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幸田露伴の伝記「真西遊記・その七」

その七

 引き止めるのも熱心だが、送るにもまた心厚い高昌王の保護を得て、玄奘は大いに悦び勇んで次第次第に西へ進んで、無半城や篤進城などと云うのを過ぎて阿耆尼(アギニ)国に入り、銀山を越え阿耆尼の王都に近づいたが、この国は以前高昌国に攻め込まれた恨みがあるので、国王を始め大臣等も出迎えはしたが馬を提供したりはしない。玄奘はそこで一宿して平川を渡って数百里行って屈支(クチャ)国に入った。
 屈支王は高昌王からの知らせを受けて、諸臣および木叉毱多(モクシャグブタ)と云う僧等と共に玄奘を出迎え、応対は慇懃であった。毱多と云う僧は二十余年もインドに遊学して、学を成してこの地に帰って来た者だそうで、屈支国第一と云われ尊敬されている僧であるが、玄奘に対して、「この国には倶舎論や毘婆沙論などの諸部もすべて備わっており、遥々インドまで行くには及ばない、此処に留まって学び玉え」と云うので、玄奘が「瑜珈論はありますか」と問うと、「彼の書のような邪見な論を学んではいけない」と事も無げに答える。玄奘はこれまでは毱多(ブグタ)を尊び敬って居たが、この言葉を聞いて毱多の学力のほどを見破って密かに軽蔑し、「瑜珈を邪見な書と云い玉うは、恐ろしい謗法(ほうぼう)の罪を逃れ玉えないところですが、しかしそれは争いません。倶舎論や毘婆沙論は私の本国にも伝わっているので既に理解しております。試みに伺いますが」と、一二箇所を指して毱多に訊いたところ、毱多(グブタ)は玄奘に敵わなくて、「私も耄碌したようです」と云って引き下がった。
 この時期は丁度、空が寒くて凌山(りょうざん)の雪が解けず道が塞がっていて、行くことが出来ないため六十余日も留まっていたが、道が通じたと云うので玄奘が出発しようとすると、王自らが見送った上に人足や駄馬を玉わったので、玄奘は恩を謝し別れて道を急ぎ進んだ。二日目には突厥(とっけつ)の賊に遇ったが無事に通り過ぎ、六百里を過ぎて小さな砂漠を渡って跋禄迦(バールカー)国に入り、それから西北に向かって行くこと三百里で一砂礫地を越えて凌山に着いた。この凌山と云う山は即ち支那とインドの間に蟠(わだかま)る大葱嶺(だいそうれい・パミール高原)の天山山脈の北の隅の山で、山道は険しく恐ろしく、峰は天に聳える万仭の高山で、千古消えない氷雪は積もり積もって険しい層を成して、春にも解けず夏にも融けない。広大な氷雪は密雲に連なって、その風情は物凄いなどと云うも愚かなほど、見渡す限り果てしなく白々として、巨大なその氷塊は砕け落ち、横たわって道を塞ぐ。玄奘一行が次第に山を上って行くと、行けば行くほど険しい道は足を疲らせ、聳え立つ峰は心を驚かす、のみならず怒号する烈風は息を奪い、乱下する飛雪は眼を掠め、人々は皆ただ我を忘れてひたすら道を辿って行く。日本の山のように七里八里の上り下りではないので、雪に寝て氷に宿ること七日を要してやっとのことで山を出たが、その間に凍え死にした者は十に三四、牛馬は十に四五もあった。
 このようにして辛くも凌山を越えて、その水が熱いわけでは無いが僅かに凍らないことで、凌山に対して熱海(ねっかい)と云う名を得ている周囲一千四五百里の大池(大清池・イシッククル湖)に出て、池に沿って西北に五百余里ほど行くと、図らずも彼の突厥の葉護河汗(ヤブグハーン)が狩りをして遊んで居るところに遇った。可汗は身に緑色の模様の入った袍衣を着た弁髪姿で、何れも錦の袍衣を着た弁髪の官人等二百余人を引き従え、その他大勢の士卒に取り囲まれて威儀堂々と野を行っていたが、玄奘を見つけて大いに悦び、「私はこれから二三日で城に帰るので法師は先に城に行って、私の帰りを待ち玉え」と云って、一人の官人に玄奘を護衛させて素葉(スーヤーブ)城へと送らせた。玄奘が城に着いて三日ほど待っていると、果して可汗が帰って来て招くので入って見ると、金花で装飾した眼も眩むような天幕の中に可汗が座し、両側に錦服の諸臣等が居並ぶ様は荘厳である。玄奘が天幕から三十歩余り離れたところに着くと、可汗自ら迎え出て労をねぎらい言葉を尽して慰める。玄奘が高昌国の国使を通して高昌王の親書と進物などを一々献上すると可汗は大いに悦んで、国使をも座らせて懇ろな言葉で労(ねぎら)ったが、そもそも突厥の可汗(ハーン)は雪山(せつざん・ヒマラヤ)以北の六十余国を統治する大勢力を有する者で、玄奘法師の道中の安否も可汗の一言一句でどうともなると高昌王が深く配慮して、可汗には特に礼を厚くし盛大な進物を贈って歓心を得ようとした。そのため可汗の悦んだ様子が言語挙動に如述に現われたので玄奘も大いに安堵して心ひそかに悦んだ。可汗は大いに宴を張り楽を奏でて玄奘を饗応し、説法などを求めて、その後兵卒の中の漢語や諸国語の分かる者を選んで玄奘に従わせ、緋色の模様のある法服一重(ひとかさ)ねと絹五十疋を布施して、群臣等に十里余りを見送らせた。
 玄奘はこれにますます元気を得て、西行することまた五百五十里、呾羅斯(タラス)城と云うところに着く、そこから西北に向って四百里行く間に白水(アクス)城と恭御(コンゴー)城を過ぎて、或いは南に或いは西に千里以上を行く途中、笯赤建(ヌチケン)国、赭時(シャジ)国、窣堵利瑟那(ストリシナ)国を過ぎて、又西北に道を取って大砂漠を越えて五百余里を歩いて颯秣建(サマルカンド)国に着き、又西に行くこと千五百里、屈霜爾迦(クシャーニヤ)国、喝捍(カカン)国、捕喝(ブハラ)国、伐地(バッティ)国、貨利習弥迦(ホリスミカ)国などを通り、西南に向って三百里、屈霜那(ケシュ)国に着く、ここから又西南にゆくこと二百里で山中に入り、険しい道を登って山道を辿ること三百里で名高い鉄門に達したが、門は即ち突厥の関所であって、左右の峰が壁立する間の岩間に在って鉄鈴が門扉に掛かっている。まことに一夫(いっぷ)道を塞(ふさ)げば万夫(ばんぷ)も進むことが困難な天然の関門で、右も左も峙(そばだ)つ岩は雲に入るようで、糸よりも尚細い道が僅かに通じているだけのここを鉄門と呼ぶのは、その左右の岩が黒ずんでいて鉄を含むからだと云う。
 玄奘はここを通り過ぎて都貨羅(トカラ)国に着き、又それから活国(かっこく)に行ったがこの国の王は葉護可汗の長男の咀度(そど)と云う者で高昌王の妹婿なので、高昌王の書状を見て、「あいにく今は病に罹っているが、病が癒えたら私自身が法師を婆羅門(バラモン)の国(インド)までお送りしましょう」と大層頼母しく云われたと云う。
 玄奘はこれに力を得て暫く逗留していたが、内乱が起きて王が毒殺され新しい王が立ったので、これ以上留まっても益は無いとまた出立して、提謂(トラブサ)と波利(バリカ)の二城を通り過ぎるが、この間に磔迦(タッカ)国から此の地に来ている般若羯羅(ハンニャカラ)と云う僧から小乗教の精義を学んだ。般若羯羅と云う僧は学識が高くその名はインドでも名高い者であるが、縛喝(バルク)国の聖跡を拝礼しようと此の地に来たのである。玄奘は帰国する般若羯羅と共に掲職(ガチ)国に入り、音に聞こえ問えた大雪山(だいせつざん・ヒンズークシ山脈)にかかったが、梵衍那(バーミヤン)国に至るまでの六百里の間は彼の砂漠越えにも増して、「氷層峩々飛雪千里(峩々たる氷雪の山々、飛雪千里の山道)」と昔の人(宋玉)の云うのも偽りではない大山脈に、行き悩んでは幾度か涙を払い心を励ましたが、遂に無事山を越えて梵衍那(バーミヤン)国に入った。これより迦畢試(カーピシー)国に着いて般若羯羅と別れ、六百里行って濫波(ランバーカ)国と云う所に着いた。この国はインドの北境に在って、この地からはもはや仏国は程遠くなく、その間は峻山や砂漠などの恐れるものも多く無いので、玄奘は悦んで霊跡などを巡拝し、やがて健陀邏(ガンダーラ)国に着いたが、この国もまた無著菩薩や世親菩薩を始めとして法救如意等のインドの諸賢人の出たところで、霊跡も少なく無いのでこれらの一々を巡拝した。
 このようにして烏杖那(ウッジヤーナ)国、咀叉始羅(タクシャシラー)国、僧訶補羅(シンハンブラ)国、烏刺叉(ウラシャー)国を経て迦湿弥羅(カシミール)国に着いたが、国王は玄奘がどのような人でどのような用件で来たのかを知ると、群臣や僧侶を引連れて玄奘の宿にやって来て、連れて来た大象に招き乗せて都城の中の宏壮な寺院に案内し、その翌日は王宮に招き入れて供養するなど、恭敬すること一方でない。当時この国の称(しょう)法師と云う人は年七十を過ぎて気力既に衰えていたが、戒律を保つこと純潔、仏理を究めること深く遠い多聞総持の大学者なので、玄奘は身を低くして心を傾けて学んだところ、称法師もまた玄奘が遥々とやって来たその志を愛して、力を尽くして教えを授けた。午前には倶舎論を講じ、午後からは順正理論を講じ、夜には因明声明論を講義すると、我も我もと習おうとして集まり来る者は数知れない。特に玄奘は故郷を捨てて砂漠や雪嶺を越えて来たことであれば、夜を日についで精を出せば、もとより才能が優れている上に一心に学ぶので、師を驚かすまでに幽玄神秘の仏理を究めた。師は感歎して、「この支那の僧は知力抜群である、思うに衆徒の中で此の僧の右に出る者は無かろう」と称えた。この事が早くも以前から学んでいる僧等の耳に入ると、衆徒の中でも優れた大乗部の学僧の毘戍陀僧訶(ヴィシュッダシムハ)や辰那飯茶(ジナバンドゥ)、薩婆多(さばた)部の学僧の蘇迦密多羅(シュガタミトラ)や婆蘇密多羅(ヴァスミトラ)、僧祗部の学僧の蘇利耶提婆(スールヤデーヴァ)や辰那咀羅多(ジナトラータ)などと云う一人当千の者達が、我が師が外国の者を褒めるのを聞いて心穏やかで無く憤りを発して、講論のついでに玄奘を難詰したことも無いでは無いが、玄奘が打てば響くように問いに応じ、滔々と義を解き理を述べて滞ることが無いので、僧等も遂には恥じて心服し、とても敵わないと称揚した。
 このようにして此の国に留まること二年、経論を学び聖跡を拝し終えて、西南に行くこと七百里して半笯嗟(パルノーツァ)国に着き、また東南に向って四百里行って遏邏闍補羅(ラージャンブラ)国に着き、七百余里を行って磔迦(タッカ)国に着いた。遏邏闍補羅(ラージャンブラ)国を出て磔迦(タッカ)国に向かう途中で盗賊に遇って、衣服を始め旅の荷物を皆奪われて仕舞ったが、玄奘は生命を奪われなかったことを悦ぶだけで、物品を失ったことを一向気にしない。人は皆濁らそうとしても濁らない清い水のようなその心に感じ入った。磔迦(タッカ)国に長寿の外道(げどう・異教徒)が居て、中論や百論に明るく吠陀(ベーダ)などの書にも詳しいので、道のために外道に頭を下げて教えを受け、百論や広百論の理義を究めたが、東に行くこと五百余里で至那僕底(チーナブクティ)国に着き、毘弐多鉢臘婆(ヴィニープラバ)と云う大徳(だいとく・高徳の僧)に会ったので十四ヶ月も留まって対法論や顕宗論や理門論を学んだ。それからまた闍爛達那(ジャーランジャラ)国に四ヶ月留まって旃達羅伐摩(チャンドラバルマ)に従って衆事分毘婆娑(しゅうじぶんびばしゃ)を学び、屈露多(クルータ)国、設多図廬(シャタドゥル)国、波理夜咀羅(バーリーヤトラ)国、秣兎羅(マトゥラ)国、薩他尼湿伐羅(スターネシャバラ)国、禄勒那(スルグナ)国などを通り、禄勒那(スルグナ)国の大徳の闍那毱多(ジャヤグブタ)に就いて経部毘婆沙(きょうぶびばしゃ)を聴聞して、終わる迄の一冬半春を過ごし、秣底補羅(マティプラ)国に着いて半春一夏を密多斯那(ミトラセーナ)と云う者に弁真論を学ぶことに費やし、婆羅吸摩補羅(ブラーフマブラ)国、醯掣怚羅(アヒチャトラ)国、毘羅那拏(ビラシャナ)国、劫比他(カピタカ)国、羯若鞠闍(カーニャクブジャ)国などを一々巡覧して阿踰陀(アヨードヤ)国に着き、阿耶穆佉(アヤムカ)国に行こうとして河を船で下ったが、不思議な災難が起こった。
 その時船には八十余人もの人が乗っていたが、船の行くこと百里余りすると、阿踰迦(アショーカ)の樹が暗く茂る左右の岸から十余艘の賊船が一時に現われて艪拍子を取って向って来る。船中は忽ち騒ぎ立って川へ落ち込む者さえある。賊はさも当然と云わないばかりに悠々と船を連れて岸に向かい、船客の衣服を剥ぎ金銭を奪い取る。この盗賊等は突伽天と云う魔神に予てから仕え、秋になると姿形(すがたかたち)の正しい人を求めては切り殺して、血肉を生贄にして福を祈ることを恒例としてきた者達なので、玄奘の形正しく麗しいのを見て互いに頷きあい、「秋に向って此の法師を得たのはまことに吉祥だ、サアサア殺して祭祠に用いよう」と罵り叫んだ。玄奘は大いに驚き惑って、「何ということを云われる、私の身を祭祠に用いようとは、身を惜しむのでは無いが耆闍屈山(ぎしゃくつざん・霊鷲山)に行って礼拝し、経法を求めようとする私の身を、志も遂げさせないで殺すというのは吉祥でない」と云っても、無慈悲な賊は承知する色は更に無い。同船の者の中には予てから玄奘の名を聞いて尊信している者も居て、「財産を取られては生きている甲斐もない、願わくは法師の代わりに私を用い玉え」などと云う者もあったが、賊がどうして許そう。岸に上って花林の中を清める者もあり、土壇を設ける者もあり、刀を抜いて今や切ろうと二振り三振り試す者もある。玄奘も今や仕方なく賊に向って、「しばらくお待ちください、とても助からない身であれば、私を安らかに終わらせ玉え」と端座合掌した。「思えば口惜しいことかな、多くの辛酸を経て永年の望みがようやく達せられる糸口を得たのに、心無い盗賊等の惨い刃の露と消えて、砂漠の風に悩み雪山の氷に苦しんだのも無駄となり、礼拝の志も求法流通の願いもここに遂げることなく終わるとは、私の福が薄く運が拙いせいだとは云え、この悲しさ口惜しさは忘れられない。仰ぎ願わくは弥陀菩薩、私を覩史多の天宮に引き取り玉いて、私が予ねて懸けた瑜珈師地論(ゆかしちろん)を受けさせ玉え、妙法を聴いて知恵が成就すれば下界に下りて初念のように此の地の人を誓って善に導き進めましょう、特に今私に迫害を加えるこれ等の人は踏むべき道を迷い誤る者で、やがて苦しい報いを受ける真(まこと)に憐れな者なので、マズこれ等を教化して正しい道へ還させて善果を得させます」と、最後に臨んでも尚屈せず弛まず黙祷して寂然と心を静めて居る。
 同船の人々も善い人たちなので、今玄奘が殊勝な願いを求めて遠い外国から来て、空しく賊の手に掛かろうとする様子を見て、声を上げて泣き叫んでいる。と不思議なことに黒風がたちまち飄々吹いて来て、樹木を折り取り砂石を飛ばせば、川波が俄かに立ち騒いで、乗り捨てた賊船は木の葉のように漂って、或いは転覆し或いは砕け散るものもある。この光景に賊は驚いて、もしや罪の無い僧を殺そうとしたためではないかと、悪事を行う者の心は迷い易く、内心急に恐れをなして、「法師は一体何者か」と問う。玄奘が頭を上げて、「私は遥か支那の国から法を求めて来た者である」と、一部始終を隠さずに話す。盗賊共は今ここに急風が空から吹き下ろして来たのは、このような尊い人を刃にかけようとしたせいで神明が怒り玉われたからだと思い、大いに恐れて地に平伏し、「赦し玉え、あえて法師を害そうとは致しません、願わくは我が懺悔を受け給え、今からは心を入れ替えて二度と悪念を起こしません、赦し玉え赦し玉え」と涙を流して謝罪すれば、玄奘はそこで道理を説いて、朝露よりも脆い身で、永い苦痛を心に受ける作悪の業の、愚かで浅ましいことを懇ろに教え示すと、賊は全く悔悟して、人を脅かすために持つ剣の類を河に投げ込み、奪った物を返して、五戒を受けて立ち去った。同船の者達もこの有り様に或いは悦び或いは感じて、各々目的の地を目指して去って行った。この事が口から耳へ、耳から口へ流れ伝わって、聞いて感動しない者は無い。
 サテ玄奘は無事に阿耶穆佉(アヤムカ)国に着き、憍賞弥(カウシャーンビー)国、鞞索迦(ヴィシャカ)国、室等伐悉底(シーラバスティー)国を過ぎて、釈迦仏が降生(こうせい)したところの古跡を迦毘羅伐窣堵(カビラバストゥウ)国で拝し、藍摩(ラーマ)国から拘戸那掲羅(クシナガラ)国に着いて釈迦仏の涅槃に入り玉いしところを拝し、婆羅痆斯(バーラーナシー)国、戦主国、吠舎釐(ヴァイシャリー)国を経て摩掲陀(マガダ)国に着いたが、この辺りは霊跡が極めて多いので一々を巡拝するのに多くの日数を費やした。(「その八」につづく)

注解
・阿耆尼国:今の新疆ウイグル自治区焉耆辺りに在った国。アギニ国とは梵語で火の国の意味、玄奘の頃は人々はインド伝来のお経を読んでいた。
・屈支国:今の新疆ウイグル自治区庫車辺りに在った国。六朝時代に長安で仏典を漢訳した鳩摩羅什の生地でもある。
・熱海と云う大池:大清池、熱(イシック)海(クル)即ち現在のイシククルと云う湖。
・素葉城:今のトクマク付近に在った当時の突厥の拠点。
・赭時国:今のウズベキスタンの首都タシケントに在った国。
・颯秣建国:今のウズベキスタンのサマルカンドに在った国。土地は肥えて田園や樹林が連なって絵のようである。ゾロアスター教を信じている。
・活国:今のアフガニスタンのクンドゥズの地に在った国。
・婆羅門:バラモン教やヒンドゥ教の僧。
・縛喝国:今のアフガニスタン北部バルフ辺りに在った国。玄奘はこの国で一カ月余り滞在して般若羯羅から教えを受けた。
・梵衍那国:今のアフガニスタンのバーミヤン州に在った国。
・宋玉:中国・戦国末期の楚の文人。
・迦畢試国:今のアフガニスタン東部のパルヴァーン州に在った仏教徒の国。ここで般若羯羅と夏安居を共にして、その後別れる。
・濫波国:今の北インドのラムカン地方に在った国。仏教遺跡が多い。
・健陀邏国:今のパキスタンのペシャワール地方に在った国。アレキサンダー大王の遠征以来ギリシャ系文化の中心と成り、これが仏教美術と融け合ってガンダーラ美術を生んだことで有名だが、玄奘が訪れた頃は国が衰え、迦畢試国の属領となっていた。
・迦湿弥羅国:今のインド北部にあるジャンムー・カシミール連邦直轄領のスリナガルに在った国。
・磔迦国:今の?。
・至那僕底国:今のチニヤリに在った国。
・闍爛達那国:今のアムリツァー東南東のジャルランドゥールに在った国。
・禄勒那国:今のヤムナ川上流のスグに在った国。
・秣底補羅国:今のヤムナ河畔のマトゥラに在った国。
・羯若鞠闍国:今のカノージに在った国。カーニヤクブジャとは腰の曲がった女達の町、即ち曲女城の意味。
・阿踰陀国:今のカノージ東南のファテーブル地方に在った国。世親の遺跡がある。
・阿踰迦の樹:アショーカの木、別名無憂樹、仏教の聖木の一ツでインド原産のマメ科の木、春に淡い緑色の星形の花を咲かせる。この木の下で釈迦は生まれたと云う。
・鉢邏耶伽国:今のアッラーハーバードに在った国。
・室羅伐悉底国:釈尊がいた時代(古代インド)のコーサラ国の首都、現在のウッタルプラデーシュ州シュラーヴァスティ県に在った国。祇園精舎があった。
・迦毘羅伐窣堵国:今のチローフコト付近に在った国、迦毘羅城の在った所、釈迦の故郷、誕生の地。
・拘尸那掲羅国:今のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近に在った国、釈尊入滅の地。
・摩掲陀国:今のインドのビハール州パトナーの地に首都の在った国。阿育(アショーカ)王の時代は全インドの政治・文化の中心であったが、その後廃れていたが戒日王が北インドを掌握するとや曲女城に都を置いた。玄奘が訪れたのはこの時期にあたる。



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