幸田露伴の随筆「古革籠④」
古革籠④
時氏と了俊
今川了俊は「難太平記」の中で、「昔、山名修理太夫時氏は、明徳の乱の内野の戦いで討たれた陸奥守清氏の父である。それが常に云っていたことは、・・我が子孫は間違いなく朝敵になるだろう、その訳は我の建武以降は時代のお陰で人並に成れたが、元弘以前はただの民百姓のようであって、上野(こうずけ)(栃木県)の山名と云う所から出て来たのであれば、渡世のかなしさも自分の程度も知り、また戦(いくさ)の難儀も思い知った。なので此の時代の有難さも、世の有様も弁(わきま)えているはずであるのに、今はややもすれば上を疎かに思い、人なども卑しく思うようになって知ったが知ったが、子供の代ともなれば、天子の御恩も親の恩も分からずに自分だけを輝かさせ、身の程知らずに我意を通して、終には信用をも失うことだろう・・と子息たちの聞いているところで言ったと云うが、案の定、朝敵となった。昔の人は此の様な「大すがた」を能く心得ていたので、この人は一文字も知らない人であったが、実に善く云ったことではないか」と云う。
実に時氏の言葉は至言である。世の恩、身の程、戦(いくさ)の難儀を思い知れば、人は自然と思うことも為すことも道に適(かな)うようになる。世の恩も親の恩も忘れて自分だけを輝かすようになっては、人は誰でも禍(わざわい)に遇わないでは済まない。了俊が時氏の言葉を褒めて、「大すがたをば能く心得たり」と云ったのも甚だ善い。大すがたとは大体と云うことである。今の世は智者や学者が甚だ多いが、大すがたを心得ている人は多いであろうか、どうであろうか。
注解
・今川了俊:鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。「難太平記」の著者。
・山名時氏:鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。
快川和尚と杜荀鶴
甲州(山梨県)恵林寺の快川和尚は、武田信玄の崇敬を受けて、鬱然と聳える東国禅宗界の雄であった。国師の号を賜り、二千の宗徒を率いる、その盛んなことを想うべきである。後に武田家が破れるに際して、武田の武士を匿(かくま)って織田信長に焼殺される。和尚は煙と炎の中に在って端然として云う、「諸人は今、大火の襲う中に坐す、ここにおいて仏法を伝える、皆々、心機打開の語を唱えよ」と宗徒の皆に下語(げご・教訓)した。そして快川は唱えて云う、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火も自(おの)ずから涼し」と。この話、甚だ好い。今の恵林寺の門柱に快川和尚の此の着語二句を記(しる)す。門に入る者に身の締まる思いを抱かせる。
しかし安禅の二句は快川和尚が作り出したものでは無い。唐の杜荀鶴(とじゅんかく)が夏日に悟空上人の院で書き付けた詩に、
三伏 門を閉ざして一衲(いちのう)を披(き)る
兼ねて松竹の房廊(ぼうろう)を 蔭(いん)にする無し
安禅必ずしも 山水を須(もち)いず
心頭を滅却すれば 火も亦(また)涼し
(三伏の時に僧衣を着て、山門を閉ざし夏安吾の修行に入る。以前から僧堂には松竹などの日陰は無い。しかし、座禅に山川の涼しいさは必要でない。暑いと思う心を消し去れば、火もまた自ずと涼しい。)
とあり、和尚が偶々(たまたま)この詩の転結の部分を捻って、その一二字を換えただけのことである。禅僧の下語は、詩や歌を作るのと違って、上は経典や詩歌から下は古語や俗諺や罵詈造言や叫喚の声などあらゆるものを引用するのである。これは分かり切ったことであるが、門外の人は知らないので此の語は快川和尚が作ったと思っているが、そうでは無い。
注釈
・恵林寺:山梨県甲州市にある臨済宗妙心寺派の寺。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。
・快川和尚:戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗妙心寺派の僧。武田家滅亡時の恵林寺の住職。
・杜荀鶴:中国・唐の詩人。
・三伏:夏の最も暑い時期。初伏(七月中旬の庚の日)中伏(七月下旬の庚の日)末伏(八月初旬の庚の日)を云う。
・門を閉ざして:山門を閉ざして夏安吾(夏の禅修行)をする。
・一衲:僧衣
・房廊:房は部屋、廊」は廊下。
料理物語と草木子
山椒魚は鯢(げい)である。鯢の字は、鳴く声が子供のようなので作られた。中国・明の葉子奇(ようしき)の「草木子雑俎篇」に、「鯢魚は鮎のようである、四足で長い尾があり、能く樹に上る、干天の時には水を含んで山に上り、草葉で身を覆って口を張る、鳥が来て水を飲むと、吸って之を食う」と記し、「また声は子供のようで、土地の人が之を食うには、先ず之を樹に縛って鞭打って、身から出るドブ汁のような白い汗を拭き去ってこれを食うべし、そうしないと毒が有る」と記されている。山椒魚は少ないので、我が国ではそれが餌を食べる様子などは知られていない。しかしこの事は嘘では無いと見えて、清の陳鼎(ちんてい)の「黄山史槩」にも、「魶魚(どうぎょ)は四足長尾で鱗が無い、声は子供のようで、能く樹に上り水を含み、鳥を餌にして食とする、その膏(あぶら)を取って灯を燃やすと永く消えない」とある。魶も思うに鯢であろう。
我が国でもごく近い昔は鯢を食っていた。「寛永料理物語」に載っている「はんざき」と云うものは即ち山椒魚である。今も山城(やましろ・京都)や但馬(たじ(ま・兵庫)では之を食う。膏が極めて多いので灯とすると云う言葉も嘘では無いであろう。黄山(こうざん)は中国安徽省の大山である。鈍い山椒魚が敏捷な鳥を獲る、鳥はソモソモ何の鳥か知らないが、大笑いである。
注釈
・葉子奇:中国・元末明初の学者。
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