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【観聴(みるきく)】ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

こんにちは。おおかみの人です。

今回のトップ画像は、本のブックカバーに描いたイラスト。




今日はあまり体調がよくないのだが、書ける限り今日読んだ本のことを綴ろうと思う。

今日は午前中に色々と用事を済ませて、午後からゆっくり本を読んでいた。

普段、本はまったく読まない。でも、気になった本があって、先日購入したのだった。
それが、

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい

大前粟生さんの著作だ。

シネモンドのTwitterでRTが回ってきて、タイトルで「あ、これわたしだ」と思って迷わず買ったのだった。

わたしは、読んだ本や聴いた音楽、観た劇作品のことを紹介したり、感想を述べたりするのが苦手だ。
なんと言葉にしていいのか、そもそもこんなことを言ったら笑われてしまうんじゃないか、自分の感受性がないことを見透かされてしまうんじゃないか…というようなことを考えて、わずかになにか思っていたとしても、その言葉を呑み込んでしまう。

この本には、その感覚にほんの少しだけ、通じる部分があった。

どこか他所で起こった悲しい事件を見聞きして、まるで自分に起こった出来事かのように、疲れてしんどくなってしまう自分。
相手にしんどさを背負わせたくないがために、自分の想いを言い出せない心境。

わたしが【感想を述べたくない】心境も、主人公の七森や麦戸ちゃんが抱える上記のような心境も、【他者に何かを感じさせたくない】という点では、繋がっているように感じられた。

昨今HSPという言葉が【流行り】のように使われているけれど、この本を読んでいて正直、【そんな言葉でくくられたくはないよな】と思った。

表題作【ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい】でも、主語が大きく…「男は」とか「女は」とか…なればなるほど、それは個人を見ていない。それに当てはまらない人を傷つけることになる…と、言うようなことが書かれていたシーンがあった(はず。解釈が間違っていたらごめんなさい)。

LGBTQ+とか、HSPとか、双極性障害だとか発達障害グレーゾーンだとか、もちろん男だとか女だとか、世の中にはいろんな【カテゴリ】があって、いまのわたしは【レズビアン寄りのバイセクシャルであること】、【HSPっぽい気質が少なからずあること】、【発達障害っぽい傾向がわずかにでもあること】、そしてひいては、【双極性障害のスペクトラムのどこかにいるらしいこと】に、やっと少しずつ順応してきたと思う。

それでも、前に【双極性障害】というカテゴリに馴染めなくなりそうな瞬間はあったけれど。

いまのわたしは、カテゴリに順応してきたとはいうものの、それでもやっぱり自分のことを自分として…個人として、見てほしいな、とは常に思っている。
LGBTQ+の中のひとり、でも、双極性障害のいち患者、でもなく、【わたし】というひとりの人間として見ていてほしい、と思うのである。

そして、そんなことを考えると頭に浮かんでくるのが、さくら先生であることも否定はしない(どうか、「またさくらという人間のことか」などと思わないでほしい。わたしにとっては他にかけがえのない、唯一無二の大切な人物だから)。

わたしが昨年入院していたことは、わたしのnoteを読んでくださっている方ならご存知だと思う。
さくら先生は、その入院を期にわたしの主治医となった人物だ。

入院中、どんな話をしているときだったか忘れたが、さくら先生がわたしに

「もう、双極性障害という名前からは離れましょう」

と言った。

その時はわたしも浅はかだったので、

「わたし病気じゃないんだ!わーい!」

くらいにしか思わなかったけれど、今思うと彼女は、精神科医として【双極性障害のいち患者】としてわたしを見る…診るのではなく、自分についた障害というカテゴライズを外して、精神科医としてというよりは、先生自身がひとりの人間として、わたしをカテゴライズのなされていない【個人】として、みてくれようとしていた(いる)ことにほかならないよな、と感じた。超今更だけど。

ジャンルやカテゴリでくくられると、悪いことばかりではない。
わたしは広い広い【人形劇(が好き)】のジャンルの片隅にくくられていると思うけど、その中にいればいろんな情報が得られたり、新しい出会いやコミュニケーションができたり、コミュニティに所属できることで安心感を持てたりする。
それはいいことなんだろうと思う。
自分の最近の経験でいうとすれば、【金沢にじのま】というLGBTQ+のカテゴリのくくりのなかに飛び込んだことも、自己肯定感とか安心感、情報がたくさん入ってくる…といった意味ではものすごく自分にとって重要なことだった。

ただ。
LGBTQ+の世界に飛び込んで(というよりは、もともとその属性ではあったのだが)、やっぱり思うのは、まだまだ主語が大きいこと。

Twitterなんかを見ていると、「レズってセックスどうやってんのか気になる」とか、「ホモのおっさん2人がいちゃついててキモい」とか…(一例だけど)興味本位と嫌悪感だけで、大きな主語のつぶやきが平気でされているのを、見かけることがある。
そういうつぶやきを見るにつけて、それが自分に向けられた言葉でもなんでもないのに、七森や麦戸ちゃんのように、自分がどんどんしんどくなっていく。

ちなみにレズビアンのことを「レズ」と呼ぶのは差別的になるのでやめたほうがいい。
略すとしても「ビアン」と言った方が適切(だと思う)。

いま世の中で起こっている差別的な発言や運動なんかは、もしかするとこの【主語の大きさ】から来ているのかも。解像度が低い、と言い換えることもできるかもしれない。要は、大きな主語からイメージされる印象に惑わされて、本質…【個人】が見えてないのだろうな、と思う。

先入観ってこわい。
わたしもたとえば、ある人と話すとき、その人の性別や話し方からその人を勝手に判断(邪推とも言える)してしまうことが普通にある。たぶん、そんな邪推をもとにその人と喋っている節もあるから、自分だって十分加害者になっているのだ。
表題作【ぬいぐるみ〜】の七森も、自分が加害側に回ってしまっていた・いることを悔いている。そもそも七森は【男性】という【優位性】であることで加害者側に回ることもよく思っていないのだ。そんな心境ならなおのこと、生きていくのが、他者と関わるのが難しいと感じてもおかしくはないと思う。

そこで、ぬいぐるみ…

ぬいぐるみに話を聴いてもらう。
相手が人間じゃないから、話せることもある。

残酷な世界の中で、自分が傷つかず、相手も誰も傷つけない方法としての【ぬいぐるみとのおしゃべり】。

決して子供っぽいとは思わない。
自分を保つための手段としては、むしろ高度なものだと思う。

わたしも、相棒の【おおかみくん】や、【さくらちゃんパペット】に話しかけたり、話しかけずとも目を見つめて想いを伝えようとしたり、何も言えずにぎゅっと抱きしめるときもある。

人や動物の形をしたそれは、やっぱり不思議な存在で、そばにいればいるほど、愛着があればあるほど、ココロが繋がっていると、そう思わせてくれる魅力がある。

ひとと人形の関係について、以前購入していた【人形と人間のあいだ】も今後読む予定だ。
NHKのラジオ放送は聞けなかった分、一読の価値ありだと思う。

【ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい】は、同時に、自分の大学生の頃を懐かしく思い出させてもくれた。
七森や麦戸ちゃんはぬいサー、わたしは人形劇サークル。
学生会館やボックスと呼ばれる部室(わたしたちはハコと呼んでいた)、通い詰めたファミレスなど…物語から流れてくる風景や雰囲気が、当時の自分に重なった気がした。

主人公たちは過去のわたしであり、今のわたしでもあるな…と、そう感じた。


あんまり感想がまとまらなかったけれど、今回はこれでおしまい。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
4月に【ぬいしゃべ】がシネモンドで公開になるそうなので、観に行きたいなと思っています。

次回は未定です。体調悪いからゆっくりしたい。

次回もお楽しみに。それでは。

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