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【創作小説】『いとぐるま』第3話

今日はちょっとラッキーな日だったかもしれない。

朝職場に着いた時間はいつもより5分ほど遅かったけど、自分のお手製マニュアルを見ながら、少し落ち着いて準備ができた。
ボイラーの電源が入っていることを確認して、お風呂のお湯を入れることができたし、利用者さんが使う使い捨てコップにはちゃんと「さん」までつけて名前を書き終えた。新聞も外れないようにセットしたし、氷水を汲んでこぼれた水もちゃんと拭いた。お弁当の注文もなんとか間に合ったし、昨日誰かが片付けてくれたのか、椅子の上にはそもそもタオルの山がなかった。

ベッドメイキングの仕方が間違っていたようで、それは後で指摘されて正しいやり方を「また」教えてもらった、ということはあったけど、朝の準備に関しては今日は割と上手に出来た方だった。

朝の準備を一通り終えて、今日の業務を確認すると、ホワイトボードのわたしの名札の上には「風呂」の文字があった。
わたしは正直、ちょっとげんなりしてしまった。

お風呂場というのは、常に危険と隣り合わせだ。
床に少しでも石鹸が残っていれば、利用者さんが転んで怪我をしてしまうかもしれない。それに、高齢者の皮膚感覚に合わせて少し高めに湯温を設定してあるので、油断して少しでも長風呂させてしまうと利用者さんがのぼせてしまい、最悪失神、意識不明になる危険もある。その他にも、一度に何人もの利用者さんがお風呂を使うため、仲の悪い利用者さん同士が鉢合わせしてしまったときはもう…。

玄関に送迎車が止まり、おじいさんおばあさんたちがゆっくりした足取りで施設にやって来た。
わたしは頭の中でごちゃごちゃしていた懸案事項をなんとか頭から振り払って、強制的に笑顔を自分に貼り付けると、大きな声で挨拶をした。

「おはようございまーす!」




午前中になんとか31人の利用者さん全員のお風呂が終わり、広い広いお風呂の掃除もなんとかやり終えて、お昼の時間になった。
今日のお風呂もヒヤヒヤの連続で、何度も対応に苦慮したあとで風呂の掃除が待ち構えていたので、すでに疲労困憊。わたしは早々に昼食を済ませると、デスクの上に突っ伏して仮眠を取った。

午後からのレクリエーションは近場散歩…近所の公園への散歩になっていたけど、外はひどい雨で、レクリエーションは中止になった。
代わりのレクも予定されていたけど、スタッフの人数が足りずにできなくなって、午後は談笑の時間になった。

「原田さん、今日午後からホールお願い。おじいちゃんおばあちゃんの話し相手になってあげて」

指導役から声がかかった。
わたしはほんの少しだけ気が楽になった。というのも、自分にとっては「おじいさんやおばあさんの話し相手になる」のが1番負担の小さな仕事だからだ。
もちろん、話し相手になりながらも常にホール内の動きを察知していなければいけなくて、色んなところに気を配らなければいけないので、これはこれで骨の折れる仕事ではある。でも、利用者さんと話している間は朝の準備みたいに慌ただしくもなければ、風呂当番みたいに体力をごっそり持っていかれるわけでもない。おまけに、話が弾めば利用者さんの笑顔がついてくる。どれだけ仕事がつらくてしんどくても、利用者さんの笑顔が見られたその間だけは、少しココロが休まった。

利用者さんのお昼ご飯も終わって、片付けも終わり、スタッフのサポートが付いての利用者さんの歯磨きもなんとか終わって、やおら談笑の時間が始まった。

ホールには8台のテーブルが2台ずつ固めて置いてあり、各テーブルには3〜4人の利用者さんが着席して、各々作業をしたり、談笑をしたりする。
席順は、翌日に来所する利用者さんが誰かを確認した上で、前日の業務後に決める。
この人とこの人はたくさん喋りたい人なので近くに座ってもらう。逆にこの人とこの人は反りが合わないのでなるべく離れた席に。認知症が進行してきて常に見守りが欠かせないこの人はスタッフステーションの近くの席に。麻痺があって行動にスタッフの介助が必要なこの人は、お手洗いの近くに…など、色々なことを考え合わせた上で、大体の席が決まっていく。まあ、それでもうまくいかないこともあるけどね。

ホールの端からホール全体を見て、ひとりぼっちになっている利用者さんを見つけるのは簡単。もちろん、人に話しかけられるのが苦手な利用者さんもいるからそこは注意しないといけないけど、そういう人は事前に他のスタッフさんが教えてくれる。

橋本さんというおばあちゃんが、所在なさげにぽつんと座っていた。向かいには腕組みをした不機嫌そうなおじいちゃんが座っていて、左隣と斜向かいのおばあちゃんは、アクリル板などものともせずに話に花を咲かせていた。

橋本さんは、左の耳が聞こえない。なので、今の席に座っていると会話がほぼ全く聞こえず、会話に入ることは難しい。聞こえる方の右耳も、はっきり聞こえるというわけではなく、耳の近くでかなり大きな声で話さないと聞こえない。本人にとって聞こえないことは相当のストレスになるようで、うまくコミュニケーションが取れないとむっつりと黙り込んでしまうことも多い。

わたしは橋本さんを驚かさないように右側から回り込んで近づくと、小さな丸椅子を置いてそこに座り、少し低い大きめの声で橋本さんに声をかけた。

「橋本さん。きーたーよー」

わたしの顔を見た橋本さんの顔は、ぱあっと笑顔になった。

「ありぃ〜、まゆちゃん。よお来たねえ。どうしたがや」

橋本さんはスタッフの名前をちゃんと覚えていて、新参者のわたしの名前も覚えてくれていた。

「おしゃべりしに来たよ。橋本さん、最近調子どうですか?」

利用者さんと会話しているときの笑顔は、自然に生まれる笑顔だ。この笑顔を忘れないようにして、それから利用者さんファーストな会話をなるべく心がけている。

「調子かいね。いっつも通りやあ。なんもないわ。まゆちゃん、なんかおもしいことでもなかったんけ?」

「え、わたし?うーん、そうやねえ…」

利用者さんファーストを心がけてはいるけど、利用者さんの方からこんな風に「何か話して」と求められることもある。そんなときは、なるべくその利用者さんが喜んでくれそうな話題をなんとか用意して、話をするようにしている。
でも、話題が思いつかないなあ。そう思ったとき、あの不思議な糸車のことが頭をよぎった。

「わたしねえ、昨日手芸屋さんに行って、糸車を買ったんですよ」

「何をうたって?」

「糸車。糸紡ぐ機械です」

「ありぃ。糸車なんて、売っとったがか。懐かしいねえ。わしも昔糸車よう使つことったぞいね」

「昔って、山のお家に住んでた頃?」

「ほーや。山の家やまんちの天井裏んな、蚕うとって、その蚕の繭から糸取るがに、糸車回しとったわ。まゆちゃんは、蚕見たことあるが?」

「蚕、見たことないけど知ってます。白っぽい色のイモムシでしょう?」

「ほーや。山の家の横に桑畑があってな。そこから桑の葉いっぱい採ってきて、蚕の台に広げとくと、蚕がムシャムシャよう食べるがや。夜寝とるとき、シャリシャリシャリ…って音して、何の音かいなと思ったら、蚕が桑食む音やったわ。びーっくりしたもんや」

「へえー!蚕って食いしん坊なんやねえ。それで、どうやって、蚕の繭から糸を作るんですか?」

「どうやってやっとったっけ。えーっとぉ、繭をぐずぐずになるまで鍋で煮るやろ。ほんで、煮えたら糸の先っちょを探すが。ほんで、いくつか糸の先っちょまとめて、巻き取るがや。その巻き取ったがが絹糸言うが。ほいたら鍋の中で繭がくるくるーと回る。ちゃんと巻き取れんと大変やから、繭がちゃんと回っとるか見とらんなんがや」

橋本さんは身振り手振りを交えて絹糸の紡ぎ方を話してくれた。わたしが買った糸車での糸紡ぎとはまたちょっと違うようだったけど、昔はきっとこうして蚕から糸を取って暮らしていたんだな、と、ぼんやり頭の中で想像することができた。

「へえー、そうやって糸を紡ぐんや。難しそうですね。わたしでも糸紡ぎ、できるかなあ」

「でっきるわいね!練習あるのみや。せっかく糸車買うたがやったら、試してみられ。糸車も喜ぶがでないかねえ」

そう言うと、橋本さんは豪快にアッハッハ、と笑い出した。
よかった。喜んでもらえた。わたしはホッとした。

「お話し中のところごめんね〜」

スタッフステーションから指導役がわたしの方にやってきた。一気に自分の中に緊張が走る。何か不手際があっただろうか。冷や汗が吹き出した。

「ごめん原田さん、申し訳ないんだけど、田口さんが子どもの急病で早退したんだわ。やし、今から記録つけてもらえんかな。やり方教えるし」

よかった。注意じゃなかった。お化け屋敷よりドキドキしたかもしれない。

「はい。わかりました。お願いします」

指導役は橋本さんの右耳のあたりに顔を寄せた。

「ごめ〜ん、まゆちゃん借りてってもいいけ?」

「ありぃ〜残念や。またお話ししに来てや」

「また来るね〜」

橋本さんと握手をして、わたしは指導役とスタッフステーションに戻った。




明日の準備やレクミーティングなど、諸々の仕事が終わると、もう20時前だった。
疲れ果てていたわたしは、帰りにコンビニに立ち寄って「スタミナ牛丼弁当」とコールスローサラダを買って家に帰った。あまりにも疲れすぎていて、「スタミナ」と書かれたものに反応してしまう。

「ただいま…はあ…」

わたしは荷物を適当に玄関に置くと、部屋に入らずにそのまま着ていたものを脱ぎ去って、お風呂に直行した。一刻も早くシャワーを浴びたかった。ほんとうはお風呂を沸かしてゆっくり浸かりたいけど、沸かしている間に眠り込んでしまいそうなくらい疲れきっていた。
湯温が不安定気味のシャワーを身体に浴びただけでも溜め息が出た。身体を洗って、頭も洗って、全身きれいになった頃には少し気持ちも休まっていた。
中途半端に伸びかけで、毛先を脱色してある髪の毛はパサパサ。お風呂上がりに流さないトリートメントを塗り込んで、ドライヤーをさっとかける。そして、荷物を片付けて、洗濯物を洗濯機に放り込んだ。

買ってきたお弁当とサラダを持って、部屋の明かりをつけたとき、微妙に朝とは様子が違うような、そんな気がした。
手芸棚に近寄ってみる。

「あれ!」

羊くんは立ち上がって、またボビンに手をかけたところで止まっていた。
わたしは持っていたお弁当をテーブルに置いて、羊くんの手をどかすと、そこにはピンク色に薄い灰色がところどころ混じった糸が巻かれていた。

また、羊くんが糸を紡いだんだ!
…え?いやいや…ちょっと待って、どういうこと?

朝は忙しくて考える余裕すらなかったけど、わたしの頭はハテナでいっぱいになった。心霊現象で夜中に人形が勝手に動き出す話はどこかで聞いたことがあって、そんなわけ無いだろう、と思っていたけど、目の前の羊くんは…確実に動いた形跡がある。じゃなかったら、この大量のボビンの説明がつかない。怖いとは思わなかったけど、ただただ不思議で、一体どういうことだろう、と狐につままれたような気分になった。不思議だなと思う一方で、羊くんがわたしの妄想どおりに糸車を使ってくれたことが嬉しいと思う気持ちもあった。

フライヤーの軸からボビンを外し、出来上がった糸をまじまじと見つめる。
ピンク色と灰色が混じった糸。羊くんは色合わせのセンスがいいらしい。桜の時期はもうとっくに過ぎてしまったけど、春先らしい温かみのある色合いに仕上がっていて、ほっこりした。

ひとつだけ、わからないことがあった。
昨日の晩嫌な夢を見て、起きてみると灰色の糸が量産されていて、仕事から帰ってきてみると今度はピンクっぽい色の糸が一巻きできていた。
わたしは糸紡ぎ用の綿なんて買っていないし、いったい羊くんは何を紡いでいるんだろう?材料はどこから調達しているんだろう?

「ねえ羊くん。おまえはいったい何を紡いでいるの?どうやってこんなにたくさんの糸を紡いでいるの?」

羊くんに尋ねてみたけど、恥ずかしがっているのか返事はしてくれなかった。

わたしはテレビをつけて、お弁当を貪った。
ぼーっとしている自分の頬をパシパシと叩いて無理やり目を覚まそうとした。今日は考えたいことがあるからまだ眠れない。

棚の上にも下にも散らばっていた大量の小さなボビンをかき集めて、その中のひとつを手に取り、糸をほどいてみる。
小さなボビンに巻かれた糸の長さは、わたしの両手を広げた幅くらいだから…身長と同じくらいの長さだった。ボビンの数を数えたら、なんと31個もあった。一晩の間に、羊くんは…暗算ができないけど、ものすごい長さの糸を紡いでいたことになる。あの小さな体で!

糸を見たら、羊くんが何を材料に糸を紡いでいたのか分かるかと思って、再び糸をまじまじと見つめる。
糸は濃い灰色だけど、灰色一色でできているわけではなくて、その中には赤っぽい繊維や青っぽい繊維、黄色や緑、紫やオレンジなど、何色も混じっていることが分かった。
…そう言えば、ホコリが灰色なのは、色んな色の繊維が集まっているからだ、という話をテレビで聞いたことがある。ということは…。

これ、もしかして全部、うちのホコリを紡いだってこと!?

ひっ、と短い悲鳴をあげて糸を取り落とす。そしてがっくりと、肩を落とす。
羊くんがホコリを紡いでいたことにがっかりしたんじゃなくて、31巻きも糸が作れるくらい自分が部屋にホコリを溜め込んでいたという事実に気付かされて、がっくりしてしまった。確かに最近仕事の忙しさにかまけて掃除がおろそかになっていたから、気づかないうちにそのくらいホコリが溜まっていたのかもしれない。生活する上で最低限の家事もできない自分に気づいて、どんよりとした気持ちになる。

…ん?待てよ?それじゃあおかしくない?
だとしたら…。

今度は新しくできていた、ピンクに灰色が混じったたった1巻きだけの糸を見つめる。
同じ灰色でも、さっきの糸とは色合いが違うし、そもそも明らかにピンク色の原毛が使われているように見える。

この色の違いは、どうやって出しているんだろう?ホコリが材料だったら、こんなきれいな色にはならないはずだ。

テーブルの上を片付けて、糸車と羊くんを並べて置く。わたしは背筋を正して正座をすると、咳払いをひとつして、羊くんに目をやった。

「ねえ羊くん。教えて。この糸、どうやって紡いでるの?…って言うか、材料は何を使ってるの?もちろん、この糸車は使ってもらって構わないけど、何を使って作ってるかだけでも、教えてほしいんだけどなあ。まさかとは思うけど、うちのホコリを使ったわけじゃないよね?」

1分くらい待ってみたけど、さっきと同じでやっぱり羊くんは答えてはくれなかった。そりゃそっか。人形だもんな。

「まあ、いっか。そのうち気が向いたら教えてよ。
でも、いきなりこんなに糸を紡いで疲れたでしょ。今日はゆっくり休んだらいいよ」

目覚まし時計はもうすぐ23時を指すところだった。
わたしは手芸棚から真っ白な布と、小花柄の薄いピンク色の布を取り出すと、それを羊くんの大きさを見ながら四角く畳んだ。

「即席だけど、これ、おまえのお布団。寝心地はよくないと思うけど、少しでも休めたらいいな」

わたしは糸車と羊くん、それから椅子を棚の上に戻すと、その隣に敷き布団の白い布を敷いて羊くんを寝かせ、その上に掛け布団の花柄の布をかけてやった。

「羊くんおやすみ。いい夢見てね」

わたしは電気を消して、ベッドに入った。
疲れすぎて、枕に頭がつくと同時に、意識を失ってしまったらしかった。




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