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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・山伏①」

山伏

 弁慶と云う法師が実在したかどうか、詳しいことは知らない。ただ文章や詩歌の中に跡を遺すこと大で、古くは「義経記」にその名は輝き渡って、五条の橋の始めから衣川の立ち往生の終りまで、いかにも一生をこころよく強く生き通して、我が国男児の気質を全て現したようにも見える。謡曲では「橋弁慶」で大長刀を夕月に閃かして画のように今の人の心にも映り、「船弁慶」ではあら海の波の頭(かしら)に潮を蹴立てて悪風を吹きかけ、現われ出(い)でた平知盛の怨霊に対して、数珠サラサラと押し揉んで、五代明王の威徳にかけて祈り伏せたるところは、中世信仰の荘厳味を見せて甚だ好い。「安宅」では、我が主人の義経を愛すればこその荒折檻、「わずかの笈負うて、跡に下ればこそ人も怪しむなれ、総じて此れほど、にくしにくしと思いつるに、いで物見せてくれん。(僅かの荷を背負い、後に遅れるから人にも怪しまれる、全体にこの様(ざま)は、憎い憎い、サア懲らしめてくれよう。)」と云って、金剛杖を取り上げて散々に打ち叩く場面は、自在の機略と剛猛の意気の底に、至情熱情の万斛の涙を湛えるところは、人を感動させてやまず、我が国武士の本質と実力が如何に優(すぐ)れてやさしく、如何に強く敏捷であるかを現わして、思うに他国には例の少ない凛々烈々の一場の光景を生じる。であれば、歌舞伎では勧進帳と持て囃され、俗曲にも多く取り入れられ、「旅の衣は篠懸の露けき袖やしおるらん」の句は、幼童稚女から田舎の翁までこれを知らない者は無い。弁慶その人は或いは実在の人では無いかも知れないが、弁慶が我が国の人の間に生きていることは、輝くこと火のように明らかであると云える。なお舞曲や小説・稗史・地誌・雑書など、およそ弁慶に関するものの総てを集めれば、弁慶文学は一大科目を形成するであろう。浄瑠璃の弁慶上使の一場面などは、後の軽薄者の口から出て、弁慶を印象付けない訳にはいかないが、これまた弁慶の世に於ける評判の余波が出たのだけのものである。昔の蝦夷の地(北海道)の弁慶岬や弁慶魚坪などは、もちろん弁慶に関係したことではないであろうが、これも弁慶の名が広く行き渡っていたことから、荒れ果てた辺境の地にまで伝説がのこるのである。また、手の指の力の入らないところを、弁慶の泣きどころと云うに至っては、人を大いに笑わせる。串刺しにした魚を縛った藁束を弁慶と云って炉の上に吊るすなどは、弁慶もまた魚を食べたかと人を顰蹙(ひんしゅく)させる。弁慶に大梵鐘を撞かせて鐘の疣をすり落とさせた話などは、可笑しいこと限りないが、その鐘が今も存在するので、その事は本当であろうと、人は真顔で今も信じている。藁束を弁慶と云うのは、その形が七つ道具を背負った絵姿に似ていることからの名であろうが、七つ道具ということが何時頃から云い出されたかは知らない。道具と云う言葉は僧侶が用いる品(ぼん)と云う言葉なので、法師の弁慶に似合わない言葉ではないが、武士の七つ道具は具足・刀・太刀・矢・弓・母衣・兜である。「義経記」の弁慶は、「四尺二寸の柄装束の太刀を身に帯び、岩通しと云う刀を差し、猪ノ目を彫った鉞(まさかり)・薙鎌(なぎかま)・熊手を舟にからりひしりと取り入れて身から離さず、一丈二尺余りのイチイの木の棒に鉄を冠せて、その上に蛭巻きしたものを脇に挟んで云々」とある。このようであれば、弁慶の持つ品々は、太刀・刀・鉞・薙鎌・熊手・鉄を冠せたイチイの木の棒の六ツであって一ツ足りない。狂言の「朝比奈地獄」に、「朝比奈が七つ道具」と云うところがある。しかしそれが何であるかは分からない、ただその言葉があるのを知るだけである。近世の一般的な絵姿の弁慶は巨槌と大鋸を持つので、川柳風の句では「衣川さいづちばかり流れたり」とからかわれている。城門を打ち砕くような道具は、他国では早くから「墨子」などに出ているが、我が国の源平時代に巨槌などが用いられていたかどうかは知らない。総体に弁慶と云う人は源平頃の人と云うよりは、足利時代の香りがする人と云いたい心地がする。今の我々が思い描く弁慶は足利時代に生まれた人ではあるまいか。絵にはならないが、七つ道具の中に筆が無いのはどうしたことか。弁慶は能書であって、「此花江南の所有也」の制札は風流でありまた武骨である。むろん疑わしいものではあるが芳しい筆の跡を須磨寺に遺す。豪僧の筆の跡として語り伝えても恥ずかしくないことではないか。元(げん)の将軍の伯顔の梅花の詩の物語に比べても、勝るとも劣らない面白いことである。三国時代の猛雄である燕人の張飛は一丈八尺の蛇鉾を揮って百万の敵を追い払った物凄い人だが、文字を書いて能く、真否は定かでないがその筆の跡と云われるものが今に伝わる。弁慶もまた何で張飛に劣ることあろう。そもそも弁慶は西塔の法師である。「おもしろや山水に、盃を浮かべては、流れに引かれる曲水の、手先さえぎる袖振れて、いざや舞うぞよ」と延年の舞を心得たほどの遊僧である。何で風流文雅の道に暗いことがあろうや。虎や豹にような悪僧というよりは、将軍義経の側らに在って文筆の事に携わっていたのが、本来の姿であるとしても間違いでは無いだろう。およそ戦陣の間に在っても、大将の側らには必ず文書の事が無い訳にいかない。従って俊敏な者がその任に当たる必要がある。当時文筆の事は多く僧徒が担当していた。そのため木曽義仲には太夫坊覚明が在って義仲を輔けたのである。弁慶・海尊などを義経側近の文筆者であり学者であるとしても、或いは間違いでは無いであろう。謡曲「安宅」は観世小次郎信光の作であると云い伝わる。信光は永正十三年に死す、時に年八十才である。「安宅」は大曲であり、また佳曲である。弁慶は「安宅」によって文学的生命を得たというべきである。(②につづく)
 
注解
・義経記:源義経の生涯を描いた作者未詳の物語。成立は室町時代と推定される。
・橋弁慶:牛若丸と弁慶との五条橋の戦いを脚色した謡曲。
・船弁慶:平氏討伐後頼朝に疑われ西国に落ちる義経一行が、静御前との別れを経て九州へと向かう海上で、平知盛の亡霊に出くわし、弁慶が祈りで亡霊を退けることを描いた謡曲。
・平知盛:平清盛の四男。壇ノ浦の合戦で平家が敗れ、安徳帝が二位の尼に抱かれて入水するのを見届けると、「見るべき程の事は見つ」といって鎧二領を重ねて着し海に飛び込み最期を遂げた。
・五代明王:不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五明王のこと。
・安宅:都落ちして奥州平泉を目指す義経一行が、これを阻止しようとする関守の富樫某と交わす一場面を描いた謡曲。
・荒折檻:肉体を痛めつけてきびしく懲らしめること。
・弁慶の泣きどころ:指の第一関節から先の部分は、第一関節を伸ばした状態で第二関節を曲げると第一関節に力が入らなくなることから弁慶ほどの豪傑でも力を入れることができないという意味。
・墨子:中国・戦国時代の思想家である墨翟(ぼくてき)(墨子)の書。
・「此花江南の所有也」の制札:須磨寺の「若木の桜の制札」(現在は宝物館に在る)、制札とは「~禁止」とか「~に従え」のようなお触れ書きの立て看板のようなもの。
・梅花の詩:伯顔が宋を平定した後、梅関を通り過ぎた時に作った詩。些かの財物をも略奪しなかったという内容の詩。
馬首軽従庾嶺帰・・・(軍は大庾嶺を経て帰る)
王師到所悉平夷・・・(宋軍を到る所で悉く平定する)
擔頭不帶江南物・・・(荷物は江南の物を帯びない)
只挿梅花一両枝・・・(ただ一二本の梅花の枝を挿すだけ)
・張飛:中国・三国時代の蜀の将軍。人並み外れた勇猛さはでその名は天下に轟く。
・蛇鉾:張飛が使った武器。柄が長く先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため蛇鉾と呼ばれた。
・延年の舞:天下泰平・国土安穏・延年長寿を願って諸仏諸神に奉納する舞。


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