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山本夜羽音先生の短すぎた人生と、長すぎた青春についてのメモ

何度か書き直してまとまらず、というかまとめてしまうことが悪いことのように思えていつまでも投稿できなかったのですが、今月中に残しておきたいと思い、山本夜羽音先生の思い出について書きます。

先日亡くなられた山本夜羽音先生の追悼ミサに、仕事を抜け出して出席しました。「面識のない方はご遠慮ください」ともあったのですが、実を言うと面識があると言えばありました。ただ、CDBです、と名乗っての対面ではなく、いちファンとしてお話ししたことがあるだけだったので、もし教会が満員だったら御花料を渡して帰ろうと思って高円寺教会まで出かけたのですが、少しだけ席がありそうだったので末席に加えていただきました。
いつか山本夜羽音先生にCDBとしてお会いして「あー、お前あの時のファンの人じゃん!」と思い出してもらうのが夢で(覚えてないかもしれませんが)、今度初めての本も出るし、それを献本するきっかけに…と思っていたのですが、それはもう出来なくなりました。

「最初は何の冗談か、また生前葬か何かかと…」という、30年来の友人である晴佐久神父がミサでお話になられた言葉は、多くの人もまた思っていたことかもしれません。福本伸行の名作麻雀漫画として知られる『天』の最終シークエンス、赤木しげるの生前葬のように、葬儀を終えて一見の一般客が帰ったあと、高円寺のバーかどこかで山本夜羽音先生が旧知の知人だけを集めて「さあ本当の話をしようか」と打ち明けているのではないか、そもそも最近また夜羽音先生はお金に困っている雰囲気が見え見えだったし、バチ当たりな集金でも考えたのではないか、そうであったらいいな、という思いで、火曜日の朝にはそういう夢も見たほどです。

しかしながら、実際に夜羽音先生は棺の中で亡くなられていました。重い糖尿病の持病を抱えており、一度体調が急変して救急車を呼んでいたにも関わらず搬送してもらえず、その後に急な体調の悪化で亡くなった、と後になって聞いたのですが、高円寺教会の追悼ミサには多くの知人友人が駆けつけていました。古くからの友人である晴佐久神父はその人々に向かって、夜羽音先生の人となり、若き日に、ジーンズメイトの試着室を告解室代わりにして彼の懺悔を聞き、そして洗礼を与え彼をクリスチャンとして迎えたという、現代的なのにどこかまるで聖書の一節のようなお話をされていました。

作家、漫画家としての夜羽音先生は、晩年苦しんでいたと思います。彼が亡くなったと聞き、信じられない気分で新聞などの報道を待ったのですが、結局、僕の知る限り報道機関から大きな訃報記事は届きませんでした。ミサには多くの学者や作家、そしてリベラル派の政治家からの追悼があったにも関わらず、大手メディアからは既に彼は見えない存在になっていたのかも知れません。

よく言われるように、晩年、というよりはその生涯を通じて、彼はあちこちとトラブルを起こし、借りたお金を返さず、呆れ果てて絶交したままの友人を残したまま亡くなりました。僕などはファンとしてツイッター中心の関わりだったのでそうなりませんでしたが、深く関われば僕もまたそうなったのかも知れません。
晴佐久神父もミサでユーモアを交えて語っていたのですが、彼は常に弱さを抱えた人物でした。でもあえて言うなら、その弱さは彼の強烈な魅力でもありました。まるである種の男性が弱さを見せることで女性を虜にするように、彼の弱さはある面では人を惹きつけ、同時に遠ざけました。「借りた金を返さない」ということひとつとっても、もう何年もマンガをまともに描いていない漫画家に、絶対に返ってこないと半ば諦めながらお金を貸す人があんなに多くいたことがひとつの奇跡なのです。僕が同じことをして、いったい誰がお金を貸してくれると言うのでしょうか?しかも彼ときたら、その他人から借りた金を困窮した人々に惜しみなく援助するのです。惜しみなくったって他人の金じゃねえかよ。困ったものです。(追記すれば、言うまでもなく彼は、自分が執筆や労働で手にしたなけなしの生活費までも惜しみなく弱者に与えていました。彼はそうしたことの多くを語らず、僕は彼の死後に様々な人から聞くことになりました。追悼ミサに足を運んだ多くの人の中には、そうして彼に助けられた人もいたことでしょう)

晴佐久神父がミサで、彼は長く鬱を抱えていたことを話していました。でも僕の目から見て、彼の憂鬱は人生の終わりが見えた老人の暗い憂鬱というより、10代20代の若者が抱えるような、「何者かになりたいのになれない、今とはちがう自分になりたい」という青春のもがきのような鬱に見えました。もう50歳を過ぎていたというのに、彼はまるでいつの日か漫画家デビューを夢見て高円寺で青春を送る大学生のように見えました。(ヒゲが白くなり始めた外見は別にして)結婚も離婚も経験しているにも関わらず、女性に対してまるで童貞の少年のようにロマンチックな憧れを抱えたままでした。若者を見つけては、「君が原作、俺が絵を描いてこんな作品を作ろうぜ」と夢を語りました。まるで大学生のころ、夢見る青年がそうするように。

彼の周りには手を差し伸べる多くの人がいました。雑誌に載る当てもないのに、というかもはや激しい革新と競争の漫画雑誌で戦う筆力をとうに失っていたのに、「原稿料は自分が払ってあげるからリハビリ代わりにツイッターマンガでもなんでも描きなさいよ」という友人がいました。萌えの最新モードから見ればすっかり古くなってしまった絵柄のイラストを一枚いくらで買うファンがいました。(僕もその1人でした)あまりにも多くの人が手を差し伸べるので「お前らがそうやって甘やかすからダメなんだよ」と怒る人さえいました。そしてそういう人、失望し絶交を宣言した人たちですら、裏返しに彼のことを心配していました。

主の御名を信じる者はとこしえに若く、とこしえに死なざるなり。これは『ロッキー3』の吹き替え版で聞いた祈りなので、本当にこんなフレーズが聖書にあるのかどうか僕は知りません。でも彼は、ある意味においては、本当に若いまま死んだのです。それはなんと短い人生で、なんて長い青春だったのでしょう。失敗と苦渋に満ちた人生でありながら、なんと輝かしい、何十年にも及ぶ青春だったのでしょう。

追悼ミサでは、いくつもの讃美歌が歌われました。キリスト教の追悼ミサを初めて経験した僕はその美しさと深さに打たれながら、なぜか彼が愛した忌野清志郎の邦訳カバー、ザ・モンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』の歌詞を思い出していました。ずっと夢を見て、幸せだったな僕は、デイドリームビリーバーそんで、彼女はクイーン。それは僕たちが彼に送る歌なのか、それとも彼が僕たちに送る歌なのかを考えていました。

ミサは雪が降っていました。彼の出棺を見送る参列者の中で、たぶんあの日一番若かった金村詩恩さんが、雪の中で傘もささずに頭を下げて見送っていたことを覚えています。ここから、この先の暗く困難な時代を、僕たちは彼なしで生きることになります。

彼のミサの思い出はここまで。マガジン部分では、表現の自由戦士でもあった彼の側面と、今のリベラルが直面する困難な状況について書きたいと思います。

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絵やイラスト、身の回りのプライベートなこと、それからむやみにネットで拡散したくない作品への苦言なども個々に書きたいと思います。

七草日記

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