど。

わたしは羊くんをひと撫ですると、糸車の横に置いた椅子の上に座らせてみた。
おしりが平らではないので、座らせるのにはちょっと苦労したけど、羊くんはバランスを保ってなんとか座ってくれた。
羊くんはキョロっとした目で、糸車をじーっと見つめているように見えた。

「おまえにぴったりのサイズじゃん!いいなあ」

目の前の羊くんは、まるで今にも糸紡ぎを始めそうに見えた。羊くんのサイズは糸車と椅子のサイズにぴったりで、バランスに気をつければ片足をペダルの上に乗せることもできた。
もしかしたら、この羊くんが、「この糸車、欲しい!」と思ったのかもしれない。そう思ってクスッと笑ってしまった。

羊くんのためにオーダーメイドで作られたかのような糸車。いいなあ。羊くん、糸車使ってくれないかなあ。…まあ、それは冗談として、ほんとうに置いておくだけでも絵になるなあ。この糸車、使わずに羊くんと一緒に飾っておこうかな。使えなくても、まあいっか。

…とは言っても、やっぱり何も知らないのは不安なので、「糸車 紡ぎ方」と検索をかけて、この小さな糸車に1番よく似た形の糸車の取扱説明書をぼんやり眺めた。海外のメーカーのものだったけど、丁寧に日本語訳がされていた。
大きな車輪ははずみ車と言うらしい。そしてそれと連動して高速回転するパーツをフライヤー、そしてフライヤーの軸にボビンをセットし、綿をセッティングしたら、ペダルを踏んだり離したりして糸を紡ぐ。

はずみ車にボビンだなんて、まるで昔家庭科で習ったミシンみたいだな、とぼんやり思った。ふわふわの綿から、ピンと張った1本の糸を作るということすら知らなかった。糸車初心者のわたしには実際に使いこなすのは難しそうだけど、素敵な品物を迎え入れることができただけでわたしはほとんど満足しきっていた。

かなり日も傾いてきて、窓の外は夕焼け空になった。
糸車と羊くんを、手芸用品が入った棚の上にそっと移動させて、わたしは晩ご飯の支度に取りかかった。




いいことがあった日でも、悪い夢は見るもので、わたしはその日仕事の夢を見た。
職場の指導役のスタッフさんに叱られている夢だった。

「ねえ、前も言ったよね。利用者さんが使うコップにはきちんと名前にさん付けして書いておくって。あと、新聞のセットもなってない。これじゃ利用者さんが読みづらいでしょ?それから、うがい用の氷入り冷水も準備できてないし、お風呂のお湯は水だし。お昼ごはんの注文の時間、もう終わってるんだけど。おまけに利用者さんが使う椅子の上にはタオルの山!ねえ、一体私達が送迎している間あなたは何してたの?ちゃんとできないなと思ったら確認するとか、メモを取るとか、出社時間を早めるとか、もうちょっとなんとかできないの?これじゃああんまりだよ。仕事にならない。もっと給料分に見合った働きをしてください!」

夢なのか、現実なのか。…いや、これは夢だ。指導役はこんなひどい言い方をわたしにしたことはない。でも…聞いているわたしの視界はうるうると揺れていて、何度も涙がこぼれる。俯き気味で聞いているので、指導役の顔は見えなかった。

まるで、自分がココロの中で思っていることをそのまま表したかのような夢だと、わたしは夢の中で思った。
わたしは新入りで役立たずで、仕事ができなくて、周りのスタッフさんや利用者さんを困らせてばかりいる。だから、他のスタッフさんに叱られても、仕方がない。ずっとそう思いながら仕事をしてきた。

更衣室に戻り、自分のロッカーの前に座り込む。まだ業務はこれからだというのに、涙が止まらなくなってしまった。声を押し殺して、ぐすぐすと泣いた。どのスタッフも仕事が山積みで忙しいので、施設の利用者が到着してバタバタしている今は誰も更衣室には来ない。まるでひとりぼっちだった。

すると、どこか遠くの方で、聞き覚えのある音がした…気がした。

キィ、カラカラカラ…
カラカラカラカラ…カラカラカラ…

でも、その音を構っている余裕はなかった。後から後から溢れてくる涙を拭って、涙をなんとか堪えようとするのに必死だった。でも、一度堰を切ったように溢れてきた涙は、止まることを知らないようだった。わたしは、泣いて泣いて目を真っ赤に泣き腫らして、利用者さんが集まっているホールに戻ることもできないまま、ロッカーの前にへたりと座り込んでいた。




ジリリリリ、とけたたましい目覚まし時計の音が響いて、わたしは眠い目を擦ってベルを止めた。月曜日の朝6時。世界で1番憂鬱な時間だと思う。

買っておいた惣菜パンを皿に並べ、紅茶を淹れて、短い朝ごはんの時間。それが終わると歯を磨いて洗顔をして、パタパタと慌ただしく化粧をして、着替えが済んだら7時には家を出発。仕事に慣れないわたしは、7時半よりも前に出社していないと業務開始前の準備が終わらないことが多いので、いつもこのくらいの出発になる。
今日はいったいどの準備に不備があって指摘されるんだろうかと、毎日ビクビクしながら出社するので、気分はいつもどん底のブルー状態。そんな状態でよく職場に向かえるものだと自分でも感心してしまう。

朝食を終え歯を磨いていたとき、なんとなくベッドの足元の手芸棚の上を見た。

「えっ…!?」

わたしはびっくりして、思わず歯ブラシを取り落とした。

手芸棚に駆け寄ってみると、糸車のはずみ車の隣にセットしてある小さなボビンに、濃い灰色の糸が何重にも巻き付いているではないか!!
そして、その足元には…数え切れないくらいにたくさんの、糸が巻きついたボビンが、棚の上では足りずに床にも散らばっている!!

羊くんはペダルから足を離して立ち上がり、両手はボビンに手をかけたままの姿勢で止まっている。
おそるおそる羊くんの手をボビンから離して、再び椅子に座らせると、フライヤーからボビンを抜いて糸をまじまじと見つめた。巻かれた糸を少しほどいて、両側に引っ張ってみる。ちゃんと、糸になっている!昨日少しだけ読んだ糸車の説明書によると、糸というものは、ふわふわの綿を少しずつ引き出してりをかけ、少しずつ、少しずつ作って…「紡いで」いくはずだ。紡がれた糸は、ちょっと引っ張ったくらいでは千切れそうにないしっかりしたものだった。
その紡がれた糸が巻きついた小さなボビンが、大量に棚の上と床の上に散らばっている。

もしかして、と思った。
昨日夢の中で聞いたあの「キィ、カラカラ」という音は、羊くんが糸を紡いでいた音だったのでは?

糸を見つめていたその先の、ベッドサイドの目覚まし時計は7時を指していた。
わたしはハッとして、化粧もそこそこに着替えを済ませ、バタバタと慌ただしく家を出た。




車に乗り込むと、完全に仕事モード…と言うか、仕事の頭に切り替わった。

今日はどこからどう準備を終わらそう。どうしたら少しでもミスなくこなせるだろう。ミスや失礼なことをして利用者さんや他のスタッフの皆さんを困らせたくはないけど、でも自分にはできないことがあまりにも多すぎる…。

4月から今の職場で働き始めて約1ヶ月半が経ち、そろそろ少しずつ仕事に慣れてきてもおかしくない頃だと自分では思っていたけど、相変わらず同じようなミスばかりを繰り返している自分が情けなくなって、日に日に気分が塞ぎ込むようになった。
昨日の晴天がうってかわって、今日はしとしとと小雨が降っている。わたしだって、泣けるなら泣きたい。だけど、泣いていたら仕事にならないし、何より利用者さんに泣き腫らした顔を見せるわけにもいかない。最近はやっとのことで車を運転して家に帰ってくると、部屋にたどり着く前、エレベーターの中で堪えきれずに涙が溢れることが増えた。

はあ。今日もなんとか1日…終わればいいな。
終わるかな。また今日もがっかりして、落ち込んで、泣きながら家に帰るんだろうな。
そんなことを考えていたら、目の前の景色が潤んだ。雨のせいではなかった。

職場に到着し、憂鬱な気持ちで車を降りると、施設の裏口の扉を開けて、大きく息を吸った。

「おはようございます!」

とびっきりの、カチカチに凝り固まった、とびっきらない笑顔で、わたしは朝の挨拶をした。




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