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幸田露伴の小説「観画談①」

 だいぶ前のことであるが、或る人から妙な気のする話を聞いたことがある。その話は今も忘れていないが、人名や地名は今は林間の焚火の煙のように何処か知らないところに消え去っている。
 話をして呉れた人の友達に某と云う男があった。その男は極めて普通の出来の好い方で、晩学ではあったが大学も二年まで漕ぎ付けた。と云うのは、その男は甚だしい貧家に生れたので、田舎の小学校を卒業すると自立生活に入って、小学教師の手伝いをしたり村役場の小役人みたいなことをしたりして、いろいろ困苦勤勉の見本のような月日を送りながら、勉強すること幾年の結果、学問も段々進んで来て人にも段々と認められて、幾らかの手づるも出来たのでついに上京して、苦心努力の日を重ねて大学に入ることが出来た。そのため同窓中では最年長者・・どころでは無い五つも六つも年上であったのである。蟻が塔を造るように、遅々とした行動を生真面目にとって来たので、もう額には浮世の応酬に疲れた皺を畳んで、心の中にも他の学生には無い細かな襞(ひだ)が出来ているのであった。しかし大学に在学するだけの費用は恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生に成ったような気がして、実に清浄純粋ないじらしい悦びと矜持を抱いて、余念なく教授の講義を聴いたり、豊富な図書館に入ったり、雑事に侵されない朝夕の時間の中に身を置いて、十分に勉強できることを何よりうれしく思いながら、いわゆる「勉学の悦び」に浸ることのできることに満足を感じていた。そして他の若い無邪気な同窓生から大器晩成先生などと云う渾名(あだな)、年齢の違いと年寄り染みた態度から与えられた渾名を、臆病そうな微笑で甘受して、平然と一個独自の地歩を占めつつ在学していた。実際に大器晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気な、言い換えれば低級でかつ無意味な飲食の交際や、活発な、言い換えれば青年的勇気の漏洩に過ぎない運動や遊びなどの交際に加わらないことを除けば、何人(なにびと)にも非難されるところが無い立派なものであった。それで同窓生も自然とこの人を仲間外れにしながらも内々では尊敬するようになって、一人二人の甚だしい茶目助を除いて皆は無言の同情を寄せていた。
 ところが晩成先生は、多年の勤苦が報われて前途に平坦な光明が望見されるようになった気の緩みの為か、或いは度の過ぎた勉学の為かどうか分からないが、気の毒にも不明な病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱と云う病気が初めて知られ出した時分であったが、本当にいわゆる神経衰弱であるのか、慢性胃病であるのか、とにかく医者の診断もあいまいで、人によって異なる不明の病気に襲われて段々衰弱した。切り詰めた予算しか持っていないので当人は人一倍困惑したが、どうにも病気には勝てないことなので、しばらく学業を放擲して心身の保養に努めるが好いとの勧告に従って、山水清閑の地で、活気に満ちたすがすがしい空気を吸おうと塵埃の東京を後にした。
 伊豆や相模の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分では無いので、最初は房総海岸を選んだが、海岸はどうも騒がしいような気がして晩成先生の心に合わない、だからと云って雑草繁る故郷の村に病身を持ち帰るのも厭だと見えて、栃木や群馬の山地や温泉地に一日二日、或いは三日四日と、それこそ白雲が風に漂い秋葉(しゅうよう)が空に翻るように、ブラリブラリした身中にモダモダした心を抱きながら、毛繻子(けじゅす)の大洋傘(おおこうもり)に色の褪せた制服、丈夫一点張りのボックスの靴という姿で、五里七里と歩く日もあれば、汽車で十里二十里と歩く日もある、取り止めの無い漫遊の旅をつづけた。
 憐れなことに晩成先生は懐中すこぶる豊かでないので、随分切り詰めた旅を物価の高くない地方、贅沢そうでない宿屋から宿屋へと渡り歩いて、また機会や縁などがあれば、客を悦ぶ豪家や遠慮の要らない山寺などを頼って、遂に福島から宮城へと抜けて奥州の或る辺鄙な山中に入ってしまった。先生はごく真面目な男なので、俳句などは薄生意気な不良老年の玩具ぐらいに思って居り、小説や稗史などを読むことは罪悪のように考えて居て、「徒然草」をさえ「余り良いものじゃない」と評したと云うほどだから、随分窮屈な旅だっただろうが、それでもまだ幸せなことに少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の楽しみにして唯一人、夕陽の山道や朝風の草路を歩き廻ったのである。
 秋の早い奥州の或る山間の何でも南部領とかで、主街道を二日も三日も横へ折れ込んだ、途方もない僻村の或る寺を目指して、その男は鶴のように痩せた病躯を運んだ。それは旅の途中で知り合いになった放浪の人、その時分は時にそういう人が居たもので、律詩の一二章をその場で作ることが出来て、ちょっと米風(べいふう)の山水画や懐素(かいそ)まがいの草書で白襖を汚せるくらいの腕を資本(もとで)に、旅から旅を先生顔で渡り歩く人物に教えられたからである。「君がソウ云う理由で歩いているのなら、コレコレの所にコウ云う寺がある。由緒は良くても今は貧乏寺だが、その寺の境内に小さな滝があって、その水は無類の霊泉だ。養老の霊泉ほどでないが随分知れ渡ったもので、二十里三十里の道をわざわざその滝に懸かりに行く者も居て、また直接懸かれない者は寺のそばの民家に頼んで、その水で湯をたてて貰って浴す者も居るが、不思議に長病(ながわずらい)が治ったり、特に医者の分からない正体不明な病気なども治ることがあって、語り伝えられた証言は幾らでもある。君の病気は東京の名医達が遊んで居れば治ると云い、君もまた遊び気分で飛んでもない田舎などをのそのそ歩いている位だから、いっそのことソコへ行って見給え、住持と云っても木綿の法衣(ころも)に襷を掛けて、芋畑や麦畑で肥柄杓(こえびしゃく)を振り廻すような気の置けない奴だ、それと小坊主が居るだけだから日に二十銭か三十銭も出したら寺に泊めて呉れるだろう、古くて歪んでいるが座敷などは流石に悪くないから、そこに陣取って、毎日風呂をたてさせて遊んで居たら悪く無かろう、景色もコレと云うものは無いが幽邃でなかなか佳い所だ。」と云う詳しい話を聞いて、何となく気が向いたので、考えて見ると随分頓狂で物好きなことだが、わざわざ教えられたその寺を目指して山の中に入り込んだのである。
 路はかなり大きい渓谷に沿って上って行くのであった。両岸の山は或る時は右が遠ざかったり左が遠ざかったり、また或る時は右が迫って来たり左が迫って来たり時には両岸が迫って来て、水は遥か遠く巨岩の下に白波をたてて激しく流れたりしている。或る場所では路が対岸に移るために、危ない丸木橋が目も眩(くら)むような急流に架かっているのを渡ったり、また少しして同じようなのを渡り返したりして進んだ。恐ろしい巌が前途に横たわっていて、「あの先に行けるのか」と疑われるような覚束ない路を辿って行くと、辛うじてその巌のそばに糸のような道が付いていて、仕方なく蟻のように蟹のようになりながら通り過ぎてはホッと息を吐くことがあって、「どうしてこんな人にも行き逢わない僻地へ来たことか」と、いささか後悔する気持ちにも成って、薄暗いほど茂った大樹の陰で憩ながら暗い思いで沈黙を続けて居ると、「ヒーッ!」と頭の上から名も知らない鳥が意味の分からない歌を投げ落したりした。
 路が次第に緩くなると、対岸はバカバカしいほど高い巌壁で、その下を川が流れている。こちらは山が自然と開けて少しばかり山畑が段々となって見え、粟や黍が穂を垂れて居るかと思うと、兎に荒されたらしい至って不景気な豆畑に、モウ葉が無くなって枯れ黒ずんだ豆がショボショボと泣きそうな姿で立って居たりして、その彼方に勾配の急な古ぼけた茅葺屋根が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。空は先刻から薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風が吹き下ろして来たかと見るうちに、楢や柏の黄色い葉が空方パラパラ降って来ると同時に、雨もハラハラと降って来た。谷の上流の方を見上げると薄白い雲がズンズンと押して来て、瞬く間に峯々を蝕み、巌を蝕み、松を蝕み、たちまちもう対岸の高い巌壁をも絵のように蝕んで、好い景色を見せて呉れるのはよかったが、その雲が開いて差した蝙蝠傘(こうもりがさ)の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど、低く這い下がって来ると、堪らない、ザーッという本降りになって、林の樹も声を合わせて、何のことは無い、この山中に入って来た者にイジメでもするように襲って来た。晩成先生も流石に慌てて少し駆け出したが、幸いに取っつきの農家が直ぐ近くであったから、トットと走りついて農家の土間に飛び込むと、傘が入り口の軒に架かっていた竿に触って、吊るしてあったトウモロコシの一把をパタリと落とした途端、土間の臼(うす)の辺りにかがんでいたらしい白い鶏(にわとり)が二三羽キャキャッと驚いた声を出して走り出した。
 「何だナ」と鈍い声がして、土間の左側の茶の間から首を出したのは、六十か七十か分からない油っ気の無い、火を付けたら快く燃えそうな乱れ立ったモヤモヤ頭の婆さんで、皺だらけの黄色い顔の婆さんだった。キマリが悪くて、傘をすぼめながら一寸会釈して、寺の在りかを尋ねた晩成先生の、頭の先からジトジト水の垂れる傘の先までを見た婆さんは、それでも此の辺では見慣れない金ボタンの黒い洋服に尊敬を表して、何一つ咎め立てがましいことも云わずに、
 「上へ上へと行けば、自然(じねん)にお寺の前に出ます、ここは云わば門前村ですから、人家さえ出抜ければ、直ぐお寺で・・。」
 礼を言って大器氏はその家を出た。雨はイヨイヨひどくなった。傘を拡げながら振り返って見ると、木彫りのような顔をした婆さんがまだこちらを見ていたが、妙にその顔が眼にしみ付いた。
 間遠に建っている七八軒の家の前を過ぎた。どの家も人が居ないように森閑としていた。そこを出抜けると、なるほど寺の前に出た。瓦に草が生えている。それが今は雨に濡れたのでひどく古びて重そうに見えるが、とにかく昔の立派さが偲ばれると同時に、今の甲斐の無さも明らかに現れているのであった。門を入ると思いのほか広々としていて、松だか杉だか分からないが恐ろしく大きな樹が在ったのを、何年か前に伐ったと見えて、大きな切り株の上に今降りつつある雨が当たって、そこにそう云うものが在ることを見せていた。右手に鐘楼が在って、小高い基礎(いしづみ)の周囲には風で吹き寄った木の葉が、黄色く又は赫(あか)く濡れ色を見せていて、中ぐらいの大きさの鐘が次第に迫る暮色の中で、裾は緑青を吹いた明るさと、竜頭の方は薄暗い中で一種の物々しさを示してひっそりと懸っていた。
 これだけの寺だから棟の高い本堂が見えそうなハズだが、それは火災にでも遭ったのか分からないが眼に入らなくて、小高い所に庫裡(くり)のような建物が在った。それを目指して進むと、丁度本堂仏殿の在りそうな位置に礎石が幾ツともなく見えて、親切な雨が降る度に訪問するのであろう今もその訪問に感謝の涙をあふれさせているように、柱の根入れの穴に水を湛えているのがよく見えた。境内の変にカラリとしている訳がこれで合点いった。有るべきものが無くなっているのだナと思いながら、庫裡へ入った。正面はピタリと大きな雨戸で鎖されていたから、開いていた台所口のようなところから入ると、馬鹿にだだっ広い土間で、土間の向こう隅には大きな竃(へっつい)が見え、入り口のつい近くには土だらけの腐ったような草履が二足、古い下駄が二三足、特に歯の抜けた下駄の一ツがひっくり返って腹を出して死んでいるように転がっているのが、晩成先生の侘しい思いを誘った。(②につづく)

注解
・毛繻子の大洋傘:傘の生地が本毛(毛繻子)張でできた洋傘(蝙蝠傘)
・米風の山水画:中国・北宋の文人画家の米芾(べいふつ) ・米友仁父子が創始した山水画法。
・懐素:中国・唐代の書僧、草書の大家。
・竃:かまど。

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