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幸田露伴の「二宮尊徳③(烏山)」

 常陸(ひたち)の国(茨城県)真壁郡(まかべぐん)青木村と云うところは、その頃次第次第に衰えて、どうしようもなくなっていたが、二宮先生が桜町に三年ほど居られて荒れ果てた三ケ村(さんかそん)を復興された話を聞いて、青木村の地頭や村長などが先生の復興の仕法(報徳仕法)を頻りに尋ねるので、先生は能く教え能く導いて復興の方策を授けて、ついに青木村を繁昌な所に成された。
 又、ここに野州(やしゅう・栃木県)烏山(からすやま)の大久保侯の領地は、風気(ふうき)が悪く領民が怠惰なので次第に衰退して戸数も減り、荒れ地だけが増えて上も下も困難な時に、侯の菩提寺の和尚に円応と云う者が居た。性質は剛(つよ)く学問にも明るく、仏の道も結局は苦を抜いて楽を与える以外にないと悟って、いたずらに経を読み香をひねるだけでなく、弱い人を憐れむ心の盛んなところから、農家が日に日に衰微して行くのを見かね、自ら得た浄財を使って他所からの流民を引き入れ、領内の農民を諭し勧め教え励まして、多くの荒れ地を開いて田や畠にして、国のため民のためにと心を尽くして図(はか)ったが、天保七年になって飢饉が起きて農民等の難儀は尋常では無い。円応は頑張って飢饉から民を救おうとするが、到底力が及ばない。折角ここまで努力してきたことも水の泡と消え、百日の努力も一時に廃(すた)れる有り様となり、大いに憂い悲しんでいると、芳賀郡桜町の衰退を二宮金次郎と云う豪傑が復興に着手して十年、大いに復興したとの噂を聞いて、家老の菅谷と云う者と相談をして「一緒に行こう」と云うと、菅谷も予(かね)てから先生の噂を聞いて知っていたので、「噂の通りであれば二宮先生は当世の俊傑である。現在烏山領では領民を導き育てる方策さえ立てることができない。和尚が行ってその方策を得て帰り、教えて貰いたい」と云う。それで円応は一人桜町に来て、先生に面会を申し込んだが、先生は人を介して「仏教者には仏教者のやり方があるハズ、私は今はただ数村を復興し村人を救うのに忙しい、僧侶に会って話などする暇はない」と断られたが、円応はドッシリ落ち着いて引き下がらず、「私は僧侶ですが、その気持ちは民を憐れみ救おうとするだけです、現在烏山の領民は飢餓に悩まされていて見ていることができません。このため先生の教えを願って救おうとするのに、先生に面会も許されないでこのまま無駄には帰れない」と云う。それを取次の者が先生に伝えると、「烏山の領民の安否はその領主の責任である」と構わないで居られる、円応はこれを聞いて陣屋の門前の芝原の上にドッシリと坐って、「私の進退は烏山領民の死活にかかわっている、先生に会って方策を聞くことができなければ、今は何をしたら良いのか、私は先生に会わずに帰ることはできない、ここは一寸たりとも動かない、サア飢え死にして民の死に先立とう」と、袈裟衣(けさころも)は露に汚れ飢えは次第に迫るが怯まずに、一心に民を救おうとカラスが塒(ねぐら)へ帰っても帰らず、日が暮れ夜が更けても石造りの羅漢(らかん)のように坐り込んでいる。翌日になっても猶帰らないので、見る人は驚きこの様子を先生に告げる。先生は怒って、「怪しからん坊主だ、ここに連れて来い」と命じると、円応はやがて先生の前に連れて来られた。
 先生はその時大声を張り上げて堂々と説かれて、「お前は間違っている。人にはそれぞれ職分がある。領主には領主の務め臣下には臣下の務めがあり、僧には僧の務めがある。領主の務めを僧が行うなどすれば国が乱れ民の不安が増すのも当然である。お前は僧の身で無暗に領主の職分を奪ってはいけない。荒れ地を開き領民を救うのは領主の職分である。説教や祈祷などこそ僧のすることであろう、お前の志は不善ではないが行おうとすることが間違っている。お前が領民の飢饉を悲しむのであれば何で国の領主に告げないのか、我が陣屋の門前で死なないで、何でお前の寺の中でお前の職分を行って死なないのか、お前がお前の道を誤り、領主が領主の道を間違えるようでは、領民の苦しみは何時になったら解消されよう、早く帰ってお前はお前の道を行え、早く行け」と、天地に轟く大声で理路明白に示される。さすが剛直な円応も一言も無く頭を垂れ黙然としていたが、座を立たれた先生の影に拝礼して、感激して自分の過失を謝罪して国へ帰った。
 円応が帰って詳しく状況を報告すると、菅谷は増々感心し遂に殿様に申し上げ、殿様から書状を頂いて直ちに桜町へ行き、主君の命令を申し述べ、書状を出して頻りに領民を救うことを求めたが、先生は歎息して云われる、「烏山侯が仁心深く領民を救われたいと思われても、私の使命ではないので仕様が無い。しかし私の主君の小田原侯の縁者であられるのであれば、烏山侯から私の主君に申し込まれるべきです。私からも主君に言上しましょう。その上で烏山の領民を救うべしと私の主君から命じられれば、その時は私も尽力いたします。しかしながらその手順で行うには数日かかるでしょう、その間の急場を救うには之をお使い下さい」と二百両を菅谷に与えると、領国が逼迫(ひっぱく)し一金の余裕もない飢饉の時に、ただ一回の面会で直ちに二百両を与えられて、菅谷は茫然と夢のような思いで帰った。
 天保七年は諸国で米が実らず、士も民も大いに苦しんで、或いは草の根を食い、或いは木の皮を食うほどになって、飢えて道端に倒れ死ぬ者もあった程で、烏山の領内でも民は飢饉に苦しみ、遂には一揆を起こして町の富家を脅かし動揺が広がる。城中の群臣等はこれを聞いて、「モシ彼等が城内に乱入などしたら、仕方ない大砲を放って追い払おう」などと話し合い騒ぎ立ったが、小田原侯から「烏山は親族であるので救える方策があるなら救え」と二宮先生に命令があったので、そこで先生は二千両余りの米穀を桜町から運ばせたので、烏山までの十里の間を人馬が次々と断え間なくつづき、これを見て驚かない者は無かった。このようにして天性寺(てんしょうじ)の境内に十一棟の小屋を建て領内の飢民に粥を焚(た)いて与えると、数千の人民は恵みの露に枯れた喉を癒して、命は助かり騒動は止んだ。円応和尚は大いに喜び、日も夜も全く夢中で民のために心を尽くしたが、これからは烏山の君臣は深く二宮先生を尊み、烏山侯はもちろん家臣一同一致して、「何卒烏山の疲弊を救って、長く安泰にして頂きたい」とひたすら頼まれるので、先生はそこで節倹勤勉の方策を説明されて復興の仕法(報徳仕法)を授けられたが、果たして二年ほどで荒れ地が開かれること二百二十四町、生産は二千俵にも上がった。これは皆先生の寛仁至誠の徳風が烏山の君臣上下を薫染されたお陰である。
 円応は深く先生の徳を仰ぎ行いに服し、先生の仕法より他に安民の道はないと信じて、菅谷と心を合わせ力を尽くした。或る時、円応が自ら川に入って網を張って鮎を獲ったところ、深い心が在ってのこととは知らない人々は、「殺生は仏が戒められるところなのに、僧侶の身で魚を獲るとは、有ってはならないこと」と批判したが、円応は反省もしないで、「私は民を救われた先生に、この鮎を供養するのだ」と云って、獲った鮎を下僕に担がせて桜町へ行くと、道行く人はこれを見て、「おかしな和尚だ」と罵る者もいたが、知らんふりをして先生のところに着いて先生に鮎を差し上げると、先生はこれを喜んで食(しょく)された。こうして円応は一二日を桜町で過ごしていて、突然お暇乞いをして帰ろうとすると先生は、「和尚、無駄にここ迄来たのではなかろう、何一ツ聞かないで帰るとはどうしたことか」と問われると、円応は改まって、「初め来た時は考えの善し悪しを伺おうとして来ましたが、二日ほど先生の御傍で過ごすうちにスッカリ分かりましたので、今は別にお尋ねして先生を煩わせる必要は無くなりました。烏山の処置も既に決まりました。」と云って帰れば、先生も感歎されて、「あの僧のような人は中々いない」と褒められた。円応は帰ってからもしばしば鮎を獲って、残らず売って銭に換え、安民の用に使ったと云う。
 円応はその後菅谷と共に相州(そうしゅう・神奈川県)厚木領に先生の仕法を教えようとして行ったが、二人共流行病に罹って仕舞い、帰ってから菅谷は助かったが円応は世を去った。先生はこれを聞いて深く円応の死を悲しみ、「菅谷一人となっては、折角復興に向かっている烏山もこれからどうなることであろう」と愁い歎かれたが、果たしてその後菅谷は讒言のために追い落とされて、良い仕法は廃止され、負債は生じ人気(じんき)は衰え税入も減少するようになった。しかし数年後烏山侯は自ら悔い改められて、先生の勧めに随(したが)って菅谷を召し返し、再び復興を計られたが、残念なことに弘化の頃に菅谷が亡くなり、遂に烏山藩の再興の道は途絶えた。(④につづく)

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