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幸田露伴の伝記「真西遊記・その十一」

その十一

 永年の苦学の成果により胸中に大乗の奥深い義を収め、支那国にもまたこのような秀才が在るかと全インドの僧徒や学徒を驚嘆させ、曲女城の大会において比類無い名誉を馳せて戒日王に尊崇された、経・律・論の三蔵に熟達した法師陳玄奘は今や帰国の途に就いて、諸国を経過し迦湿弥羅(カシミール)国に再びかかったが、インダス河に於いて五六里ほどの幅がある河の真ん中で、突然波風が騒ぎ立つのに逢って船がほとんど転覆しそうになり、経を守っていた者が溺れて経本の五十綴(とじ)余りを失い、さらに五十日余り停滞して烏仗那(ウッジャーナ)国所蔵の経を写し取らせたりしながら、次第に東北に進んで以前非常な苦難を嘗めたヒンズークシを再び越え、パミールを越え、やっとのことで于闐(ホータン)国に着いて、表(届出)を提出して自身の事を報告した。 この時あたかも支那は唐によって天下が統一され、英邁明智の太宗皇帝李世民が支配をする頃だった。玄奘の届出の大意は次の通り、「沙門(仏教僧)玄奘申し述べます。儒道は浅いものですが、それでも古人は猶も遠く求めました。まして諸仏が真理を伝える奥深い経律論の三蔵が迷いを解く妙説を、あえて道が遠いことを憚って、尋ね慕うことが無くて善いものでしょうか、かねてから玄奘は仏教が西域に興りその教えが東に伝わり、貴き経典が伝来したが真理は未だ猶明らかでないと思っておりました。それからは常に、親しく西土を訪れて学びたいと思っておりましたが、生命を賭して遂に貞観三年四月、畏れ多いことでありますが、国法を犯して密かに天竺に向って漫々とした流沙を踏み、巍巍(ぎぎ)とした雪嶺を渉り、鉄門の高く険しい道や熱海(ねっかい・大清池)の波濤の道を過ぎ、長安から初めて王舎城までの五万余里の間を辿りました。途中の風俗は千差万別で艱難危険が次々と襲いましたが、天子の御威光によって支障なく心願成就して、耆闍屈山(ぎじゃくさん・霊鷲山)に着いて観菩提樹を礼拝し、不見の聖跡を見、未聞の経を聞き、歴覧周遊すること十七年、今は既に鉢邏耶伽(プラヤーガ)国からパミールを越えて波謎羅川(はめらせん・パミール渓谷)を渡り于闐(ホータン)に達しました。連れて来た大象が溺死して経文が散失しましたのでしばらくこの地に止まるため、直ぐに帰ることは出来ませんが、遠地から故国を仰ぐことに堪えかねて、謹んで高昌国の俗人の馬玄智を商人に随行させて派遣し、表を提出してお伺い致します」とある。 七八ヶ月ばかりの間、于闐(ホータン)の僧達のために大乗論を講義していたが、恩勅が下って、「聞く、師は道を殊域に訪ねて今帰り還る由、歓喜まことに無量なり、速やかに来て朕と対すべし、朕はすでに于闐等の沿道諸国に法師を送らせることを命じたり、人力も馬も不足ないであろう」との事なので、遂に玄奘は流沙を越えて沙州に入り、表を再び提出した。その時太宗は洛陽宮に居られたが玄奘法師が次第に近づくのを知って、長安の留守役を務める左僕射国公の房玄齢に命じ、玄奘法師の出迎えのため役人を派遣して待機させた。(「その十二」につづく)

注解
・迦湿弥羅国:前出。
・烏仗那国:前出。
・于闐国:現在の新疆ウィグル自治区に在った国、首都は現在のホータン。シルクロード天山南路のオアシス都市。玄奘は高昌国の滅んだことを知って往路をとらず、帰路は天山南路をとってホータンに到着した
・鉢邏耶伽国:前出。
・波謎羅川:パミール高原にある八ツの谷のうちの大パミールと云う渓谷。



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