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幸田露伴の史伝「平将門⑤(新皇)」

 天慶二年十一月二十一日に常陸を打ち従えて、直ぐその翌年の十一日に出発した。馬は龍のように、人は雲のように、勇意凛凛と襲って来たので下野の国の国司は辟易した。源経基の上奏の後は坂東諸国の守や介は新しい人に換えられたが、こういう時になると新任者は土地に不案内で、前任者は職に無いから、何れにしても不便不利であって、下野の新国司の藤原公雅は抵抗することが出来なくて、印と鍵を差し出して降参してしまった。前国司の大中臣全行も敵対できなかった。国司の館も国府もことごとく略奪されて仕舞い、公雅は涙を流してスゴスゴと東山道を都へ逃れ去った。同月十五日には馬を進めて上野へ出た。介の藤原尚範も印と鍵を奪われて仕舞った。十九日には国庁に入り四門の陣を固めて、将門を始め興世王や藤原玄茂等も堂々と勢揃いした。(玄茂も常陸の者である。思うに玄明の一族か或いは玄茂即ち玄明であろう。)この時これらの事態に感じて精神異常を起こした者か、それとも玄明等の誰がそそのかしたのか知らないが、一人の昌伎(かんなぎ・巫女)が現れ出でて、神がかり状態になって、八幡大菩薩の使者だと口走り、多勢の中で揚言して、「八幡大菩薩は、位(天子の位)を蔭子(おんし・親王の子孫)の将門に授ける、左大臣正二位菅原道真朝臣が之を奉ず」と云った。一軍はたわい無く欣喜雀躍した。興世王や玄明等は将門に勧めた。将門は遂に神旨を戴いた。四陣上下は挙って将門を拝し、歓呼の声は天地を動かした。
 この仕掛けは誰が作ったか知らないが、思うに興世王や玄明等であろう。理屈はどうでも景気の好い面白い花火が揚がれば群衆は喝采するものである。群集心理などと近頃真面目腐って云うが、人は時の勢いに乗ると途方もないことに共鳴するものである。昔はそれを天狗の所為(せい)だと云ったものである。群衆などと云うものは大体イワシやムクドリやカラスやニシンなどが好んで成るもので、群衆になって自族を支えるが、個体であっては余りにも弱い者が取る道である。人間に於いても、立教者は単独で信教者は群衆、勇者は独立し怯者は同行する、創作者は独自で模倣者は群衆、智者は少なく愚者は多であって、群集していると云えば既にそれは弱小・無知・愚な者であることを現わしているようなものである。群集心理は即ち衆愚心理なのであるから、単独行動のできない者共が集団となって、下らないことを信じたり、下らないことを怒ったり悲しんだり喜んだり、下らない行動を敢えてしたりするのも不思議では無い。魚は先頭魚の後に付き、鳥は先発鳥の後へ付くものである。群衆は感の一致から盲従妄動するもので、そこで群集心理を見破って、之を正しく用いるのが良い政治家や軍人で、自分の都合に用いるのが奸雄や扇動家である。八幡大菩薩の御宣託は群衆を動かした。群衆は無茶を歓んだ。将門は新皇と祭り上げられた。通り魔の所為だ。天狗の所為だ。衆愚心理は巨浪を猿島に持ち上げてしまった。将門は毒酒を甘いとして、その二杯目を飲んでしまった。
道真公がここへ陪審として引っ張り出されたのも面白い。道真公の大宰府への左遷とその死とは当時の人心に多大な影響を与えて居たに違いない。現に栄えている藤原氏の反対側に立つ道真公の亡霊の威力を借りたところなどは一寸可笑しい。ただ将門が道真公の逝去した年に生まれたという因縁で持ち出したものでも有るまい。本来託宣と云うことは僧や呪術の徒がやることで、ありがた過ぎて勿体ないことであるが、迷信流行のこの当時では託宣は笑うようなことでは無かったのである。現に将門を滅ぼす祈祷をした比叡山の明達阿闍梨なども、松尾明神の託宣に、「明達は阿部仲丸の生まれかわりである」とあったと云うことが「扶桑略記」に出ているが、これなども随分ヘンテコな御宣託だ。宇佐八幡の御宣託は名高いが、あれは別にして、ソモソモ神がかりや御宣託などは日本に昔からあることであって、当時の多くの人は信じて居たのである。この八幡大菩薩の御宣託は一場の喜劇のようで、その脚色者も想像すれば想像できることはあるが、或いは又、別に脚色者が居たのでは無くて偶然に突発的に起こったことかも知れない。今までの東国には未だ嘗て無かったような、大動揺が火のように起こって、瞬く間に相馬小次郎将門が下総・常陸・上野・下野を席巻したのだから、感じやすい人の心は激動して、発狂状態になってこのような事を口走ったものと思える。でなければ、一時の賞賛を得ようとしてこのような妄言を発したのかも知れない。
 藤原秀郷が将門を訪れた話はこの前後のことであろう。秀郷は下野掾で位は六位に過ぎない。左大臣藤原魚名の子孫で地方に勢力を張っていた人であるが、これも只の人では無い。何の罪を犯したのかは知らないが、延喜十六年八月十二日に流罪にされたとある。同時に罪となった者は同国人で同姓の兼有・高郷・興貞等十人とあるから、何か可成りの事件に関係していたに違いない。「日本記略」にも罪状は出ていないが都まで知れ渡った悪事でもあり、人数も多いから、何れ党を組んで力を合わせて仕た事件であろう。何れにしても前科者だ、一筋縄で行くような男では無い。将門を訪れた話は時代の違う「吾妻鏡」の治承四年九月十九日の文に昔話として出ていて、「藤原秀郷は偽って、配下に着きたい旨を云って将門の陣に入ったところ、将門は喜びの余り櫛けずる髪を終えずにそのまま烏帽子に入れて秀郷と対面する。秀郷はその軽率な振る舞いを見て、討ち取ろうと思う心を抱いて退出し、思いの通りにその首を得た云々。」と云うので、「源平盛衰記」には、「将門と共に朝廷を転覆して日本国を共にしようと、行ってコウ云う」と巻二十二に書き出して、世に伝わる髪の事や飯粒の事を書いている。「源平盛衰記」に書いてある通りならば秀郷は随分怪しからん男で、興世王は事が成らずに死んだが、興世王のような心を抱いていた人だと思われる。斎藤竹堂が論じたように、秀郷の事跡を見ると朝敵を退治して立派であるが、その心中を考えれば悪(にく)むべきところがあるのである。しかし「源平盛衰記」を証拠にしたり、「日本外史」を引用して論じられては秀郷も迷惑であろう。「吾妻鏡」は、「偽りて称す云々」と書き、「大日本史」には「秀郷は表面では之に応じ、その陣に行き面会する」と書かれている。この意味で云えば将門の勢いが広大で独力では持ちこたえられないので、下野掾ではあるがこの際は膝を屈して、当座の難を逃れるために将門の許を訪れたと云うのであるから、咎めることは無い。竹堂の論も無駄ごとである。しかし、「源平盛衰記」の記事が真相を得ているだろうか。「大日本史」の記事の方が真相を得ているだろうか。秀郷の子の千晴は安和年間に橘繁延や僧連茂と廃立を謀る事に連座して隠岐の島に流されたし、秀郷自身も以前に何かの罪を犯しているし、時代の雰囲気を考え合わせて見ると、或いは「源平盛衰記」の記事や、竹堂の論の方が当たっているように思える。しかし確証の無い事を深刻に考えるのも感心しない。藤原秀郷をドチラに賭けようかと考えた博奕打ちにする事も無い。
 将門に追い立てられた官人達は都へ逃げ上る。諸国から櫛の歯を引くように次々と注進がある。都は驚愕と憂慮と対応処置の手配で沸き立った。東国では貞盛等は潜伏し、維幾は二十九日以来鎌輪に幽閉されていた。
 将門は旧恩有る太政大臣忠平へ書状を出した。その書状で全心の鬱憤を思う存分に述べているが、静かに味わって見ると強い言葉の中に柔らか味が有り、穏やかな言葉の中に手強いところがあって中々面白い。

 将門、謹んで申し上げます。閣下の尊い御指導を戴かなくなってから永い年月が移り過ぎました。今も御指導を渇望しておる次第であります。突然の手紙に何事かと想われましょうが、くれぐれも御高察して戴ければ、有難く存じます。
 さて先年は源護等の訴状に依って将門は召喚されました。官符を恐れ畏(かしこ)み慌ただしく都に上り、控えて居りましたところ、将門の事について、既に帝(みかど)の御慈悲を頂いた、よって早く返して遣るとの仰せが有り、そこで自領に帰着し、戦を忘れて、武具を取ること無く安心して暮らしておりました。
 このような間に前下総国介平良兼は、数千の兵を起こし将門を襲い攻め込んで来ました。将門が背走し防ぐ事も出来ない間に、良兼の為に多くの人物が殺損奪掠された事は、具(つぶさ)に下総の解文に書いて官に言上しました。ここに朝廷は諸国に勢力を合せて良兼等を追補するようにとの官符を下されました。しかしながら更に将門等を召喚するとの使いを給わりました。しかしながら得心できないので遂に都へは上らずに、官史の英保純行に具(つぶさ)に言上し、事情をお伝えしましたが、未だお裁きを受けて居りません。鬱々として居りますと今年の夏、同じく平貞盛が将門召喚の官符を奉じて常陸国に帰ってきました。そこで常陸国では頻りに将門に出頭をするよう牒述して来ました。この貞盛は追補を免れて国に居られなくなって都に上った者であります、朝廷は須(すべか)らく捕えてその事を糺(ただ)されるべきであるのに、却って(貞盛を)道理として官符を給われるとは、これは尤も偽り飾られることであります。
 又、右少弁源相職朝臣から閣下の御教書が送られて参りました、その文面によると、武蔵介経基の告状に依って定めし将門を推問する後符があろうとありました。
 詔使の到来を待って居りましたところ、常陸介藤原維幾朝臣の息男為憲は、偏(ひとえ)に権力を借りて人を無実の罪の陥れることを好み行い居ります。と将門の従兵藤原玄明から愁訴がありましたので、将門がその事情を聞くため彼の国に向かいましたところ、為憲は貞盛等と心を合わせ三千余りの精兵を率いて、武器庫から器仗戎具並びに楯等を出して戦いを挑んでまいりました。ここに於いて将門は士卒を励まし意気を起こし、為憲の軍兵を討ち伏せて終いました。国を領するまでの間に、滅亡する者の数の幾らかを知りません。況や存命の領民は悉く将門の為に捕獲されました。
 介の維幾が、息男の為憲を教え導くことなく兵乱に及ばせた事は、謹んでその怠慢を申し述べました。将門は本意にあらずと云えども、一国を討滅してはその罪科は軽くなく、影響は全県に及ぶでしょう、之により朝議を頂く間、しばらく坂東の諸国を領有しております。
 謹んで系譜を考えますれば、将門は既に栢原帝王(桓武天皇)五代の孫であります、たとえ永く半国(東国)を領有すると云えども、どうして運命では無いと云えましょう、昔から武力を振って天下を取る者は、皆史書に見るところであります。将門に天の与えるところは武芸に在ります、同輩等を考えても誰が将門に及びましょうか。御推察戴ければ、甚だ以て幸であります。
 そもそも将門は少年の日に、太政大臣であられる閣下に御奉公してご指導を受け、その後数十年にして今に至りました。閣下の世の中に、思いもよらない此のような事を挙げるとは、嘆かわしい限りで云うに堪えません。将門は傾国の謀(はかりごと)を起こすと云えども、何で旧主を忘れましょうや。閣下には之を察し戴ければ甚だ幸で御座います。一以て万を貫く。将門謹言。
   天慶二年十二月十五
     謹々上 太政大殿少将閣下恩下

 この書状で見ると、将門が申し開きのために京に上った後は、郷里に帰っておとなしくして居た様子は、「戦を忘れて、武具を取ること無く安心して暮らしておりました」と云う語に明らかに現れている。そこを突然に良兼に襲われて酷い目に遇った事は事実だ。そこで、その時に将門が正式に解文を提出してその事を告げたから、朝廷からは良兼を追補するよう官符が下ったのだ。なのに将門は官符を待たずに良兼に復讐戦を仕掛けたのか、或いは良兼が常陸国から正式に解文(申上書)を出して弁解した為に追補の事が取り止めになったのを見て、勘弁できないと常陸へ押し寄せたのであろう。その時良兼が応戦しないで筑波山へ籠ったのは、朝廷に対して自分を正しく敵を不正にみせるためであった。将門が腹立ちまぎれに乱暴して帰ったから、今度は良兼側が解文を奉って将門を訴えた。そこで将門の方へ官符が来て召問されることになったのだ。事情が紛糾して分からないから、官吏の英保純行等三人がその時、東国に下向したのである。将門は弁解した、上京はしなかった。そこへ今度は貞盛が将門の横暴を直訴して頂戴した将門追補の官符を持って帰って来たのである。これで鮮やかに前後の事情が分かる。貞盛は将門追補の官符を持ち帰ったが、将門の方から云えば貞盛は良兼追補の官符の下った時には良兼と同罪であって、同様に官符が廻っていた者であるから、追補を逃れて上京した時点で朝廷が取り押さえて、糾問すべき者であったに関わらず、却ってその者を道理として、将門追補の官符を下さるとは怪しからん嬌飾であると突っぱねているのである。ここまでの将門の云うことには肯定できる事情と道理がある。玄明の件に就いては少し無理がある。信じ難い事情がある。玄明を従兵と云うのが変だ。行方郡や河内郡の食料を奪った者を捕えようとするのを、権力を借りて人を無実の罪の陥れるとは云い難い。為憲と貞盛が心を合わせて兵を動かしたと云うのは事実であろうが、要するに維幾に事情を聞くために将門が常陸国に向かったのは向かっ腹が破裂したのである。書状の終りの方に、思いもよらない此のような事を挙げるとは嘆かわしい限りと自暴の気味があるが、しかし天位をドウコウしようと云う気味は少しも無い。むしろ乱暴はしましたが御同情下さっても宜しいではありませんか、男児として仕方無いじゃアありませんかと云う調子で、将門が我武者羅(ガムシャラ)一方の男で無いことを現わして居て愛すべきである。
 将門はイヤな浮世絵に画かれたような我武者羅一方の男では無い。将門の弟の将平は将門よりまた一段と優しい。将門が新皇に立てられたことを諫めて、「帝王の業(わざ)は知恵や力量で致すものではありません、天が味方しなければ智力で何が出来ましょう」と云ったと云う。至言である。好人である。こう云う弟が居れば日本では駄目だが、国によっては将門も本当の天子になれたかも知れない。弓削道鏡の甥には玄賓僧都があり、清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平が居たのは何と云う面白い天の計らいであろう。どうもドラマに真の歴史は無いが、歴史には却って好いドラマがある。将門の家来の伊和員経と云う者も物静かに将門を諫めたと云う。しかし将門は将平を嘘つきと云い員経を分からず屋と云って進言を無視したそうだが、火事も此処まで燃え誇っては救おうとしても、悪い結果を待つばかりだ。「とどの詰まりは真っ白な灰」になって何も彼も浮世の結末はつくのである。「上戸も死ねば下戸も死ぬ風邪」で、毒酒のうまさに後引き上戸になった将門は酔っぱらって島広山にぶっ倒れ、「番茶を楽しんで世を軽く視る」と云った調子の、洒落た将平はどうなったか分からない。四角い蟹や円い蟹、「生きて居る間の各々の姿形(なり)」を果敢なく波の来ぬ間の砂に痕をつけたまでだ。
 将平や員経だけでは無いだろう。群集心理に囚われない者は、或いは口に出して諫め、或いは心密かに非としたであろうが、興世王や玄明の意見が採用されて除目が行われた。将門の弟の将頼は下野守に、上野守に常羽御厨別当多治経明を、常陸守に藤原玄明を、上総守に興世王を、安房守に文室好立を、相模守に平将文を、伊豆守に平将武を、下総守に平将為を、それぞれ所領が定められた。毒酒の宴はイヨイヨ弾んで来た。下総の亭南、今の岡田の国生村の辺りが都になる訳で、今の葛飾の柳橋かどうか疑わしいが檥橋(ふなばし)と云うところを京の山崎に見立てて、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に見立てて新都が出来る事になったから、景気の良いこと夥しい。浮浪人や配流人、なま学者や落ちぶれ公卿、いろいろな奴が大臣にされたり、参議にされたり、雑穀屋の主人が大納言金時などと納まり返えれば、掃除屋が右大弁汲安などと威張り出す。出入りの大工が木工頭、お針の亭主が縫殿頭、山井庸仙老が典薬頭、売卜の岩洲友当が陰陽博士になると云う騒ぎ、ただ暦日博士にだけは成れる奴が居なかったと、京童(きょうわらべ)が云ったらしい珍談が残っている。
 上総や安房は早くも将門に降参しただろう。武蔵や相模は新皇の親征と云うことで、馬蹄カッカッと大軍は南に向かって出発した。武蔵は抵抗なく、相模も抵抗なく降伏したらしく戦いの話は残っていない。諸国が弱い者ばかりと云う訳でも無いだろうが、一ツには朝廷の平生の処置を喜んで居なかったと云う事情が有って、寧ろ庶民は新政に期待したのであろう、上野・下野・武蔵・相模の旧官は忽ちのうちに追い払われて、新軍は勢いを得たものと見える。相模から先へは行かなかったらしいが、これは昔から上野は碓氷峠、相模は足柄峠が自然の境となっていて、将門もマズそこらまで片付けて置けば一段落と云う訳だったのだろう。相州の秦野の辺りに将門が都にしようかとしたと云う伝説が残っているのも、将門軍がしばらくの間、彷徨したり駐屯したりしていた為に生じたことだろう。燎原の勢いに八か国は瞬く間に馬蹄の下になって仕舞った。実際に平安朝は外面は衣冠束帯華奢風流で文明くさかったけれども、伊勢物語や源氏物語が内面を表している通り、十二単衣でゾベラゾベラした女どもと、恋歌や遊芸に身の膏(あぶら)を燃やしていた雲雀骨(ひばりぼね)の弱公卿(よわくげ)共の天下であって、日本の各時代の中でも余り宜しくない、美しいこと玉冠のようであるが中身は空の世の中であり、ともすれば外面だけを見て、暗黒時代のように評価する人の多い鎌倉時代よりも、中身の充実していない危ない世であったことは、将門ばかりで無く純友などにも脆く西部を突き崩されていることでも分かる。元のクビライがもう少し早く生まれて平安朝時代に襲来したならば、相模太郎となって元に立ち向かってウムッと堪えた者は、公卿どもには居無くて、却って相馬小次郎将門であったかも知れない。「荒壁に蔦のはじめや飾り縄」で、延喜式の出来た時には頼朝が願で六十余州を指揮する種がもう播かれていたとも云えるし、源氏物語を読めば大江広元が生まれない遥か前に、京畿の気運の既に衰えたことを悟った者が居たかも知れないと云える。忠常の叛乱、前九年の役、後三年の乱などは、何故起こった。直接には直接の理由があろうが、間接には白粉(おしろい)顔の公卿共がイソップ物語の屋根の上の羊みたいにして居たからだ。奥州藤原家が何時の間にか「ダンマリ虫が壁を透す(気付かない中に虫が壁に穴を明ける)」ような具合に大きくなって居たのも、何を語るかと云えば、「都のウツケほととぎすを待つ(都の馬鹿どもがウツツを抜かしている)」間に、おとなしくドシドシと鋤鍬を動かしていたからだ。天下の重要位置に立つ者が平安朝ほど安楽をむさぼり惰弱であったことは無い位だ。だから将門が火の手を挙げると、八ケ国はベタベタッとなって、京では調伏祈祷に七石(七百升)余りの芥子を護摩に焚いて、将門の頓死頓滅を祈らせたと云い伝えられている。八ケ国を一ケ月ばかり占領されて、七日の間に七石(七百升)の芥子を焚いたなどは、帯紐の緩み加減も甚だしい。(⑥につづく)

注釈

・吾妻鏡:
 鎌倉時代に成立した日本の歴史書。
・源平盛衰記:
 鎌倉時代の軍記物語。
・斎藤竹堂:
 江戸時代後期の儒学者。
・ 弓削道鏡の同類には玄賓僧都があり、清盛の子に重盛があり:
 道鏡の甥に玄賓僧都があり清盛の子に重盛があり、将門の弟に将平がいて、共に正しい道を示した。
・暦日博士にだけは成れる奴が居なかった:
 暦博士(れきはかせ)は、日本の律令制における官職の一ツ。毎年の造暦と改暦、日食の予測等にあたる。
・伊勢物語:
 平安時代に成立した日本の歌物語
・源氏物語:
 平安時代成立した日本の長編物語、
・荒壁に蔦のはじめや飾り縄:
 芭蕉晩年の門人中川乙由の俳句
・忠常の叛乱:
 平安時代に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた反乱、関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱。
・前九年の役・後三年の乱:
 平安末期の東北地方で起こった朝廷支配下の蝦夷の反乱。
・奥州藤原家:
 前九年の役・後三年の役の後の寛治元年から源頼朝に滅ぼされる文治五年までの間、奥州平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った豪族。

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