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幸田露伴の伝記「真西遊記・その四」

その四

 雲が果てしなく大空を埋める鳥も鳴かない荒涼とした砂漠の中を、ただ一人地上に曳いた我が影を道連れにして行く淋しさ、我が故郷は山緑水明の土地なので、岩根を枕に草を褥(しとね)にして寝るにも趣があり、旅空にもまた自然と慰めるものが無くは無いが、ここは有名な関所の外の大砂漠、翠(みどり)滴る常盤木(ときわぎ)は無く、花の木などに至ってはいよいよ更にあるハズが無い。芳香の草の生い茂るけむるような眺めも無ければ、鎌を腰にして牛の背に跨(またが)る牧童にも遇わず、遠山の霞む縹緲とした景色も無く、紅蓼(べにたで)の花がつくる河州(かわす)の趣きも無く、ただ見るのは黄砂の中に時々現れる不運に死んだ旅人の、曝された頭骨・肋骨・腿骨などの遺恨の形見だけ、身の毛もよだつ心地して、我が身も運が悪ければコウなるものと思いながら、一歩一歩と進み行く目の前に、忽然と毛衣(けごろも)を着た胡人の兵士等が何隊となく、馬に乗り旗を閃(ひらめ)かせて現われたことがある。これは砂漠の中の幻の出来事で、驚く間も無くまた消え去って、後はただただ黄砂があるだけ。
 玄奘が疲れを堪え忍んで八十里余りを過ぎた頃、第一の烽火台を見出した。あそこに水があると思うと水恋しさに堪え難いが、番兵に見咎められては命が無いと、砂の掘れた溝のようなところに隠れて居たが、日は黄塵の中に没して不気味な風の吹き渡る全くの夜になると、闇に紛れて水を得ようと密かに台下の水のあるところに忍び入って、恐る恐る皮(かわ)嚢(ぶくろ)に水を溜めている時も時、風を切る矢羽(やばね)の音がして一筋の征矢(そや)が颯(さっ)と鳴って、殆んど膝に命中しようとした。コレはいけない見つかったか残念、と思う間もなくまた一矢が来れば、所詮叶わないことではあるが、コウなった上は正直に私の西遊の趣旨を述べ、その上で殺されても罰せられても仕方無いと玄奘は、「みだりに矢を放つな、私は仏衣をまとう僧である、早まるな、都から来た者であるぞ」、と大声を上げて叫びながら馬を牽いて向って行くと、台上の人も門を開いて出て来た。番兵は恐ろしい顔で玄奘を見たが、全く僧に違いないので、「校尉(指揮官)に伺って来る」と云って奥に入っていった。玄奘がどうなることかと心落ち着かず待つところへ校尉の王祥(おうしょう)という者が現れて、火を焚かせて玄奘の様子を見て、この僧は真(まこと)に都の者のようだ、河西地方の者の様ではないと独語して、「どのような用があって関外へ出て西域に行こうとするのだ、具(つぶさ)に語れ」と訊き質すと、玄奘は今は少しも包み隠さず、「法を求めてインドに行く」ことを申し述べたが、凉州からは玄奘は捕らえられて東へ還ったとの報せを受けていて、猶も凉州をくぐり抜けて西に進むとは聞いていないので、玄奘の言葉を信じるようすはなかったが、馬上に積む仏書に記された名字を示されて信じた。「しかし、西域への道は艱難至極、到底首尾よく到達されることは十に一ツの望みもありません。今私は法師を罪にしませんが、ぜひ西遊することは止(よ)し玉え、私は敦煌の者ですが敦煌には張皎法師と云う人が居て能く賢者を愛し徳人を尊びます、法師に対して悪い待遇は仕ないでしょう、敦煌へお送りしますのでソウなさい。」と玄奘の願いを抑え止めた。
 しかし玄奘は困難を避けない。安易に就かない。自分の利益が目的では無いので、「私は若い時から道に志し、二京(長安と洛陽)の名高い僧や呉蜀(呉と蜀)の優れた学者等で訪れて学ばない人は無いと、いささか人にも名を知られた者、名分や利益のためならば敦煌などに行く必要はない。また張皎と云う法師がどのような碩学か巨匠か知らないが、既に天下の名僧高徳を訪れ尽くした私は訪れたいと思わない。ただ仏法の悉(ことごと)くは未だ伝わっていない、経も全部は伝わっていない、そのため義に欠けるところのあるのを不満に思って正しい法を得ようと西域に行くのであって、艱難は無論覚悟の上、安逸は望まない。何としても恒河(ごうか・ガンジス河)を渡って鷲嶺(じゅれい・霊鷲山)に上らないででは帰らないと誓ったのを、敦煌に行き玉えとは口惜しくも情けない仰せ、私を憐れと思い玉わうのであれば励まして、努めよ法師と云い玉わるこそ有難いものなのに、何と引き返すことを勧められるとは、互に大悲大恩の仏恩に縋って浄土を歓び求める者は、共に功徳の種を蒔き蒔かれする仲であれば、願わくは一時の慈悲を以って私を見逃して私の望みを遂げさせ玉え、モシまた拘留し玉いて即刻酷い刑罰に処されても不肖ながらこの玄奘、骨も血もある一個の男児、信も義もある一個の仏子、心に背き誓いを破って東方に還るなど一歩も仕ない、東に移るなど一歩も仕ない」と凛然と答えたのは、たとえ聞く者が石であっても感動させる勢いがある。
 流石に校尉の王祥も、道のためには死んでよいとする法師の勇猛殊勝な態度に憐れみを覚えて、「何とも潔いことを云われ玉わるものかな、法師は真(まこと)に仏法の忠臣であり孝子であります、法師のような肉中に稜たる骨があり、血中に燃え立つ熱があり、身を以て信を守り命に代えて義を重んじる稀有な大人が、稀有な大業のために遥々この地に来玉しに知り遇えたのは、我が一生の大快事、サゾ疲れて居られましょう、マズ休み玉え、明日にも前途のことを御相談致しましょう」、と云って奥へ去った。玄奘は大いに悦んで用意された筵(むしろ)の上で夜を安心して眠ったが、明ければ食事の終わった頃に、王祥が従者に水の入った嚢(ふくろ)と麦餅を持たせて自ら玄奘を送ること十里余り、「これにてお別れ致しましょう、ここから直ちに第四烽火台に向かって行き玉えば、恐らく無事に着かれましょう、そこには私の兄弟の王伯隴(おうはくろう)という者が居て守って居りますが、彼は心の素直な、褒めるのも何ですが慈悲(なさけ)深い者ですので、私の言に従って訪ねて来たと云い玉えば、悪い待遇は仕ますまい。第二・第四・第五の烽火台の人は何とも知れませんので注意して、水を盗もうなどと近寄ってはなりません。」と詳しく伝えると、玄奘はたいそう恩を感謝して、再び一人砂漠の中を進んで行った。
 休憩する木蔭も無い旅路に疲れて、やっとのこと第四烽火台に着いて、玄奘はつくづく思う、「この烽火台を守るのは彼の親切な王祥の兄弟といえば、頼りになると思わない訳ではないが、人の心は親子でも兄弟姉妹でも顔が違うように違うものなので、役目を大切に思い私を止めて厳しい処置をするかも知れない、たとえ事情を述べて彼の心が解けて和やかに許してくれるにしても、無駄に手数をかけるのも煩わしい、まして態々(わざわざ)こちらから名乗り出た時に、「法を犯す大胆者め引っ括って凉州に送る」と云われたら、悔やんでも間に合わない、密かに水を取って通り過ぎるに越したことはない、ソウしよう、ソウしよう」と、密かに闇に乗じて水のある所に近づけば、未だ水に達しないうちに、一筋の矢が飛んで来て危なく体に中(あた)ろうとしたので、見付かったか仕方ないと、「私は都の僧で玄奘と云う者である、矢を放たず暫し待て、番将の王伯隴殿に云うことがある」と慌てて云って、第一烽火台のときと同様な手続きを経て王伯隴と云う者に会い、王祥の言葉、自身のこと、自身が留められるのを恐れて密かに水を取ろうとしたことなどを、詳しく述べて弁明した。
 思いのほか王伯隴と云う人は、王祥の云う通りの正義を愛し人を愛する人で、事情を聞き終ると「サテそれでは尊い僧でありましたか、知らずに仕たことであれば矢を飛ばした無礼を許し玉え、聞いたことも無い健気な思い立ちをどうして邪魔だて致しましょう、御心配召さるな、今宵はゆるりと休み玉え、」と云って、慇懃にもてなしてくれたので、軽率に他人(ひと)の心を疑った自分の心が恥ずかしいと思うまで玄奘は悦んで安心して休んだ。翌朝王伯隴は水を入れる皮嚢と馬の飼葉を提供して少時(しばし)送って行き、別れる際に、「法師、第五烽火台には向い玉うな、そこを守る者は荒々しい性格なので、法師を苦しめるかも知れません、此処から行くこと百里ほどの所に野馬泉(やばせん)と云うのがあります、そこで水を取り玉え、野馬泉さえ見つけられれば水に不自由は仕ないでしょう」と、丁寧に別れを告げてくれたので、玄奘も恩を感謝し別れを告げて馬を急がせ出発したが、名高い莫賀延磧のことなので行けども行けども尽きることが無い。
 深山ならば獣の叫ぶ声も聞こえ、大海であれば船端をかすめる海鳥もあるだろうが、昔は沙河と呼ばれた言語の絶えたこの荒れ地、ただ一面の砂磧がつづく深山大海よりも寂しく長い八百余里を、慰め合う友も無く辿る悲しさは云う言葉も無い。求法の大精神を弦(つる)にて、英邁直往の気を弓にして、身を空飛ぶ矢にして、どんな鉄でもどんな岩でも貫くぞと意気込んで、旅の衣に雪のように積もる塵埃(ほこり)を払いもせず、足は疲れて踏む力無く、身は脂汗にまみれて五体は綿のようだが、唾を吞み込み吞み込み、西へと二十里進み四十里進み、愛護の神力与え玉えと観音菩薩を念じ祈り、或いは一切の苦厄を救う有難い大明呪を誦して、辛苦もよくよく観れば有るハズは無いと、般若の妙理を腹から味い身に感じ、またもや十里行き三十里行きしたが、行くことやがて百里を過ぎようとする所で道を間違え、王伯隴が教えてくれた野馬泉と云う泉に出合えない。心はいよいよ驚き騒いで注意に注意を重ねて行くが、それらしい影も見えない、それに加えて、携えて来た嚢の水を飲もうとするはずみに、意外な嚢(ふくろ)の重みに手を取り外して地に落としてしまい生命と頼む水を失ってしまった。
 大切な携行食を失った上に道は何方(どちら)か少しも分からない、流石に大胆な玄奘も当惑し、一旦第四烽火台に帰って水を嚢に充たして、取るべき道などを聞いてそれから再び西に向かおうと、東の方へ十里余り馬で引き返しかっかたが、「私が最初発願した時は、もしインドに行けなくとも一歩も東へ向かっては歩まないと誓ったのに、たとえ水を失ったにしても、また道が分からないにしても、東へ帰ってよいものか、東に帰って生きるより寧ろ西への道を行こう、一目では涯(はて)の見えない砂漠でも決して涯が無い訳が無い、弱気の思いに身を任せ引き返すとは義も無く勇も無い、三世諸仏が見て居られるのに恥ずかしい、何を今さら死を恐れよう、精神を壮んにして自助すれば、天も必ず見捨てられることはなかろう、そうだ、そうだ」と、独り頷(うなず)き轡(くつわ)を返して、「観音菩薩も私の誠心(まごころ)を憐れみ玉え」と、黙祷しながら西方を目指し進んで行くと、烈風は時に襲い来て巻き上がり躍り舞う砂は面を打つ、夜になると真っ暗な闇の中に怪しい鬼火が燃えて、忽ち明るく輝いたかと思えば忽ちキラリと光って蛍の光のように点滅する。
 しかし、奥歯を噛みしめて少しも恐れることなく、必死に進み進んで二日も経つが水に遇わない、三日経っても水に遇わない、四日経っても水に猶も遇わないので、舌は乾いて焦げるようで、身体は痩せて骨張ってくる。明日は或いは水を見ることができるかもと空しく期待して、黒い煙が出るのではと思うばかりの息を吐き吐き、ヨロヨロと一日歩くが五日経っても水に遇わない、眼の先はボウとして、今や生命(いのち)は油の尽きた短芯の油ランプの灯のよう、五日四晩水も飲まずに歩いて、もはや馬も進まず人も堪らず絶体絶命である。「私は大望を起こして事成らず、此処で砂漠の鬼と化すのか、心外だ、幾多の艱難を凌いで来たが皆風前の虹と消えて、全身の熱血が無駄に砂漠の磧上に乾いて消える無念さ遺恨さ、天命であれば神仏を恨み奉ることも無いが、大丈夫が志を立てて事未(いま)だ半ばも成らない中で壮図を抱いて冥土の客となる、遺恨は千年経っても消し難い。故郷の兄も玄奘が此処で枯骨と成り果てようとは、通る人も無い沙河で終っては亡き後までも知り玉わないことだろう。アア嘆いても仕方ないこと、最後の覚悟をしよう」と、足を折って地に倒れ伏した馬の首を掻き撫でながら、「老馬よ、お前も疲れ果てたか、今まで私を助けて呉れたお前の恩は忘れない。なので、万一水に遇うことがあれば私より先にお前に遣ろうと思っていたが、叶わぬ願いとなって、お前も私と共に此処で果敢なく死ぬことになった。能く此処まで私を乗せて来てくれた、満足である、私の大望に身を捧げて呉れたお前の恩を玄奘は忘れない、この後の世で会うことが有れば必ず厚く報いよう、玄奘などを主人にしたのを不運と諦めてこの地で死んでくれ玉え、不幸なものよ」と、しばらく撫で擦りしていたが、こうしている時ではないと玄奘は、砂漠の中で端座して観音菩薩を心に念じ、「玄奘のこの旅は、財利を求めたものではありません、名誉を求めたものでもありません、唯この上もない正法を求めて来たものであります、仰ぎ願わくは一切衆生の苦を救うことを務めとされる慈悲無限の観音菩薩、玄奘の微志を憐れんで助け玉いて心願成就を成させ玉え」と、繰り返し繰り返し真心を尽して祈りを告げたが、すると第五日の夜の真夜中、何方(どちら)からともなく涼しい風が吹いて来る、その風は今まで吹いていたような乾き切ったものではなく、肌に触れるその快さはまるで、大暑の折に清冷な浄水の中に入って満身の汗を流して忽ち暑さを忘れたようで、馬も少し元気になり玄奘もまた眩(くら)んでいた眼がはっきりしたが、飽くまで疲れ切った末の快(こころよ)さに、眠るとも無くそのまま眠ってしまう。(「その五」につづく)

注解
・校尉:将校、ここでは烽火台(要塞)の指揮官。
・恒河:ガンジス河
・鷲嶺:釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所と伝わる古代インドのマガダ国の王舎城の東北にあった山。別名、霊鷲山、耆闍崛山とも云われる。


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