ツイッター映画ライターが豊崎由美氏と栗原裕一郎氏のtiktok批判に思う『推す批評』と『斬る批評』、かつて小沢健二を批判したあるロキノン女性ライター、そして広瀬すずはなぜ李相日監督を信じるのかという話
長いタイトルですまん。記事も長い。6838文字あります。まずは今回の件のあらすじです。
詳細は上のリンクを読んでいただくとだいたいわかると思います。有名書評家である豊崎由美氏が、アマチュアTikTokアカウントを貶し、「そんなもので本が売れたからどうした」「この人に書評書けるんですか」と言った。この件について誰もが思うことでしょうが、あまりに筋が悪い。書評書けるも何も、相手は一介のアマチュアです。出版産業の屋台骨が揺らいでいる時に無料で若い世代に小説をすすめ、しかも実際に若い世代に影響を与えて売り上げが上がるという結果を出している貴重な存在です。言うまでもなく炎上しました。引用RT1000超えというのは、めちゃくちゃに批判されていることの表れです。アルファアカウント、ベストセラー作家も次々と豊崎氏批判の側で声をあげ、賛否両論というより事実上ワンサイドの炎上になりました。
そんな中で、個人的には評論家である栗原裕一郎氏のツイートが心にとまりました。
要約すれば「褒める批評」に「批判的批評」が駆逐されているという問題意識。
栗原裕一郎氏のツイートに部分的に反論することは可能です。『アニメがヒットするせいで政治ドキュメンタリーに劇場が回らなくなる』で炎上した映画プロデューサーにしてもそうですが、大衆的な作品が売れたしたせいで学術的な作品が売れなくなった例など実際にはほとんどないのです。
乱歩賞作家である下村淳史氏の見解は現実的で、たぶん正しい。栗原裕一郎氏が「トヨザキ氏の言い分」と推察する「そういう商売をしていると、土地が痩せ細って、ぺんぺん草も生えなくなるぞ」というような事態が観測されたジャンルは現実にはほとんどない。ライトノベルが売れたから純文学が売れなくなったのではなく、ライトノベルが売れているからどうにか純文学小説を出版できているのです。そもそも「そういう商売」も何も、けんご氏がTiktokで進めているのは筒井康隆の「残像に口紅を」といった古い小説であり、しかもそれによって旧作の売り上げが回復までしているのだから、それをいきなりぶん殴って「キミには評論機能が欠けているから、どうだいタッグを組まないか」というのはずいぶん失礼な話です。
ただ、そうした反論とは別に、栗原裕一郎氏の論の本質は『資本主義の中で批判的批評が縮小しつつある』という点にあると言えます。ツイッター文学賞を主催しているはずの豊崎氏がTikTokに敵意をむき出しにしたのも、TikTokというメディアが他のSNSに比較して議論や攻撃性が少ない、楽しいSNSであること、そしてそれ故に若い世代をひきつけ、それゆえにそこでの紹介が力を持つことが批判的言説の退潮につながるという危機感があったのではないかと思います。
ビッグコミックオリジナルの(購入して読みました)栗原裕一郎氏の文章、「そしてみんな広告になった」も、批判的批評が駆逐されていく現状に苦言を呈したものです。ある人々にとってそれは「野党は批判ばかり」と言われる世相、若い世代の野党支持率が低いことにも重ねて解釈されるかもしれません。栗原裕一郎氏が豊崎氏の言い分として推察する「土地が痩せほそりぺんぺん草も生えなくなる」というのは売り上げが低下し出版社が倒産すると言うよりは、批判的言説の弱体化が現状追認をもたらし、政治的、社会的状況を悪化させるのではないかという所に本意があるのでしょう。
このnoteを書こうと思ったのは、そうした批判が書き手としての自分にも無関係ではないと思ったからでした。
僕はツイッターの映画感想ツイートから始まり、現在では文春オンラインなどに記事を書くようになったアカウントです。僕がツイッターで批判的ツイートをしないかというとそうではなく、まあTwitterアカウントを見ればわかりますが自民党も維新も百田尚樹先生も高須院長も四六時中批判していますし、時には左派やフェミニストも批判して炎上しています。書いた記事の中でも、能年玲奈に対するメディアや映画界の扱いへの批判、亡くなったジャニー喜多川氏への批判的な記述も比較的踏み込んでいる方だと思います。
しかしあえて言えば、僕の原稿を書く動機としては、「嫌いな人物、嫌いな作品をブッタ斬りたい、メッタ斬りにしたい」というよりは「好きな人物、好きな作品を不特定多数に推して広めたい」というのがハッキリと強く心の動機としてあります。つまりある意味では、栗原裕一郎氏の憂う「批判的批評の縮小」、「推す批評」が「斬る批評」を駆逐していく状況の中で、僕は明確に「推す側の書き手」にいるわけです。
前述したように「いやいや僕は自民党をこのように批判し、時には野党や大手事務所もこのように批判しています、豊崎さんや栗原さんと同じ批判性を持った書き手ですよ。本当に批判精神のない若い世代には困ったものです」とエクスキューズをつけることは可能です。ただ、そうした批判をこれからもやめるつもりはない一方で、僕の中で「自分は斬る側ではなく推す側の書き手でいたい、ただ好きなものを推す書き手で何が悪い?」という怒りにも似た感情があるのは事実です。
栗原裕一郎氏がビッグコミックオリジナルで書く(よい連載記事です、まだコンビニで買えるので読んでみてください。これも「推す批評」にはなりますが)「広告の内面化」、つまり書き手が愛をもって「推す批評」が「斬る批評」より好まれることにより「斬る批評」がメディアから消えていくこと、それによって批判的言説がどんどん萎縮していくことへの危機意識は一定の説得力があります。しかしその一方、それではかつて人気だった「斬る批評」はいったいなぜこれほど好まれなくなったのでしょうか。
栗原裕一郎氏はビッグコミックオリジナルの連載の中で先日の小山田圭吾氏の過去のロッキンオンジャパンのインタビューの炎上を挙げ、炎上をきっかけにロッキンオンジャパンが広告を受けたレコード会社のアーティストのみを取り上げる雑誌だった、「ロック・ジャーナリズムって、広告とバーターで精神を切り売りして責任もろくに取らないってことだったのかと呆れ果てた」と書いています。その「呆れ果てた」気持ちはよくわかります。
でも待ってください。栗原裕一郎氏は今回の炎上をきっかけにロッキンオンジャパンを「広告」の側、「貶さず褒める」側の批評に押し込んでいますが、ロッキンオンという雑誌は長年「我々はそのへんの提灯持ちの芸能音楽誌とはちがい、きわめて辛辣で批評的であり、それゆえに本物である」という顔をしてきた雑誌です。なるほど掲載するアーティストに対しては神格化し、貶さず褒める記事を書く一方で、その中では掲載されない流行りの他のアーティスト、ビーイング系などをしばしば「メッタ斬り」にして『批評性』を担保していたわけです。身内の広告性を覆い隠すために、他者にのみ発揮される攻撃性、批判性。
つまり何が言いたいかというと、そもそもロキノンやクイックジャパンのような「斬る批評」の顔をしていたものは本当に純粋に批評的だったのか、それは実は業界の人間関係や政治を暗黙に代弁し、「敵を辛辣に斬る一方で、仲間をこっそりと褒める」ものになっていなかったかということです。かつての『批評空間』で村上春樹をこき下ろし、対談で目の前に出てきた村上龍を「『限りなく透明に近いブルー』は三田村邦彦をデビューさせた映画」と持ち上げる浅田彰氏の振る舞いは、2021年の今読み返しても胸をはって党派的でなかったと言えるでしょうか?90年代に活躍したサブカルライターや社会学者たちの、身内に対する無批判さと表裏の他者に対する奇妙な攻撃性は、今の10代が読み返して敬意を払われるに値するものでしょうか?
それは80年代、90年代、0年代に運よくメディアポジションを得た人々による、自分たちの自分たちによる自分たちのための文化カースト、大人のスクールカーストではなかったでしょうか?
そういう上の世代の攻撃的批判文化、大人のスクールカーストに疲れた若い世代が(日本の歴史上、今ほど若い世代が数的に劣勢に追い込まれた時代はありません)TikTokに流れ「褒める批評」で忘れられかけた小説と出会うことの何が悪いのか、という思いが自分の中にあります。ニセモノの批評性で文化カーストピラミッドの上位を崇めるくらいなら、平坦な場所でそれぞれの推しを愛した方がどれほどマシかわかりません。
このnoteのプロフィールに、僕が文春オンラインはじめあちこちで書いた記事へのリンクがあります。「好きな人物、作品を推したい」という動機で書いたこれまでの記事の中で、芸能記事といえば視聴率とスキャンダルをちょっとこすってヤフコメでアンチが群がってPV獲得、というお決まりの手法ではない記事も書きうる、ということを示せたと思っています。
しかしその一方で、世界にはやはり「推す」「愛する」だけではなく、「批判」というものが存在するべきなのだ、クリティカルな批判というものが本当にありうるし、あるべきなのだと思わせる、2つの記憶が僕にはあります。
ここからは有料で申し訳ないのですが、まあ迷惑かかったら嫌だなということと、せっかくだからこれを機会に僕のマガジン購読してくれないかなという気持ちで書きます。
ある2つの批判のこと。
一つは、栗原裕一郎氏が「広告とバーターで精神を切り売りし、ロクに責任も取らない」と断じたロッキンオンジャパンで、かつて雑誌が最も推していた小沢健二を批判した、ある女性ライターのこと。
もう一つは、李相日監督と広瀬すずのことです。
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