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幸田露伴の小説「運命4・道衍」

運命4

 ここまで史書にあたって戦いの経過を述べて来が、記すこともまた飽きた。燕王は挙兵して四年、ついにその志を成しとげた。天意か、人望か、運命か、勢いか、はたまた理の当然であるか、鄒公(すうこう)等十八人が殿前において李景隆を打って瀕死の目に遭わせたが、これもまた無駄なことである。建文帝は金川門が破られたことを知ると天を仰いで長歎し、あわてふためいて自殺されようとする。「明史」の恭閔恵皇帝紀(きょうびんけいこうていき)に記す。「宮中に火が起こり、帝の終わるところを知らず」と。皇后の馬(ば)氏は火中に身を投げて死なれる。燕王の輝く決断力と才知に、諸王及び文武の臣は燕王が帝位に即(つ)くことを願う。燕王は辞退すること再三、諸王群臣は頓首して固く願う。王はついに奉天殿に昇って皇帝の位に即く。こえ以前、建文帝の時に道士が道で歌って云う、

燕(えん)を遂(お)う莫(なか)れ、
燕を遂う莫れ、
燕を遂えば 日々に高く飛び、
高く飛びて 帝畿(ていき)に上(のぼ)らん。

 ここに至って人はその言(げん)の答えを知る。燕王は今や永楽帝である。宮人や内侍を詰問して建文帝の所在を問われる。皆は馬皇后の死なれたところを指さして答える。そこで屍(しかばね)を灰燼(かいじん)の中から取り出し、これを哭(こく)し、翰林侍読(かんりんじどく)の王景を呼び出し、「葬礼はどうすべきか」と問われる。景が答えて、「天子の礼を以って仕給うべきでしょう」と云う。これに従う。

 建文帝の父君の興宗孝康皇帝(こうそうこうこうこうてい)の廟号を取り消して、元(もと)の諡(おくりな)の懿文太子とし、建文帝の弟の呉王の允熥(いんとう)を降伏させて広沢王(こうたくおう)にし、衛王の允熞(いんけん)を懐恩王(かいおんおう)にし、除王の允熙(いんき)を敷恵王(ふけいおう)にし、その後庶人にしたが、諸王のその後はその死も含め不明である。建文帝の子は中都広安宮(こうあんぐう)に幽閉されたが、これもその後は不明である。

 魏国公の徐輝祖は投獄されたが屈服せず、諸武臣が皆服従しても輝祖は終始永楽帝を戴こうとしない。帝は大いに怒ったが、輝祖が元勲の子で、また帝の外戚でもあるので、処刑も出来ずにただ爵位を没収して私邸に幽閉しただけである。輝祖は開国の大功臣である中山王徐達の子であって、雄々しくそして誠実、父の達と同様の風骨を持つ、斉眉山の戦いでは大いに燕兵を破り、前後数戦、常に良将の名を辱めなかった。その姉は即ち燕王の妃(ひ)で、その弟の増寿(ぞうじゅ)は都に居て常に燕のために都(みやこ)の状況を伝えたが、輝祖独りは毅然として正義を貫く。端厳の性格、敬虔の行為、良将と云うだけでなく有徳の君子と云うべき人である。

 兵部尚書の鉄鉉は捕らえられて都に入る。朝廷の中では帝に背を向けて正言して屈せず、遂に凌遅刑(りょうちけい)にされる。死に臨んでも罵るので大鍋の中で油煮にされる。参軍断事の高巍はかつて云う、「忠に死に孝に死ぬのが臣の願いである」と。城が破れると宿舎で縊死する。礼部尚書の陳迪・刑部尚書の暴昭・礼部侍郎の黄観・蘇州知府の姚善・翰林修譚の王叔英・翰林の王具・浙江按察使の王良・兵部郎中の譚翼・御史の鳳韶・谷府長史の劉璟・その他数十人、或いは屈することなく殺され、或いは自死して正義を通す。齊泰・黄子澄・皆捕らえられ、屈せずして死ぬ。右副都御史(ゆうふくとぎょし)の練子寧は縛られて京城に着くや不遜な言葉を吐く、帝は大いに怒ってその舌を斬らせ、云う、「吾は周公が成王を扶(たす)けた故事に倣(なら)おうとするだけである」と。子寧は手でもって口の中の舌血(ぜっけつ)を探り、その血で以って地に成王安在(どこに成王がいる)の四字を大書する。帝は益々怒ってこれを磔(はりつけ)にして殺す。子寧の一族で斬首された者は百五十一人に及ぶ。左僉都御史(させんとぎょし)の景清(けいせい)は偽って降伏し、常に懐中に刀を忍ばせ帝に報復しようとする。八月十五日、清は緋色の衣を着て朝見(ちょうけん)の儀に出席する。これより以前、天文台は奏上する。「文曲星(ぶんきょくせい)が帝座(ていざ)を犯すこと急で色は赤い」と。ここに於いて帝は清(せい)一人が緋色の衣を着ているのを見てこれを疑う。朝見の儀が終わる。清は帝の車に飛び掛かり襲おうとする。帝は左右の者にこれを取り押さえさせ、剣を取り上げさせる。清は志(こころざし)の成らないことを悟り、棒立ちになって大いに罵る。皆はその歯を抉(えぐ)る。抉られても猶罵り、直ちに口の中の血を帝の衣に噴きつける。そこで帝は命じて皮を剥(は)ぎ天安門に晒(さら)し、骨肉を切り刻ませる。清は帝の夢に出て剣をとって帝を追い回す。帝は目覚めた後、清の一族を殺し尽し、郷里から除籍する。そのため村落は廃墟になった。

 戸部侍郎の卓敬が捕えられた。帝は云う、「お前は今まで諸王に助言してきたが、これからは朕に仕えないか」と。敬は云う、「先帝がもし敬の言葉に順っておられたら、殿下がここに居ることは無かったでしょう」と。帝は怒ってこれを殺そうと思う、がしかし、その才能を憐れんで獄に入れて説得しようとして、管仲と魏徴(ぎちょう)の故事を話す。帝の意(こころ)は敬を用いたいのである。敬はただ泣くばかりで承知しない。帝は猶も殺すに忍びない。道衍は云う、「虎を養っては後顧に憂いを残します」と。帝はついに敬を殺すことを決意する。敬は死に臨んで従容として歎いて云う、「災難が親族に及ぼうというのに何もできない。敬が死んでもこの罪は猶残る」と。死を前に自若としては顔色を変えることなく、死んでは何日経っても顔は今なお生きているかのようであった。親族を殺しその家を破壊したが、家にはただ図書数巻があるだけであった。卓敬と道衍は以前から敵対していたとはいえ、帝に方孝孺を殺さないように勧めた道衍が、帝に敬を殺すよう勧める。敬に実用の才があって、ただの文人では無いことが分かる。建文の初め、燕を警戒して、諸臣はそれぞれ意見を奏上したが、中でも敬の意見が最も切実であった。敬の意見が用いられていれば、思うに燕王は志を遂げる事が出来なかったであろう。万歴帝の世になって、御史の屠叔方(としゅくほう)が奏上して敬の墓をつくり祠(ほこら)を建てる。敬の著わす「卓氏遺書」五十巻を私は未だ目にしていないが、管仲と魏徴の故事によって説得されようとした人である。その書は必ず見るべきものが有るだろう。

 卓敬は容認できないが、方孝孺を殺してはいけないと云った道衍はどのような人か。取るに足りない一介の山僧の身で、燕王に勧めて簒奪を敢えてさせて、策を立て、機を決し、全て自ら事に当たり、「臣は天命を知る、何で民意を問おうや」と云うような豪気な心を以て天下を騒がせ、億兆の鳥を飛ばし獸を奔(はし)らせて気にしない。事が成った後は、少師と呼ばれて実名が呼ばれないので、還俗(げんぞく)を命じられたが従わず、邸宅と宮人を賜ったが辞退して受けず、冠帯(かんたい)して入朝をするが、退朝すれば師衣に着替え、香を焚き茶を味う日々、淡然として一生を終え、栄国公を贈られ、国葬を賜り、天子自ら道衍を偲ぶ碑文を作られた。これもまた一種特異の人と云える。魔王のようで、策士のようで、詩人のようで、実に袁珙云うところのいわゆる異僧である。その詠むところの雑詩の一ツに云う、

志士は 苦節を守る、
達人は 玄言に滞(とどこお)らんや。
苦節は 貞(かた)くすべからず、
玄言 豈(あに)それ然(しか)らんや。
出ると処(お)ると もとより 定まり有り、
語るも黙するも 縁(よし)無きにあらず。
伯夷(はくい) 量 何ぞ隘(せま)きや、
宣尼(せんじ) 智 何ぞ円(まどか)なる。
ゆえに 古(いにしえ)の君子、
命(めい)に安ずるを 乃(すなわ)ち賢と為す。

 苦節は貞(かた)くすべからずの一句は、易の爻辞(こうじ)の節の上六(じょうろく)に、「苦節貞くすれば凶なり」とあるのに基づくとは云え、口振りはおのずからコレ道衍の言葉である。まして易の貞凶の貞は、節操が堅く正しいと云う貞では無くて、占って神意を貞(き)くの貞だとする説が有るではないか、伯夷の量の何ぞ隘きやの一句は、古賢の言(げん)に依拠(いきょ)するとはいえども、聖者に対して無遠慮も甚だしい。また、擬古の詩の一ツに云う、

良辰(りょうしん) 遇い難きを念(おも)いて、
筵(えん)を開き 綺戸(きこ)に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ膴(あじわい)ある。
素絃(そげん) 清商(きよきしらべ)を発(おこ)し、
余響 樽俎(そんそ)を繞(めぐ)る。
緩舞(かんぶ) 呉姫(ごき)出で、
軽謳(けいおう) 越女(えつじょ)来たる。
但(ただ)欲(ねが)う 客の拚酔(へんすい)せんことを、
觥籌(さかづきのかず) 何ぞ肯(あえ)て数えむ。
流年 猋馳(はやくはしる)を歎く、
力有るも 誰か得て阻(とど)めむ。
人生 須(すべか)らく歓楽すべし、
長(とこしえ)に辛苦せしむる勿れ。

 擬古の詩、むろん直ちに抒情の詩とすることはできないが、これは墨染の衣を着て香を焚く仏門の人の詩では無い。その北固山(ほくこざん)を通って賦した懐古の詩は現存する詩集にはないが、僧の宗泐(そうろく)が一読して、これは仏徒の語では無いと言ったと云う。北固山は宋の韓世忠が兵を伏せて、大いに金の兀求(こつじゅつ)を破った所である。その詩また想うべきものがある。劉文貞公の墓を詠んだ詩は素直に自己の思いをのべる。文貞は即ち秉忠であって、袁珙が云うように燕に於いての道衍は、元に於ける秉忠のようなものであって、初め僧であった者が世に出て成功するところはよく似ている。思うに道衍と秉忠の関係は、岳飛と関羽や張飛との関係に似ている。諸葛孔明が管仲や楽毅を手本としたように、思慕して模倣したところがあるようである。詩に云う、

良驥(りょうき) 色 群(ぐん)に同じく、
至人 迹(あと) 俗に混ず。
知己 苟(いやしく)も遇わざれば、
終世 怨み讟(うら)まず。
偉なる哉(かな) 蔵春公や、
箪瓢(たんぴょう) 巌谷(がんこく)に楽しむ。
一朝 風雲 会す、
君臣 おのずから心腹なり。
大業 計(はかりごと) 已(すで)に成りて、
勲名 簡牘(かんとく)に照る。
身退いて 即ち長往し、
川流れて 去って復(かえ)ること無し。
住城 百年の後、
鬱々たり 盧溝(のこう)の北。
松楸(まつひさぎ) 烟靄(えんあい) 青く、
翁仲(いしのまもりびと) 蘼蕪(かおりぐさ) 緑なり。
強梁(あばれもの)も 敢て犯(おか)さず、
何人(なんびと)か あえて樵牧(きこりうまかい)せん。
王侯の 墓累々たるも、
廃(あれは)てること 草宿(わずかのま)をも待たず。
惟(ただ)公 民の望みに在り、
天地と 傾覆を同じくする。
この人 作(おこ)すべからず、
再拝して 還(また)一哭す。

 蔵春は秉忠の号であり盧溝は燕の城南に在る。この詩、秉忠に傾倒すること甚だ明らかに、その高風・大業を挙げて、そして再拝して一哭するに至る。その性情と行為はよく似ている。徘徊して感慨すること誠に止みがたいものが有ったのであろう。また別に「春日(しゅんじつ)に劉太保(りゅうたいほ・秉忠)の墓に謁(えっ)する」という七律があって、まことに思慕の切実なことを証明すると云えよう。東遊しようとして故郷の諸友に別れる長詩に、

我生れて 四方に志あり、
楽しまず 郷井(きょうせい)の中(うち)を。
茫乎(ぼうこ)たる 雨中の内、
飄転して 秋蓬(しゅうほう)の如し。
孰(たれ)か云う 挟(さしはさ)む所無しと、
耿々(こうこう)たるもの 吾胸に存す。
魚の濼(いけ)に止まるを為すに忍びんや、
禽(とり)の籠に因(とら)われるを作(な)すを肯(がん)ぜんや。
三たび登ると 九たび到ると、
古徳と興(とも)に同じゅうせんと欲す。
去年は 淮楚(かいそ)に客たる、
今は往(ゆ)かんとす 浙水(せっすい)の東。
身を竦(そばた)てて 雲の衢(ちまた)に入る、
一(ひとつの)錫(つえ) 游龍(うたげのりゅう)の如し。
笠は衝(つ)く 霏々(ひひ)の霧、
衣は払う 颼々(そうそう)の風。

の句がある。身を竦てての句、颯爽として悦ばしい。その末に、

江天 正に秋清(すみ)て、
山水 また容(すがた)を改む。
沙鳥(はまじのとり)は 烟(けむり)の際(きわ)に白く、
嶼葉(しまのこのは)は 霜の前に紅(くれない)なり。

と云うのは常套の語ではあるが、また愛すべきものが有る。古徳と同じゅうせんと欲するは、これは仮りのことであり、淮楚や浙東に往来したのも、修行の為か遊覧の為か分からない。しかしながら詩情の多い人であることは疑えない。詩に於いては陶淵明を推し、笠沢(りゅうたく)の舟中に陶詩を読むと云う詩があり、詩中で陶淵明を学ぶ者を評して、

応物は 趣(おもむき) 頗(すこぶ)る合し、
子瞻(しせん)は 才 当るに足る。

と、韋応物と蘇東坡の二氏を挙げて、その他の模倣者を、

里婦(さとのおんな) 西(せい・西施)が顰(ひそみ)に倣う、
笑うべし 醜さ愈々張る。

と冷笑し、また職務の合間に、王維・孟浩然・韋応物・柳子厚の詩を読んで、四氏を称える詩を作ったことは、詩に於いても好みが有ったことを示している。当時の詩人では高啓を重んじ、親しく交際していたことも、「高季迪(こうきてき)に答え奉る」、「高編脩(こうへんしゅう)に寄す」、「高啓の子を生めるを賀す」、「高啓を鍾山寓舎に訪い、詩を貽(おく)らるるを辱(かたじけなく)する」「雪夜(せつや)高啓の詩を読む」等の詩を見ても知ることが出来る。この老人の詩眼に暗く無いことが分かる。「逃虚子集」十巻、「続集」一巻、詩は精妙と云うのではないが、時に逸気があり、今その集で交友に就いて調べると、袁珙と張天師は最も親しい仲であったようで、贈答の詩が甚だ多い。珙と道衍は古くからの知己である。道衍はまた嘗(かつ)て道士の席応真(せきおうしん)から陰陽術数(いんようじゅっすう)の学を受けた。因って道家の主旨を知り仙術に精通する。「詩集」巻七に、「席道士を挽(とむら)う」とあるのは多分、応真か応真の家族を悼(いた)んだものであろう。張天師は道家の棟梁(とうりょう)である。道衍が張を重んじたのも不思議ではない。古くからの友人では最も王達善と親しむ。それ故にその「王助教達善に寄せる」の長詩の前半に於いて、自己の感慨と行動を述べて隠すところが無い。道衍の自伝として見るべきである。詩に云う、

乾坤 果たして何物ぞ、
開闔(かいこう) 古(いにしえ)より有り。
世を挙(こぞ)って 孰(たれ)か客に非(あら)ざらん、
離会 豈(あに)偶(たまたま)なりと云わんや。
アア予(われ) 蓬蒿(ほうこう)の人、
鄙猥(ひわい) 林藪(りんそう)に匿(かく)る。
自ら慚(は)ず 駑蹇(どけん)の姿、
寧(なん)ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山 窈(ふか)くして而して深し、
性を養いて 老朽を甘んず。
且つ 木石と共に居りて、
氷檗(ひょうばく)と 志 堅く守りぬ。
人は云う 鳳(ほう) 枳(き)に栖(す)むと、
豈同じからんや 魚の𦊑(やな)に在るに。
藜藿(れいかく) 我が腸を充たし、
衣敗れて 両肘(りょうひじ)露(あらわ)る。
夔龍(きりゅう) 高位に在り、
誰か来たりて 可否を問わん。
盤旋(ばんせん)す 草莽(そうもう)の間に、
樵牧(しょうぼく) 日に相(あい)叩(たた)く。
嘯詠(しょうえい) 寒山に擬し、
惟(ただ) 道を以て自負す。
忍びざりき 強いて塗抹して、
乞い媚(こ)びて 里婦(さとのおんな)に效(なら)うに。
山霊 蔵(かく)れることを容(ゆる)さず、
辟藶(はたたがみ) 岡阜(おかこおか)を破りぬ。
門を出でて 天日を睹(み)る、
行也(こうや) 焉(いずく)んぞ 肯(あえ)て苟(いやしく)もせん。
一挙して 即ち北に上(のぼ)れば、
親藩 待つこと惟(これ)久しかりしき。
天地 忽ち大変して、
神龍 氷の湫(ふち)より起こる。
万方 共に忻(よろこ)び躍りて、
卒土(そつど) 元后(げんこう)を戴く。
吾を召して 南京に来らしめ、
爵賞 加恩 厚し。
常時 天眷(てんけん)を荷(にな)う、
愛に因って 醜きを知らず。(下略)

 嘯詠寒山に擬(ぎ)すの句は、この道衍の行為からすると嬌飾(きょうしょく)の言葉のように感じるが、モシ知己に遇わなければ、たやすく人に頭を下げない剛直なこの人のことである、或いは老朽(ろうきゅう)を呉山に甘んじて、一生を俗世を離れた禅僧として過ごしたかも知れない。一概に虚高(きょこう)の言葉だと断定してはいけない。ただ道衍の豪雄な性格から考えて、詩や歌を嘯詠して送る日々、或いは獅子が繡毬(てまり)を玩(もてあそ)んで日を潰すような、そのようにして一生を終わることも有ったであろうが、寒山(かんざん)のように一生を俗界から離れて逍遥して、その身を忘れることが出来たものかどうかを、疑うのである。夔龍(きりゅう)高位に在りは建文帝を云う。山霊蔵(かく)れることを容(ゆる)さず以下数句は、燕王に召し出されたことを云う。神龍氷湫(ひょうしゅう)より起こるの句は燕王が決起したことを云う。云い得て佳である。愛に因って醜きを知らずの句は、知己の恩に感じて吾が身を世のために投げ出すことを云う、また善く高言(こうげん)すると云える。

 道衍の一生を考えると、その燕を扶(たす)けて簒奪を成させた理由は、名利のためでは無いようである。名利で無ければ何のために民人に紅血を流させてまで、燕王に白帽を戴かせようとしたのか。道衍と燕王は大恩や親交があったわけでは無い。実に理解できない事である。道衍は自分の偉功によって仏道のためを図ったと云うのか、仏道は明では圧迫されていなかった。燕王に謀叛の思いが無いことも無いとは云え、道衍が火を煽るようなことをしなければ、燕王が挙兵することも無かったであろう。道衍はそもそも何の思惑(おもわく)が有って燕王に決起させたのか。王が挙兵した時、道衍は年すでに六十五、呂尚(ろしょう)や范増(はんぞう)が老いた後に立ったと云っても、頭を丸め墨染の衣を着た人が、諸行無常の教えを奉じて、不穏な国情に際して、天に逆らい非道にも謀叛の兵を起こさせる。アア、また理解できない事である。モシ強いて道衍の為に説けば、ただコレ道衍が天から享(う)けた生まれつきの気質と自ら誇る才能とが、乱れ拡がり絡み合い高まって、屈すること無く、撓(たわ)むこと無く、消えること無く、抑えられないものが、燕王に遇うことでバリバリと破裂し、大きな音を立てて暴発したと云うべきか、否か。私が道衍の「逃虚子集」を読むところでは、道衍が英雄豪傑の事跡に感慨するもの多く、仏灯梵鐘の間に生じる情のものの少ないことを思わずにはいられない。

 道衍の人として特異なことは、実に唯一人の僧としてだけで見るべきで無く、文を好み、道のためにすると云うのも、これまた偽りとは云えない。これゆえに「太祖実録」を改訂するに際しては道衍がその監修を行い、支那(中国)始まって以来の大編纂である「永楽大典」が成ったのも、実に道衍が解縉(かいしん)等と共にこれを作したので有り、これは皆文を好む余技から出たもので、「道余禄」を著わし、「浄土簡要録」を著わし、「諸上善人録」を著わしたのは、これも皆道のためにしたことである。「明史」に記す、「道衍は晩年に「道余禄」を著わして頗(すこぶ)る先儒(せんじゅ)を謗(そし)る。識者はこれを蔑(さげす)む。道衍は故郷の長州(ちょうしゅう)に姉を訪ねたが、姉は道衍を入れない。次に友の王(おう)賓(ひん)を訪ねたが賓もまた会わずに独り云う、和尚誤れり、和尚誤れりと。再び姉を訪れる、姉これを罵る、道衍呆然とする」と。道衍の姉は儒教を奉じて仏教を否定する者か、何と一般婦人の見識と異なることか。王賓は「明史」に伝は無いが、推測するに道衍が詩を取り交わしていたところの王達善(おうたつぜん)のことではないか。声に出して独り云うとは蔑(さげす)むことも甚だしい。今「道余禄」を読むと、姉と友が道衍を冷淡にあしらったことも、過ぎていると云うべきである。道衍は自序で云う、「余が以前僧であった時、元末期の兵乱に遇う、年三十に近くして愚庵の及和尚(きゅうおしょう)に径山(けいざん)で禅学を習う、余暇あれば内外の典籍を開いて才識を養う、因って河南の二程先生の遺書と晦庵(かいあん)朱先生の語録を観る、(中略)。三先生は既に儒学の宗主であり、後学の師範である。仏老を排斥すると云えども、述べるところは理に拠って公平無私、即ち人はこれに心服する。しかし、三先生は仏書を深く学んでいないので仏教の奥深いところを知らず、ひたすら私意に拠って曲解の辞(ことば)を出し、貶(おとし)めること甚だしい。世の人の心もまた多く平穏ではいられない、まして仏教を奉じる者に於いてや」と。(以下略)。「道余禄」は「程氏遺書」の中の仏道を論じるもの二十八條と「朱子語録」の中の同じく二十一條を指して、極めて間違っているとして、條を追って論理的に一々これを解説したものである。稿が成ってから手文庫に収蔵すること数年、永楽十年十一月に自序を付けて公刊する。今これを読むと、大抵は禅徒が常に云うような事で別にこれと云うものは無い。思うに二程子や朱子が仏教を批判したのも深い意見があった訳では無い、フと出た言(げん)や偶々(たまたま)発した語が多い。また、広く仏典を読まなかった事も、仕方ないところである。それゆえ、仏を奉じる者が三先生を批判するのは簡単なことであり、大胆不敵に目を怒らせ手を武器にして気を吐くことも無い。道衍は険しい矛先を幾百年前の古書に向けて縦横に説く、甚だこれは安直である、観る価値も無い理由である。であるのに、道衍の筆舌は鋭利である。程明道(ていめいどう)の言(げん)を罵って、「どうして君子の言葉と云えよう」と云い、「明道の物事に対する偏った意見は、路地裏の見聞狭い人の云うようなことで、誠に笑うべきである」と云い、「明道は何で自らこのように苦しむのか」と云い、程伊川(ていいせん)の言を批評しては、「これはこれは、伊川自らこの説を作って禅学者を批判する、伊川の良心は何処に在るのか」と云い、「管を用いて天を窺うようなことだと、孔子が自ら云っている」と云い、「程先生は自らを屈強と自認している。聖人の道を伝える者がこのようで有ってはならない。」と云い、朱子の言を非難しては、「朱子の寝言」と云い、「ただ私意を逞しくして、そして仏を謗(そし)る」と云い、「朱子もまた怪しい」と云って、「朱子がこのようなことに心を用いるのであれば、市中の者が大売出しをする行為と何等変わりが無い」と云い、世の人が尊崇する先賢や大儒等を愚弄嘲笑すること甚だし過ぎて、口振りもまた憎々しい。思うにこれが姉が容(い)れず友が会わなかった原因ではなかろうか。道衍の言を考えると、大概が禅宗に依り、楞伽(りょうが)・楞厳(りょうごん)・円覚・法華・華厳等の経をに拠って、程子や朱子の排仏の説が、非理であり無実であると論じたに過ぎない。しかしながら、程子や朱子の学が当時の士君子の信奉するところであった時に抗争反撃の弁を逞しくするとは。「道余禄」を公(おおやけ)にした時、道衍は既に七十八才、道のためにすると云え、これまた争いを好むと云える。これもまた道衍の奔々蕩々(ほんほんとうとう)の気性がさせたものか、非(あら)ずか。

 道衍の卓敬に対する仕打ちは、道衍の詩句を借りて之を評するならば、「道衍、量、何ぞ隘(せま)きや」と云わなくてはならない。それに反し、方孝嬬に対しては大いに異なる。燕王にとって方孝嬬は許せないものがある。燕王は決起するや「朝廷の奸臣を排除する」と云って、それを名分にしたが、その目指す「事を起こして親族を離反させ、天下を誤らせる者」とは、齊・黄・練・方の四人である。齊は齊泰である、黄は黄子澄である、練は練子寧である、そして方は方孝孺である。燕王は勝利を収めて四人を捕らえて思い通りにしようとする。道衍は王の腹心である。何でこれを知らないことがあろう。であるのに、燕王が北平を出発するに当り、道衍はこれを郊外に送って跪(ひざまず)いて密かに申し上げる。「臣は、お願いしたいことが御座います」と。王は、「何か」と問う。道衍云う、「南方には方孝孺が居ります。学問と品行の有ることで知られて居ります。王の旗が都にはためく日において、彼が降伏することは無いでしょうが、お情けを以てこれを殺すことの無いように、これを殺せば即ち天下の読書の種子が絶えて仕舞いましょう」と。燕王はこれを承知する。道衍は卓敬に対しては私情に憎むものがあり、方孝孺に対しては私情に愛好するものがあったのか。なぜ二者に対して薄厚の差があるのか。孝孺は宋濂門下の巨儒(きょじゅ)である。道衍と宋濂とは推測するに文字の交わりがあった。道衍は若い時、学を好み詩を巧みにして宋濂に認められている。道衍は孝孺が宋濂の愛重する弟子であることを深く知っていて、庇護したのであろうか。或いはまた孝孺の文章学術は、当時の人々の仰慕(ぎょうぼ)するところであるので、これを殺すことは燕王の威徳を損ない、天下の非難を招く因(もと)になると思ったのであろうか、はたまた、真に天下に読書の種子の無くなるのを懼(おそ)れたのであろうか、それともまた、孝孺の厳しく励む日頃の操行と燕王の剛邁の気象を考え、この二者が遇えば氷塊と鉄塊のぶつかり合い、鷲王と龍王との闘いのような凄惨な光景の生じることを予想して、予め予防を図ったものか、今これを知ることは出来ない。(⑤につづく)


注解

・内侍:宮中で天子の身の回りの用をする宦官。

・哭:泣き悲しむ礼。

・翰林侍読:前出。

・兵部尚書:前出。

・参軍断事:軍の裁判官?。

・礼部尚書:儀礼を掌る礼部の大臣。礼部大臣。

・刑部尚書:前出。

・礼部侍郎:礼部の次官。礼部次官。

・蘇州知府:蘇州の府知事。蘇州府知事。

・浙江按察使:浙江省の按察司長官。浙江省按察司長官。

・兵部郎中:兵部の地方担当官。兵部地方担当官。

・谷府長史:谷府長史司の長官。谷府長史司長官。

・右副都御史:地方行政を監察する都察院の副次官。都察院副次官。

・左僉都御史:都察院の事務長。都察院事務長。

・朝見の儀:臣下が天子に拝謁する儀式。

・文曲星:北斗七星の四番目の星

・戸部侍郎:前出。

・管仲と魏徴の故事:斉の乱において管仲は前帝の二男を奉じたが長男が勝って即位し桓公となると桓公に仕えた。また、魏徴は最初唐の太宗李世民の兄の李建成に仕えて、弟の秦王李世民の排除するようにと進言しが、建成が敗れて世民が帝位につくと、太宗李世民に仕えた。

・万歴帝:明朝の第十四代皇帝。

・御史:前出。

・伯夷:伯夷は古代中国・殷末の孤竹国王の長子。国王が遺言で末弟の叔斉に位を譲るとしたので国を逃れて、兄をさしおいて王には成れないとする叔斉と共に、周の文王を頼りに周に向かう。周に着くとすでに文王は亡くなっていて、子の武王が殷の紂王を滅ぼそうと軍を起こし殷に向かう途中だった。二人は父上が死んで間もないのに戦をするのは孝道に反するとして、周の国を離れ首陽山に隠棲した。(「史記」伯夷列伝参照)

・宣尼:孔子のこと。

・岳飛と関羽・張飛の関係:中国・南宋の将軍岳飛は、蜀の将軍の関羽と張飛のように成ることを目標にしていた。

・諸葛孔明が管仲や楽毅を手本とした:蜀の丞相諸葛孔明は斉の管仲や中国戦国時代の燕の武将の楽毅を手本としていた。

・陶淵明:中国・南北朝時代詩人。

・韋応物:中国・唐の詩人。

・蘇東坡:中国・北宋の詩人。(前出)

・王維:中国・唐の詩人。

・孟浩然:中国・唐の詩人。

・柳子厚:中国・唐の詩人。

・高啓:中国・明の詩人。

・張天師:中国・後漢末の五斗米道の創始者張陵の子孫に対する尊称。ここでは。

・呂尚:。中国・周の軍師大公望、武王に仕え殷を亡ぼす。斉の始祖。

・范増:中国・秦末期の楚の参謀。

・二程先生:中国・北宋の儒学者、程顥と程頤の兄弟をさす。

・晦庵先生:中国・南宋の儒学者朱子のこと、朱子学の創始者。

・宋濂:前出。


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