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【創作小説】『いとぐるま』第10話

ムームーと約束をした日から、わたしは一層精力的に活動をするようになった。

まず近所の本屋に行って、あみぐるみの作り方の本と、認知症をわかりやすく解説した本、そして身体介助の方法を写真つきで解説した本…などなど、数冊の本を買い込んだ。あみぐるみの本は、自分でオリジナルのあみぐるみを作って、施設の午後のレクリエーションのときに使えたら楽しそうだと思って。そして残りの本は、お年寄りの介護は初心者で特に資格も持っていないわたしが、仕事をする中で困った場面を思い出しながら、必要だと思ったものを買った。どの本も分厚く重いものばかりで、全部買ったら1万円を余裕で超えたけど、これは必要経費だと思って目をつぶることにした。

家では、午前中はたっぷり編み物の練習をした。オレンジ色の毛糸であのコースターのようなものを作ったときの【往復編み】という編み方の他に、【輪編み】という、ぐるぐると編んで円形を作っていく編み方も少しずつ覚えて、編み物がますます楽しくなっていった。そして、買ってきたあみぐるみの本によると、往復編みと輪編みができるようになって、基本的な形…丸や四角が作れるようになれば、その組み合わせでいろんなあみぐるみが作れる、とあった。わたしは何を作ろうかと悩んで、その悩んでいる間もわくわくした気持ちが止まらなかった。

そしてお昼休憩を挟んで、午後からは介護関連の本を少しずつ読んだ。
身体介助の本は、実際に練習する相手がいないので技術こそ上達はしないけど、写真の図解を何度も見て少しでも介助のコツを覚えようとがんばった。特に、以前わたしの下手な介助で怪我をさせそうになってしまったおばあちゃんが半身麻痺だったので、半身麻痺の人の介助の仕方についての項目はページが擦り切れるほど何度も読み込んだ。

認知症についての本も少しずつ読んでいった。よつばには毎日たくさんの認知症の利用者さんがやってくるけど、利用者さんによってその症状や人柄は様々で、物忘れがひどく何度も同じことを繰り返すやさしい雰囲気のおばあちゃんもいれば、気難しくて特定の話題や食べ物などに対してしか興味を示さないおじいちゃん、言葉でのコミュニケーションが難しくなってしまったおばあちゃんや、徘徊してしまう癖があるおじいちゃんなど、一口に認知症とは言っても百者百様の症状があることを知った。
わたしが買った本は、認知症の当事者の方たちの視点から、実際にどのようなことが起こっているのかを紐解いている珍しい本だった。認知症の当事者を旅人として、まるでファンタジーにも見える様々な世界…当事者にとっての「現実世界」を旅する、という内容になっている。旅人たちの旅の記録を読みながら、いろんな利用者さんのことを思い出した。あの利用者さんは、いったいどんな過去を持っているのだろう。元々どんな生活をしていて、どんなことが好きで、いままでどんなことをがんばってきたのだろう。そういうことをもっと知っていけば、利用者さんへの接し方をもっと深みのあるものに変えていけるかもしれない。そんなことを思うと、自分にはまだまだのびしろがあるのだと、そう思えた。

編み物の練習中も介護の勉強中も、わたしは常にムームーをテーブルの上に置いている。指ができ、左右の脚の長さも揃ったムームーは、わたしが集中して読書や編み物に励む様子をただただじっと見ている。約束の通り、そばにいて見守ってくれるムームーの存在はとても大きかった。何よりの癒しとなる存在が自分のそばにいる。それだけでかなり気持ちは落ち着いた。

6月上旬の、雨がしとしとと降るある日。わたしはムームーと一緒に作ったあの灰色の毛糸で球体を編み、中に綿を詰めながら考え事をしていた。
体調も気持ちもかなり回復してきて、今なら…職場に足を向けられるかもしれない。このまま仕事から逃げ続けていれば、いくら末端の職員とはいえ周りに迷惑がかかる。それに、自分の気持ちを川上さんや施設長にちゃんと話しておきたい。だから…もうそろそろ、川上さんにメッセージを送ろう。わたしは綿を詰めていた手を止めて携帯を手に取り、メッセージアプリを開いた。

川上さんとのメッセージのやり取りは、体調をひどく崩していた先月の川上さんからのあの励ましのメッセージで終わっている。ちょっと間が空いてしまったし、どうメッセージをしたものかと少し悩みながら、わたしは文字を打ち込んだ。


川上さん、お疲れ様です。原田です。
あれからゆっくり休んで、体調は無事回復して、なんとか日常生活が送れるくらいになりました。差し入れしていただいた食料や薬のお陰で、回復が早かったように思います。ありがとうございました。
長いお休みを頂いて、皆さんにご迷惑をおかけしてほんとうにすみませんでした。
また日程を合わせて、川上さんや施設長とお話しができたらいいなと思っています。お忙しいところ申し訳ありませんが、面談可能な日時を教えていただければありがたいです。

ここまで打ち込むと、わたしはひとつ深呼吸をして、送信ボタンを押した。最近感じたことがないくらい緊張した。川上さんはどんな反応をしてくれるだろうか。まあ、本題は面談の日時を決めたいと言う部分なので、もしかしたら面談可能な日時だけを教えてくれるだけかもしれないけど、どんな返事が来るかと思うとドキドキしてしまう。

球体に綿を詰め、もう一回り小さい球体を途中まで編んだところでお昼になった。わたしは近くのコンビニでお弁当とお茶を買って、そのままイートインスペースで食べ始めた。頭の中は、川上さんからどんな返事が来るだろうと言うことと、次職場に行ったら何を話そうかと言うことでいっぱいで、ぼんやりしながら食べていたらいつの間にか30分も経っていた。

ポケットに入れた携帯が振動したので見てみると、川上さんからメッセージが届いていた。いったいどんなメッセージが届いたのだろう。おそるおそる、わたしはアプリを開いた。


まゆちゃんおつかれ✋
体調よくなってよかった〜!😌✨休みのことは全然気にせんでいいよ😉そういえば、橋本さんがまゆちゃんのこと心配してたよ。最近見かけんけどまゆちゃん元気にしとるがか〜って言ってた。また元気になったら話してあげてね!
さっき施設長と相談したんだけど、面談の日時は来週の12日月曜日の13時からはどうかな?その日やったらたっぷり時間とれそうやし、まゆちゃんきっと話したいこといっぱいあるやろうから、ゆっくり話聞くよ😉また予定聞かせて😘

いまはノープランの日々を送っているので、面談の日時は問題がなさそうだ。
橋本さん…糸車の話をしてくれた、あのおばあちゃん。話していたときの笑顔を思い出して、わたしも橋本さんが元気にしているのか気になった。きっといつも通り通所しているんだろうけど、利用者さんまでわたしのことを気にかけてくれるなんて。なんだか申し訳ない気持ちになったけど、また元気な姿を見てもらいたいな、と思った。そのためにも、いまはできることをやったりちゃんと養生したりして、仕事に備えなければ。
わたしは川上さんのメッセージに返信して、コンビニを出た。




飛ぶように時間が過ぎて、今日はいよいよ6月12日月曜日。いよいよお昼すぎから面談だ。
どんなことを話そうか、どんな顔をして挨拶しようか、なんてことを考えていたら昨晩寝付けなくなってしまって、夜中の2時くらいまで起きていた。結局ムームーを抱いて深呼吸したらなんとか眠れたけど、起きてみたらもうすぐ10時と言うような時間で少し焦った。まあ、8時間くらい眠れたから睡眠不足ではなさそうだしよしとする。

やっぱりどんなことを話すかは悩むけど、自分なりにノートにはまとめていた。
まず、どうしてここまでの体調不良になってしまったのかという説明と謝罪。そして、それを踏まえて今後どんな働き方がしていきたいのかと言うこと。ベースはこんな感じで、あとは近況の説明とか、働き方と絡めて今後やってみたいこととか、そういうことも話そうと思っている。

こうやって話すことはだいたい決めたけど、それでもやっぱり面談のことを考えるとどぎまぎしてしまって冷や汗をかいてしまう。心拍も上がって、呼吸も浅くなっているのが分かる。
わたしはムームーを胸元に握りしめると、そのまま目を閉じてお祈りした。

面談、どうかうまくいきますように。
ムームー、見守っててね。

目を開けてムームーを見ると、やっぱりいつも通りのキョロっとした目でわたしを見つめていた。
ムームーがいればきっと大丈夫。わたしはそう思って、やさしく頭を撫でてやった。

先日から作っていたあの灰色の毛糸の大小の球体2つは、合体して耳や目鼻をつけて、小さな犬のような狼のような頭ができていた。
ムームーが羊なので、狼がいたら面白いかなと思って自分なりの作り方で作り始めてみたけど、実際に作ってみると球体2つで作った顔の丸っこいフォルムが狼と言うよりはむしろ犬っぽくて、まあ牧羊犬でもいいかな、と思っている。黒っぽい灰色なので地味だけど、あのコマ撮りアニメーションの羊のキャラクターにも牧羊犬の友達がいるので、そんな感じでも面白いかもなあ。

これから面談だと思うと何も手につかないくらいそわそわして、食欲もまったくなくなってしまった。着替えも久々のメイクも済ませて、話したいことをメモしたノートもカバンに入れて、あとは出発するのみになってもやっぱりココロがざわついた。
部屋の中をうろちょろしたり、部屋の掃除をしたりして、やっと出発する時間になった。わたしは編んで作った狼もどきをカバンに入れて、ムームーを手に持って、緊張で張り裂けそうになっている胸をなんとか抑えながら家を出た。


よつばに着いたのは12時50分。窓から中を覗くと、数人のスタッフさんが午後のレクリエーションに向けて何やら準備をしているようだった。
1ヶ月ごとに変わる裏口のパスワードを知らないので、正面玄関からよつばに入った。来客でもなんでもなく、ただの1職員なのに正面玄関から入っていくのはかなり気恥ずかしかった。

玄関を入ってスリッパに履き替えると、わたしに気づいた川上さんがスタッフステーションから出てきて出迎えてくれた。

「まゆちゃん久しぶり。調子どうや」

バレー部だった川上さんは身長が180cmくらいあって、隣に立たれるとかなり緊張してしまう。わたしはドキドキするのをなんとか抑えて、ひっくり返った声で答えた。

「えっと…最近はなんとか。ハハハ」

「ならよかった。面談室で待っとってくれる?施設長もうすぐ本社から戻ってくるし、そしたら話そう」

分かりました、と言って、わたしは玄関の目の前にある面談室に入った。引き戸を開けると、まず飛び込んできたのは業者から洗濯されて戻ってきたタオルの束。山積みになって置かれている。そして、それに埋もれるように置かれている小さな本棚。そこには、介護関連の書籍が20冊ほど置かれているけど、誰も読んでいないのかホコリを被ってしまっていた。

わたしは小さな面談室の真ん中に置かれた4人がけのテーブルの奥の側に座ると、カバンからムームーと狼もどきを取り出して、膝の上に置いた。ちょっとでも緊張がほぐれるように、見守っていてもらえるように。そしてノートも取り出すと、改めて自分の中で話したいことのデモンストレーションをした。頭の中は半分真っ白になりかけているけど、メモを見ながらだったらなんとか話すことができそうだ。

そうして待つこと約5分、面談室の扉が開いて、施設長と川上さんが入ってきた。

「原田さん、お待たせしてごめんね〜。いろいろ話聞かせてね〜」

小柄な施設長は相変わらず調子の良さそうな声でわたしに話しかけると、わたしの斜向かいに座り、わたしの正面には川上さんが座った。完全な2対1の状態。わたしはちょっと尻込みしてしまって、思わず俯いてしまった。

「まゆちゃん、最近調子どうや?ちゃんと食べれとる?寝れとる?」

川上さんが話しかけてくれた。おそるおそる顔を上げて、彼女の顔を見る。

「あ…はい、なんとか。日常生活はほとんど問題なく送れるようになりました。きょ…今日は、いろいろ話しておきたいことを考えてきました」

「へえー、そうなん?そんなに気ぃ張らんでもよかったんに。ねえ施設長」

「ホンマやね。原田さんほんとに真面目やなあ。でも、話したいことあるんやったら話したいだけ全部話してってね。なんでもどんと来いや〜」

2人はハハハ、と笑ったので、わたしもつられて笑ってしまう。とてもカジュアルな感じで話が始まったので、わたしの気持ちは少し落ち着いて、ドキドキと早鐘を打っていた心臓も少し穏やかになった。

「えっと、まず…なんでこんなに体調が悪くなっちゃったのか、説明だけでもしておこうと思って。ほんとうに皆さんにご迷惑をおかけしちゃったんで」

わたしは、少しずつ、働き始めてからの諸々のことを話し始めた。
よつばで仕事を始めて、お年寄りとコミュニケーションを取ることができるようになって初めは嬉しい気持ちでいっぱいだったこと。でもすぐに、自分が業務をうまくこなせないことに気がついて、プレッシャーに押しつぶされそうになりながら毎日仕事をしていたこと。1度に30人近くの利用者さんの見守りをしながら、個々の要望に対処したり、咄嗟に振られた仕事を優先して日々のタスクのことが頭から抜けてしまったり、ついには頭の中が真っ白になって何をすればいいか分からなくなってしまったりと、自分が苦手なマルチタスクの業務が多くて頭を整理できないまま仕事をしてしまったこと。その結果利用者さんに迷惑をかけてしまったり、怪我をさせそうになったり、周りのスタッフの皆さんにもフォローさせてしまったりして、自分がたくさん迷惑をかけてしまっていると言う事実に耐えられなくなってしまったこと…などなど、様々な要素が重なって、ひどく体調を崩してしまったということを、ひとつひとつ説明した。

「うまくできないところとか、分からないところとかがなくなるように、その都度他のスタッフさんに質問したりとか、出社時間を早めたりとか、できることはいろいろやってみたつもりなんですけど…なんかどうしてもうまくいかないっていうか…皆さんが普通にやっていることができなくて、アドバイスをもらってもなかなかその通りにできないし、ほんとうに自分は使えないやつだなと思って、周りに迷惑がかかっていると思ったら急に頭が真っ白になって」

視界が潤んで、涙がこぼれた。俯いて話すわたしには、目の前の2人がどんな表情で、どんな心持ちでわたしの話を聞いているのか分からなかった。
川上さんがティッシュを差し出してくれて、目鼻を拭い呼吸を何度も整えようとした。でも、あとからあとから悔しい想いが込み上げてきて、涙も鼻水も止まらなくなるだけだった。
ひっく、ひっくとしゃくり上げているわたしの隣に川上さんが立って、やさしく背中をさすってくれた。

「まゆちゃん、そんなにいろいろ考えながら仕事してくれとったんやね。全然気づかんくてごめん。そりゃ、しんどいわ。よく今までやっとったと思う。私、まゆちゃんの今までの経歴少しやけど聞いとったし、もうちょっと気づいてあげるべきやった。ほんとなんも気づかんくてごめん」

お見舞いに来てくれたときと同じだった。わたしはまた、川上さんに謝らせている。そんなことを望んでこういう話をしたわけではないんだけど、いまや一責任者と言う立場の川上さんはそう言うしかないのかもしれなかった。

「そう、じゃ…そうじゃ、なくて…」

わたしは乱れた呼吸をなんとか整えようと、膝の上のムームーをぎゅっと握った。そして、何か言葉を紡ごうと口をぱくぱくさせた。でも、言葉が出てこない。頭の中が真っ白になってしまった。

そんなとき、先に口火を切ったのは川上さんだった。




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