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【創作小説】『いとぐるま』第7話

目を覚ますと、まだ外は明るいようで、カーテンの隙間から光が漏れていた。

時計を見ると、時間は14時半を過ぎたところだった。
手に握りしめていたムームーは少し湿っぽくなっていて、あわてて起き上がって枕の上に座らせた。羊毛フェルトに水気は厳禁だ。

ふと見ると、枕の横に黒っぽい色をしたものが置かれている。それは夢の中でムームーといっしょに作ったあの毛糸玉だった。ちゃんと5玉揃っている。
夢からさめて現実の世界にやってきた毛糸玉は、夢の中よりもかなり小さいサイズになっていた。現実のムームーや糸車のサイズを考えたら、そのくらいになるのだろう。わたしの手のひらの上の毛糸玉は、直径5cmか6cmくらいの大きさになっていた。

糸の太さは、3mmか4mmといったところで、おそらく刺繍糸くらいの太さだろう、と思う。毛糸にしては細いのかもしれない。
わたしは毛糸玉の糸端を持って、少し糸をほどいてみた。

ココロというものには、形がない。ココロから生まれる気持ちにも、形はない。そして、わたしのココロには、いつもモヤモヤした気持ちがたくさん詰まっている。モヤモヤしているから、どこがどんな風になっていて、どこでどうねじれて絡まっているのかが、自分ではよく分からない。
でも、出来上がったこの糸を見てみると、凝り固まった自分の気持ちが、するするとほどけていくような…そんな気がした。
不思議な機械と不思議な人形が、わたしのココロから紡ぎ出したこの糸は、そんな不思議な力を持っているようだった。

ぐうぅー、と、お腹が鳴った。
あれ、わたしいつから食べてなかったっけ?そう言えばものすごくお腹が空いている。
わたしはレジ袋の中から梅がゆを取り出すと、お椀にラップをかけてそこに空け、電子レンジに入れた。温め終わるまでの間に、カーテンを開けて外の光を浴びてみた。まるで吸血鬼みたいに、久々に浴びた日の光で身体が灰になってしまうんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。ちゃんとわたしの身体はあったかいし…

あれ。そう言えば、寒気がしない。
枕元に置いてあった体温計を脇に挟んで体温を測ってみると、37℃ちょうどだった。熱はかなり下がっているようで、頭痛もめまいも収まっている。まだ身体のだるさは少し残っているけど、それでも部屋の中で少しは動けるくらいまでには回復したみたいだった。

レンジからおかゆを取り出して、今度はちゃんといただきますをしてから食べた。
やっぱり、温かい食べ物は身体に染みる。おかゆがちょっと物足りなく感じるのは、体力が戻ってきているからだろうか。わたしはりんごゼリードリンクを飲み、チョコレートをいくつか食べて、ちゃんとごちそうさまをすると、よし、と気合いを入れてお風呂場に向かい、お湯を沸かし始めた。
しばらくお風呂に入れていなくて、もう限界。顔も身体もベタベタだし、髪の毛は脂ぎって毛束ができている。それに、歯も磨けていないので口の中がなんだか気持ち悪い。一刻も早くさっぱりしたかった。

浴槽にお湯が溜まったところで、ゆるゆると準備をしてお風呂に入った。
かけ湯をして、少し熱めのお湯にドボンと浸かる。

「あぁ〜…」

思わず大きな溜め息が出た。数日ぶりのお風呂はやっぱり気持ちがいい。首元までしっかり浸かって、ゆっくり10秒数える。いや、それじゃあ足りないと、もう10秒追加して、さらにそれでも足りなくてもう10秒付け足した。
ゆっくり30秒お風呂に浸かって温まったところで湯船から出た。
お風呂のルーティンは人によっていろいろあると思うけど、わたしは頭は後回しにして身体から洗うタイプだ。タオルを濡らしてボディソープをたっぷりつけて、やさしく身体を擦る。
首から始まって、両腕、胸とお腹、脇腹、両脚、背中と洗い、おしりまで洗えたら、身体洗いはおしまい。風邪を引いてから極端に体力が落ちてしまったようで、各パーツを洗うと短い休憩を入れた。身体じゅうがもこもこの泡で包まれていく様子は、まるで自分自身がムームーに変身しているように思えてちょっと笑ってしまう。

身体が洗い終わると、洗顔をして、そのまま頭を洗う。香りと洗い上がりがお気に入りのシャンプーを手のひらにたっぷり取って、予洗いでよく濡らした髪につけて泡立てる。
頭皮や髪の毛が脂で汚れすぎているのか、一度洗いでは泡が立たないので、一度すすいで二度洗い。今度はもこもこのかっちりした泡が立った。

「つのつのいっぽん、あかおにどん」

懐かしい歌を歌いながら、泡まみれの髪の毛で1本の大きなツノを作る。目の前の曇った鏡に、1本角の鬼が現れた。

「つのつのにーほん、あおおにどん」

今度はツノを2本に分けた。パンのヒーローが出てくる子ども向けアニメの悪役みたいなツノになった。ぐへへ。はーひふーへほー!いまなら何でも悪いことができそうだ。

頭をよく洗えたら、しっかりと洗い流して、コンディショナーをたっぷりと髪に塗りつける。
毛先の方を脱色した髪はもう傷みすぎてパサパサだけど、ちょっとでもうるツヤの髪になるようにと念を込めながら、丁寧に手入れをする。1分ほど待って、コンディショナーもきれいに洗い流したら、頭洗いはおしまい。もう一度軽く洗顔をして、そのまま歯を磨く。そして足の裏を手できれいに洗って、全身をシャワーで流したら、わたしのお風呂のルーティンはこれでおしまい。

「ふぅ〜。さっぱり」

バスタオルで身体を拭きながら、ぼーっとする。濡れた髪からいくつも雫が滴って落ちる。
身体が冷えるとまた風邪がひどくなりそうなので、あわてて服を着て髪を乾かした。
髪の毛はサラサラだし、顔も頭も身体もベタつきが取れてさっぱりしていて、すごく気持ちがいい。
わたしはベッドに腰掛けると、ムームーに声をかけようと思って枕の上を見た。

あれ?ムームーがいない!

枕や布団をどかしてみたけど、ムームーはそこにはいなかった。
ふと手芸棚を見ると、ムームーは糸車の椅子にちょこんと腰掛けて、いつものようにボビンに手をかけていた。どうやらまた、糸を紡いでいたみたいだ。床の上にボビンは落ちていなくて、できたのはフライヤーにあるこの1巻きだけのようだ。

ムームーの手をどかして、フライヤーからボビンを外して出来上がった糸をほどいてみる。わたしがお風呂に入っている間に紡いだであろうその糸は、どうやら色んな色が1本の中に混じった糸のようだった。

ベースは、明るく爽やかな黄色。きっと、お風呂に入ってさっぱりしたわたしの気持ちを表しているのだろう。そこに、流れていった汗の水色や、久々にお風呂に入れてホッとした気持ちのピンクなど、何色か混じってところどころグラデーションになっている。そして、頭を洗っていたときに紡いだであろう部分は、はじめは淡い赤色に、その次に淡い青色に染まっていた。

随分とポップな色に仕上がった今回の糸を見て、わたしは自分の気持ち次第で、様々な色の糸が作れるのかもしれない、と思い至った。
落ち込んだり悲しい気持ちのときはどうしても暗い色になりがちだけど、今みたいに楽しい気持ちや嬉しい気持ちのときは、明るい色の糸が作れるのかもしれない。

わたしはムームーを手に取って、じっと目を見つめた。
ムームーはわたしの気持ちを紡ぎ出すのにがんばってくれている。だから、わたしはその出来上がった糸を使って、想いを形に仕上げる義務がある…と思う。
編み物の知識はほぼ皆無なので、羊毛フェルトをやり始めたときみたいにまた新たに技術を習得する必要はあるけど、自分の気持ちを形にできると思っただけでわくわくした。

わたしはベッドサイドに腰掛けると、充電してあった携帯を取った。気づかない間に川上さんからメッセージの返信が届いていた。

まゆちゃんおつかれ✋
コロナじゃなくてよかった!でも、しんどいね。それでも少しずつ良くなってるみたいで安心したよ☺
ちゃんと食べてる?水分取ってる?少しずつでいいから、栄養と水分補給は忘れずに😌✨

それから、施設長とも相談したんだけど、やっぱりまゆちゃんにはまずしっかり休養を取ってほしいなと思ってる🛌とりあえず、今月分のまゆちゃんのシフトは全部白紙に戻してあるんだけど、まゆちゃんが十分休めて、また元気になったなー、また出てこれそうだなーと思ったら、私に連絡入れてくれる?
たぶんいきなり出勤になったらつらいだろうし、私も施設長も一度まゆちゃんと話す時間をしっかり取りたいと思ってるから、次来るときはいっぱい話せたらいいなと思ってるよ☺勤務のことはとりあえず、今は何も考えなくていいからね😉
くれぐれも、焦らないようにね!今はとにかく、休みたいだけ休んでいいから。
またそのうち、連絡ちょうだい😘待ってるね!ゆっくり、おやすみ🌃


わたしは、ココロの底からホッとした。身体の方はかなり楽になってはきたけど、職場に向かうことには抵抗がものすごくあるし、そもそもこんなに体調を崩したあとで、自分が通常業務に耐えられるとも思えない。たぶん、川上さんも施設長もそこまで考えて、わたしに最大限の配慮をしてくれたのだろう。ありがたいことだ。
でも…よつばは、他の介護施設と同じで決して人手が潤沢にあるわけではない。いくらわたしが大した戦力にならないとは言っても、わたしが抜けた分の穴を埋めるには他のスタッフさんの犠牲が必要になる。ホッとした気持ちも束の間、申し訳ない気持ちがココロの中いっぱいに広がった。わたしが他の人たちに迷惑ばかりをかけているんだと思うと、情けなくなった。

…でも。川上さんは、休みたいだけ休んでいいよ、と言ってくれている。わがままかもしれないけど、いまはその言葉に甘えようと思った。
よつばはゴールデンウィークも稼働していて、わたしも出勤していた。なので、ちょっと遅れたゴールデンウィークを今から満喫しよう。そうだ、お休みを頂いている間に編み物の練習をしよう!いや、その前に、食料が底を尽きかけているから、買い物にも行かないと。買い物に行く前に、溜まった洗濯物も片付けなきゃな。
やりたいことも、やらなきゃいけないこともたくさん。少しずつこなしていこう。
わたしは買い物メモを書いて、お風呂上がりの束の間の休憩の時間をぼんやりと過ごした。

そう言えば…編み物ってどうやってやるんだろう。針を使って編んでいくことは知ってるけど、ほとんど何も知らないので、携帯で調べてみることにした。
「編み物 初心者」と入力して検索すると、「編み物初心者さん向け♪簡単な編み方で作るコースター」とか、「編み物初心者向け編み図解説」とか、色んなページがヒットした。ページをスクロールして、編み物の基本が載っていそうなサイトを開く。

そのサイトによると、編み方は大きく分けて2通りあるらしい。棒針編みと、かぎ針編みだ。
棒針編みは、先が尖っていて根本に玉のついた少し長めの2本の編み針を両手に持って編む編み方で、ニット帽やマフラーを作るのに使える編み方らしい。一方のかぎ針編みは、先に返しがついた1本の針を持って編み進めていく編み方で、棒針よりも初心者向けでいろいろな形が作りやすい、とあった。だとすると、わたしが挑戦すべきはかぎ針編みだろうか。

棒針編みの項目を飛ばして、かぎ針編みの説明の部分を読んでみる。初心者向けの編み方アドバイスが載っていた。
まず、かぎ針編み初心者は、並太以上の太くて明るい色の毛糸に、糸の太さに合った号数の針を使って編む練習をするのがいい、と書かれていた。細い糸だと初めは編みにくいし、暗い色の毛糸だと編んでいるときに編み目が見えなくて編みづらいらしい。なるほど、と思って、わたしは買い物メモに「毛糸(太くて明るい色)」と「かぎ針(毛糸に太さを合わせる)」を追加した。

その項目の下には、かぎ針編みの色んな編み方の名前がリンクになっていて、各ページを開くと手元の写真つきで編み方が解説されていた。
鎖編みに、細編み、長編み…など。どんな編み方かはいまは分からないけど、毛糸と針を揃えたら早速トライしてみよう。わたしは見ていたページをブックマークしておいた。

ぼんやりと過ごしていたら、いつの間にか時刻は17時を回っていた。テレビをつけると、夕方のニュースをやっていた。
高速道路で玉突き事故。一悶着ある、なかなか決まらない法案。戦争で、市街地に爆弾が落ちてたくさんの犠牲者が出たという速報。超有名大手芸能事務所の暴力スキャンダル。大地震のあと、高齢化でなかなか復興が進まない被災地の映像と、住んでいた家が潰れて途方に暮れるおじいさんの顔…。そして、放送局は何を考えているのか分からないけど、そんな重たいニュースの合間に、どこか知らない国の誰か知らない人が飼っているペットのスクープ映像と言って、小さな人助けをしたと言う犬の映像をダラダラと流している。それに対して、大した中身もないコメントをするアナウンサーとコメンテーターたち。

わたしはもうすっかりうんざりしてしまって、チャンネルを変えた。チャンネルを2に合わせると、ちょうどうたのおにいさんとおねえさんが今月の歌を歌っているところだった。ふたりは行進しながら、「何も持たずに部屋を飛び出そう、青空の下大きく手を振って、元気いっぱい歩こう」と歌っている。背景は公園になったり、着ぐるみ人形劇の舞台の島になったり、常夏の島や北極になったりと、目まぐるしく変わっていく。

子ども向けのこういう番組だけが、いまのわたしの救いだと言ってもいい。
ニュースを見ると、不用意に傷つくことが多い。いつも、どこかで誰かが、何かに巻き込まれてつらく苦しい思いをしている。そういう話を耳にするのは、わたしにとっては大きな苦痛だ。
じゃあバラエティやドラマを見ていればいいじゃないか、と思われるかもしれないけど、バラエティはどれも子どもだましのような内容ばかりに見えてくだらないし、ドラマはドラマで誰かと誰かが争っているようなシーンを見るのが苦痛だし、誰かが不幸になるのも見たくないので、見ないようにしている。お笑いの番組くらいならたまに見るけど、昔公共放送でやっていたお笑い番組のような活気がないような感じがして、あまり笑えない。それに、芸人やその周りの有名人のスキャンダルの話を聞くのももうこりごりだった。

1曲歌を聴き終わると、わたしはテレビを消した。もうテレビの今日1日の最大摂取量をオーバーして、お腹いっぱいだ。
さっき変な時間にご飯を食べたけど、またお腹が空いてきた。川上さんにもらった食料は、ゼリー1パックとチョコレート数枚を残すだけになっている。流しの下にカップラーメンのストックがあるけど、もっとこう…人間らしい、まともな食事がしたかったわたしは、せめてスーパーに晩ご飯を買いに行こうと思った。

日が落ちて少し涼しくなるのを待つ間、わたしは溜まっていた洗濯物を洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。そして出かける支度をすると、戸締まりを確認して近所のスーパーに買い出しに出た。




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