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幸田露伴の史伝「平将門⑥(最期)」

 相模から帰った将門は、天慶三年の正月中旬に、敵の残党が潜んでいる虞れのある常陸へ出馬して鎮圧に努めた。ちょうど都ではこの時参議の右衛門督藤原忠文を征夷大将軍として、東征させることになった。忠文は当時唯一の将材であったので、後には純友征伐にもこの人が挙げられている。忠文が命令を受けた時は正に食事中であったが、命令を聞くと即座に箸を投げて起ち、節刀を受けると家には帰らず出発したと云う。生ぬるい人が多かった当時では立派な人であった。しかし戦う前に将門が亡びて仕舞ったので、褒章に与からなかったのを怨んで拳を握って爪が手の甲を通り、怨み言を発して小野宮大臣を呪った、と云うところなどは余りにも小さい。将門が常陸に入ると那珂郡と久慈郡の藤原氏共は御馳走をして、ヘイコラを極めた。そこで貞盛と為憲の居所を教えろと迫ったが、貞盛と為憲はこれ等の藤原氏に捕まるほど間抜けでも弱虫でも無かった。そのうちに将門軍の多治経明等の手が、貞盛の妻と源扶の妻を吉田郡の蒜間江で捕まえた。蒜間江は今の涸沼である。
 以前は将門の妻だ捕らえられ、今は貞盛の妻が捕らえられた。時計の針は十二時を指したかと思うと六時を指すのだ。女たちは衣類まで剥ぎとられて、惨めな状態になったが、この事を聞いた将門は良兼とは違った性格を現した。「流浪の女人を本拠に還すは法式の恒例である」と、将門は法律に通じ思い遣りに富んでいた。衣装一重(ひとかさね)を与えて釈放して帰らせた。且つ一種の歌を詠じた。「よそにても風のたよりに我ぞ問う、枝離れたる花のやどりを」と云うのである。貞盛の妻は恩を喜んで、「よそにても花の匂いの散り来れば吾が身わびしとおもえぬかな」と返事した。歌を詠みかけられて返えせなければ、「七生唖(おし)になる(七度生まれ変わっても唖になる)」と思っていたらしい当時の人事であるから此の返歌があったのだろう。この歌とこの事を源護の家と将門との闘争の因縁にこじつけると、古い浄瑠璃作者が喉を鳴らしそうな材料になる。扶の妻も歌を詠んだ。流石に平安朝の匂いのする話で、吹きすさぶ風の中にも「春の日は花の匂いのほのかなるかな」とでも云いたい。清宮秀堅が此処に注目して、「将門は狂暴とはいえども、賊徒とは違うところがある、良兼を逃がした、父や先祖の像を観て退散した、貞盛と扶の妻を辱めなかった。」と云っているが、実にその通りである。将門は時代が遠く事実も精しく分からないから、元亀天正(戦国時代末期)辺りの人のようには細かく想像出来ないが、どうも李自成などのようでは無い。やはり日本人だから日本人だ。興世王や玄明を相手に大酒を飲んで酔っぱらって管さえ巻かなければ、氏は違うが鎮西八郎為朝のような人だと後の人から愛されただろうと思われる。
 ドラマは此処でまた一場面がある。貞盛の妻は釈放されてドウしただろう。凡そ情のある男女の仲というものは、不思議なことに離れてもまた会うもので、虫が知らせたのかドウか分からないが、「思って知るのではない、感じて知るのである」で、動物でも何でも雌雄は引き分けられても、何時か互いに尋ね当てて一緒になる。イチョウの樹は雄樹と雌樹とが五里六里と離れて居てもやはり実を結ぶ。中国では漢の高祖が若い時に、アチコチと逃げ回って山の中などに隠れて居ても、妻の呂氏は何時でも尋ね当てた。それは高祖の居るところに雲気が立ったからだと云うが、幾ら占い師の娘であったにしても、馬鹿なカラスのように雲ばかりを当てにはしなかったろう、真っ黒焦げの焼餅焼きのことだから、夫の事でヒステリーになると、忽ちサイコメトリー的な千里眼になって、「君が行方を寝る夢に見る」で、ありありと分って後を追いかけたのかも知れない。貞盛の妻もここは苦労してでも夫に遇いたいところだ。ようやく遇うとハッとばかりに取り縋る、流石の貞盛も女房の肩へ手を掛けてホロリとするところだ。そこで女房が敵陣の様子を語る。軟らかい情合いの中から希望の火が燃え出して、「サテは敵陣は手薄であるか、イザこの機を外さず討ち取って呉れよう」と勇気に満ちて貞盛が突っ立つ。チョン、チョチョチョと幕が引けるところで、一寸おもしろいが、どの書物にもこう云うところは出て居ない。
しかし実際に貞盛は、将門軍の兵が少ないことをドウして知ったか分からないが知ったのである。将門の精兵は八千と伝えられているが、この時は諸国へ兵を派遣して居たので陣営は甚だ手薄であった。貞盛はかねてから通じていた秀郷と四千余人を率いて猛然と起った。二月一日に矢を合わせた。将門の兵は千人に満たなかったが、副将の藤原玄茂を陣頭に多治経明や坂上遂高など豪勇を誇る者共が、秀郷を見かけると将門にも告げずに、「ソレ蹴散らせ」と打って掛かった。秀郷と貞盛・為憲は三手に別れて巧みに包囲した。玄明等は大敗して下野と下総の境から退いた。勝ちに乗じた秀郷軍は未申(ひつじさる・午後二時~四時)にかけて川口村に襲い掛かった。川口村は水口村の間違いで下総の岡田郡である。秀郷と貞盛は息もつかせず攻め立てた。勝てば勢いが出る、負ければ怖気づく。将門の軍は日々に衰えた。秀郷と貞盛の軍は下総の堺、即ち今の境町まで十三日には迫った。敵を不馴れな地で疲れさせ、我が兵が他国から帰り来るのを待とうと、将門は見張りの兵四百を率いて、例の飯沼のほとりの地勢の錯雑したところに隠れた。秀郷等は偽宮を焼き払って敵の意気を挫いた。十四日には将門は猿島郡の北山に逃れて、早く我が軍の来ることを待ち望んで居た。大軍が帰って来られては堪らないので、秀郷と貞盛は必死に戦った。この日は南風が急に暴れ吹いて、両軍は盾をつくことも出来ないで、皆バラバラと吹き倒されて仕舞った。人々は顔がむき出しになった。憎しみの心が互いに頂上に達した。牙を咬み眼を怒らせて、鎬(しのぎ)を削り鍔(つば)を割って争った。ここで勝てずに日が経てば、秀郷等は却って危うくなるので必死になって堪えに堪えたが、猛烈な風に眼も明けられなかった、為に秀郷貞盛軍は不利な状況になった。戦いの潮時を熟知している将門は、轡(くつわ)を連ね馬を飛ばして突撃した。秀郷貞盛軍は散々に蹴散らされて逃げ惑い、残るところは屈強の者三百人だけとなった。この時、天意かどうか分からないが、風が南風から北風に変わった。今度は秀郷貞盛軍が風の利を得た。生きるか死ぬか勝負はこの時と秀郷と貞盛は大童になって戦った。将門も馬を飛ばして戦ったが、たまたまドッと吹く風に馬が驚いて立った途端、猛風を背に飛んで来た矢がハッタとばかり将門も右の額に突き刺さった。憐れにも、豪勇を誇る将門もこうなっては運命である。三十八才を一期に忽ち滅して栄光は皆空しいこととなった。
 幹が倒れれば枝葉も枯れる。将門の弟の将頼と藤原玄茂はその年相模国で斬られ、興世王は上総へ行っていたが左中将将末に殺され、遂高と玄明は常陸で殺されてしまい、弟の将武は山中で殺された。
 将門の娘で地蔵尼と云うのは、地蔵菩薩を篤信したと「元亭釈書」に出ている。六道能化の主を頼んで父の苦患を助け、自身の悲哀を忘れて、悪因によって却って勝道を成そうとしたと考えると、まことに哀れな人である。信田の二郎将国と云うのは将門の子であると伝えられ系図にも出ているが、この人のことが伝説となったのを足利時代に語り物にしたのだろうか、まことに哀れな「信田」と云うのがある。しかし直接に将門の子としては居ない。ただ相馬殿の子孫としている。そして二郎では無く小太郎とあるが、まことに古朴な味のある語り物で、想うに足利末期から徳川初期までの多くの人々の涙を絞ったことであろう。信田の三郎先生義広も常陸の信田に縁のある人ではあるが、この人は別に将門の信田とは関係がない。義広は源氏で頼朝の伯父である。
 将門には余程京都では驚き怯えたものと見える。将門が死んで二十一年、村上天皇の天徳四年に、右大将藤原朝臣が奏上して云う、「近頃、人々が故平将門の子息が京に入ったと云う」と、そこで右衛門督朝忠に命じて検非違使を使って探させ、また延光に命じて満仲や義忠や春実等に同じく探させたと云うことが、「扶桑略記」の巻二十六に出ている。バカバカしい事だが、このような事も有ったかと思うと、どれほど都の人々が将門に怯えていたかが窺い知れる。菅公に怯え将門に怯えて、天神や明神が沢山世の中に祀られている。この中に考えるべき事があるのでは有るまいか。こんな事は余談だ、余り云わなくとも「春は紺より水浅黄よし」だ。サラリとしよう。
(大正九年四月)

注釈

・節刀:
 天皇が出征の将軍に持たせた刀
・李自成:
 中国・明末の反乱の指導者
・鎮西八郎為朝:
 平安時代末期の武将、源為義の八男。剛勇無双、剛弓の使い手、父とともに保元の乱に参戦、敗戦後伊豆大島に流される。

・元亭釈書:
 鎌倉末期に成立した日本仏教史書
・信田の三郎先生義広:
 志田三郎先生義広、平安時代末期の武将、源為義の三男、
後年関東に下向し常陸国信太荘を開墾し本拠地とした。
・春は紺より水浅黄よし:
 春は紺色より水浅黄色がよい

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