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父が死ぬ前に読んでいた漫画の話

何度か書こうとして書きあぐねて大晦日になってしまったのだけど、やはり今年のうちに書いておこうと思う。『週刊文春cinema!』に書いた通り、父が死んだ。『恋人はアンバー』を映画館で見ている最中に容体が急変して、映画を見終わって携帯の連絡に気がつき、病院に駆けつけた時にはもう亡くなっていた。それはいい。父はずっと難病を抱えていたし、その最後はその病気について想像していたよりもずっとマシな、安らかなものだった。おそらくはもっと悲惨で壮絶な最後になることが予期されていたのだけど、それよりはずいぶんと苦しまずに人生を終えることができたのだ。

書きたいのは父の死ではなく、父が生きていた最後の時期に読んでいたマンガのことである。父はマンガを一切読まなかった。というか漫画にかぎらず、小説演劇映画、エンターテイメントというものに一切興味を示さない人だった。その父が死の直前に入退院を繰り返し、病が進んでほとんど意識が朦朧とし、会話もままならくなっていた頃、僕が枕元に置き忘れたマンガを取りに行くと、それをずっと読んでいた。それは『ちはやふる』の最終回より少し前、綾瀬千早と若宮詩暢が死闘を繰り広げていたあたりのコミックスだったと思う。
そのフィクションに父が救われたとか、感動したとか、生きる力をもらったということが言いたいのではない。おそらく父はマンガの内容をほとんど理解できていなかったと思う(全50巻の最後のあたりをいきなり読んでいたわけだし、そもそも僕との会話もほとんど成立しなくなりかけていたのだ)。僕が言いたいのは、父がほとんど内容を理解できていないにもかかわらず、理解も共感もできないはずのそのマンガを繰り返し繰り返しページをめくって読んでいたということである。それはまるで鉄が磁石に引き寄せられるような、ある種の科学的な反応が起きているかのような光景だった。認知能力をほとんど失っても人間はマンガを読める、という人体実験のようにも見えた。そしてそれは、感動とか理解とか共感とかエンパワメントということとはまた別の、マンガという文化システムの底に埋まった不思議な力の存在を感じさせた。

感動や理解や共感は、もちろん物語としてのマンガの重要な一部である。そんなものはくだらないと言いたいのではない。でもなんというか、ほとんど言語を失うレベルまで深刻だった父が以前は読まなかったマンガ、それも『ちはやふる』を読む姿は、マンガという文化の底に流れる、言葉ではない何かを感じさせた。

漫画にかぎらず、映画でもそうなのだが、批評を書く時というのはストーリーや名台詞によって作品を定義付ける書き方になる。それが間違いだとは思わない。だけど映画やマンガにとってセリフやストーリーというものは音楽におけるボーカルやギターソロのようなものであって、それは確かに名曲を名曲たらしめる花ではあるのだが、その底にはベースやドラムの作るリズムが根源的に流れていて、音楽やらマンガが人を惹きつける本質はそうした「花」の底にある根茎の部分にあるのではないか。「読ませる」「聴かせる」というパワーは、そうした地下水脈のようなリズムによって作られているのではないか。そんなことを、理解も共感もできないはずのマンガを繰り返し読んでいる死の迫った父の背中を見ながら考えていた。

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絵やイラスト、身の回りのプライベートなこと、それからむやみにネットで拡散したくない作品への苦言なども個々に書きたいと思います。

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