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幸田露伴の史伝「平将門①(はじめに)」

平将門

 千鍾(せんしょう)の酒も少なく、一句の言も多い(大量の酒でも不足を感じ、一言でも口が過ぎる)、と云うことがある。授受に於いて互いの思いが違っていたり、その時機で無かったりすれば、何も彼も面白く無くてソレもコレもマズイことになる。だから大抵のことは黙って居るに越したことはない。大抵の文章は書かない方が勝っている。また大抵の事は聞かない方が良い。大抵の書物は読まない方が良い。何もサル年だからと云って「見ざる聞かざる言わざる」と云う訳では無いが、「口を閉じて何も言わなければ咎めを受ける事も無い」とは昔からの通り文句である。「酒を飲んで酒に飲まれる」と云うことを、何処かのおじさんに教えられた事が有るが、書物を読んで書物に読まれるなどは、酒を飲んで酒に飲まれるよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコールの強い奴で、人を読む書物は書物の性質(たち)が良くないのだろう。そんなものは書いて貰わなくてもよいし、読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚脱げば肩が張らない」で、世をアッサリと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字と云うものに関わって、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果てに読まれたりして、それが人文進歩の道筋だとはハテ有難いことではあるが、どうも大抵の書物は読まない方がよい、大抵の文章は書かない方がよい。酒を造らず酒飲まずで有れば、「下戸やすらかに眠る春の夜」で天下太平だ、愚痴知らずの尼入道となって、暁にムクッと起きて南無阿弥陀仏でも吐き出した方が洒落ているようだ。何の因果で、前世からの因縁でもあるのか、関東各地の水の上で度々遊んだ舟中の夢の跡と、将門の事を取り止めも無く書いては見たが、もとより人を酔わせようとの心は無い、書かなくてもと思って居るほどなので、読まれなくてもと思っている。ただ二日酔いがまだ残って眼の中がムズつく人が居れば、林羅山が詩にした大河の水のように淡いものだから、却って胃熱を洗うぐらいのことは有ろうか。飲むも飲まないも読むも読まないも人の勝手だが、ただ利根の川波の流れのように、鉛筆は紙を走り放題・・。
 作者の夢枕に、「ソモ、我こそは桓武天皇の後胤、鎮守府将軍良将の子、相馬の小次郎将門である。利根の川水日夜に流れて滔々(とうとう)と絶えること無いが、未だ、承平・天慶の恨みの痕を洗い去らねば、オマエに晴れぬ思いの胸の中をつぶさに語り、苦悩の因(もと)を晴らしたく思う」と、幽霊となって現れた訳でも何でも無いが、一体に将門と云う人は気の毒な人である。「大日本史」では叛臣伝に出されて日本始まって以来の不届者とされて居るが、本当に憎むような不届きな心を懐いていたのであろうか、それとも勢いに駆られ情に激して、静かに流れていた水が風に狂わされて、巨浪が怒り騰がって天を打つようなことになったのであろうか。マズはそこから出発して考えて見ないで、いきなり幸島の偽宮城設置や平親王と名乗った事から不届き至極の馬鹿者とされては一言も無いが、事跡からだけ論じて心理を考えないのは、乾燥派史家の安全なやり方で有るにしても情けないことであって、今日の評価ではモウ少し潤いが有ってもよい訳だ。そこで自然と古来の書物を読んでいて、それに読まれていない者の間には、不服を称える者も出て来て、現に明治年間には大審院や控訴院や宮内省に対して審理を求めようとした人さえあった程である。それで無くても昔から現在まで関東の人々はアチラにもコチラにも将門の霊を祀って、隠然として、そのいわゆる天位を詐称した不届者に同情し、之を敬愛していることを事実に於いて示して居る。これ等はソモソモ何に因るのであろうか、またソモ何を語っているのであろうか、唯その驍勇で剽悍であったことを偲ぶ為だけならば、それほどにならないハズでは無いか。考えどころは沢山ある。
 心理で事跡を曲解するのはいけないが、事跡で心理を即断するのもいけない。まして事跡から心理を即断して事実を捏造するとは、イヨイヨいけないことである。「日本外史」は面白い書物であるが、それに拠ると、将門が京都に居た時に比叡山の山頂から藤原純友と共に皇居を見渡して、「我は王族なので天子に成ろう、君は藤原氏なので関白に成り給え、」と約束したと云う。これは「神皇正統記」などに拠ったのであるが、これでは将門はトンデモナイ本当の謀叛人で、見逃すことの出来ない罪人である。しかしソウ云う事が有り得るもので有ろうか。楚の項羽や漢の高祖が未だ挙兵していない時に秦の始皇帝の行列を見て、項羽は之に取って代ると云い、高祖は男は正にこのように成りたいと云った、と云う「史記」の記事のようで、二人の性格描写として見れば、ナルホド非常に巧妙で有るが、事実としては受け取れない。「大鏡」を信頼し「神皇正統記」を有難がればソレマデだが、どうも「史記」の匂いがしてならない。将門の乱の有った朱雀天皇の時代は漢文学の研究が盛んに行われた時代で、前帝の醍醐天皇は三善清行を御相手に「史記」を読まれた事などがある。それはともかく「大日本史」も頼山陽と同様にこの事を記しているが、「大日本史」の筆法は広く採録するが精しさに不足する遣り方なので、織田鷹洲などは頭から比叡山頂の話を否定する。清宮秀堅も否定する。秀堅は鷹洲のように将門に同情している人では無くて、「将門の事など言うに足りない、彼は邪悪な性格で、貪欲にも勢いに乗じ、図々しくも自ら新皇と名乗り、偽の都を建て、偽の役人を置き、常軌を逸すること殆んど桓玄や司馬倫の真似事を為す、常軌に還ることなく、成敗されたのも当然である」と云っているほどである。しかし、京の都でのことに就いては、「将門は検非違使佐(けびいしのすけ)に成りたいと思って居たが、成れずに憤りを懐いて郷国に帰り遂に禍を始める、後に興世王を得て初めて新皇を名乗る。これは源頼朝が蛭ケ小島に在って最初は伊豆一国の主となる事を願っていたが、大江広元を得るに及んで、始めて天下を盗んだようなことで、「神皇正統記」や「大鏡」などは、さぞかし之に習ってその事跡を拡張したのであろう、これゆえに信頼できない」と云っている。これは将門の心中を想像しての見解なので当たっているか当たっていないか分からない、しかも「神皇正統記」等はその事跡を拡張したのであろうと云っていることは、双方を同じように見ている。宮本仲笏は「扶桑略記」に「純友は遥かに将門反乱の事を聞いて、また反逆を企てる」と記してあるのに照らしても、これが将門と示し合わせた事では無いことは明らかであると云っている。純友が西海で乱を起こしたのが同時であったので、如何にも将門と純友の行動が、後の石田三成と上杉景勝のした共謀のように見えて、そこで天子と関白とを分けあったと云う話も起きたのであろう。純友が伊予掾(いよのじょう)であった承平年間に南海道に群盗が起こり、これを伊予守の紀淑人が追補したのを助けていたが、その最中に賊の残党を誘って自分も賊を始めたのである。将門の事とは自ずと目的が異なる。将門の方は私闘・・即ち常陸大掾の源護(みなもとのまもる)一族と戦った事から引き続いて、終に天慶二年になって私闘から乱に変化したのである。その間に将門は一旦上京して上申した結果、私闘の罪を赦された事がある位である。それは承平七年四月七日のことである。であれば純友と将門の共謀は無いことになる。随って比叡山の山頂から皇居を見渡した件も、芝居としては有った方が精彩は有るかも知れないが、事実としては受け取れないのである。そこで早くから野望を懐いていたと云うことは、面白そうでは有るが、「神皇正統記」にお返ししたいのである。「神皇正統記」の作者は篤(あつ)い皇室尊崇の念から著述をしたので、将門などは出来るだけ筆の力で退治したい余りに、深く事実を考えること無く書いたのであろう。「日本外史」などは能く確かめもしないで記されたものに過ぎない。
 将門が検非違使佐に成ることを求めた事は、「神皇正統記」の記事に出ていることで、それは当時の武人としては有りそうな願望である。(検非違使は参議以上であるから無位無官の者が突然の望むことは出来ない、なので検非違使の佐(すけ)か尉(じょう)を望んだのであろう、これなら釣り合いが取れない事も無い。)しかし、検非違使ならともかく、検非違使佐などでは将門の器量が大いに小さくなる、そんなケチな官位を望む者が、純友と天子や関白を分け合う心掛けだとなると、余りにも釣り合いが取れないと云うことになる。明末期(中国)に李自成が落第を憤慨して賊となったようなものだと秀堅は云っているが、それは少しおかしい。明での合格は大臣や宰相になる経路であるから落第は非常な失望に繫がるが、我が国の検非違使佐や尉になれたからと云って、前途洋々春の如しと云う訳には行かない。随って摂政の藤原忠平の援助が得られなくて検非違使佐や尉に成れなかったからと云って、謀叛を起こそうとまで憤慨する訳がない。この事はモシこのような望みを将門が抱いたことが有ったとしても、謀叛とは余りに懸け離れていて、提灯と釣り鐘のようで釣り合いが取れな過ぎる。鷹洲はこの事を頭から認めないが、鷹洲でなくても信じられないことである。随って「神皇正統記」に読まれることは御免蒙ろう。随って「将門始末」に読まれることも御免蒙ろう。
 将門が謀叛の心を起こしたソモソモに関する記事は皆受け取れないが、それでは当時の世態人情はどのようであったであろう。「大鏡」で概略は覗えるが、世の中はマズマズ平和で、藤原氏の繁盛の時代に在って公卿(くげ)は栄華を誇り、武士は次第に実力を蓄えて来たが官位は未だ低く抑えられて伸びられず、藤原氏以外の者ではタマタマ菅公(菅原道真公)が少しの間栄進されたことが有ったが、遂に左遷を免れることが出来ずに筑紫で薨じられた。その菅公が薨じられた年に将門は下総に勇ましい産声を挙げたのである。ソモソモ醍醐天皇の頃は後世から云えばまことに平和な時代で、平安朝文明の頂点のようにも見えるが、しかし実際は何に起因するのか分からない騒がしいことも有り、険しい人心の世でも有ったと感じるのは、非常に盗賊の多いことでも気付く。仏法は盛んであったが迷信的で、僧侶は貴族のもので平民のものでは無かった。上の貴族階級に不正が多かったためだろうか、下では武士が私権を拡張することも多かった。公卿や嬪媛(ひんえん)は詩歌管弦の文明に酔っていただろうが、人民はそれらの犠牲となって随分と苦しんでいたらしい。要するに平安朝文明は貴族文明・形式文明・風流文明で、質実剛健・確実で立派なものと云うよりも繊細優麗なもので、徐々に次の武士の時代に政権を推移させる準備として、公卿が美女才媛等と美しい衣(ころも)を纏い美しい詞(ことば)を使って、面白く、貴く、長閑に、優しく、迷信的に、空想的に、詩歌的に、音楽的に、女性的に、夢幻的に、享楽的に、虚栄的に、イソップ物語のキリギリスのように、草は何時までも緑で世は何時までも暖かいと信じて、恋物語や宴会の噂で日々を送っている一方では、粗末な衣を着て荒い言葉を使い、面白く無く、賤しく、切迫して、凄まじい、これを絵画に現わせば餓鬼草紙の生き物のような、或いは小説雑話で空想的に現わせば、酒呑童子や鬼同丸のようなものでも有っただろう。醍醐天皇の御世と云えば、古今集や延喜式などが出来た時代であるが、その御世の昌泰二年は都に放火殺人が多かったために、四衛府の兵に夜警をさせ、その三年には上野国(こうづけのくに)に群盗が起こり、延喜元年には坂東諸国に盗賊が起こり、その三年には前安芸守の伴忠行が盗賊に殺され、その前後は賭博が大いに行われて五年には逮捕しなくてはならなくなり、その冬の十月には盗賊が飛騨守の藤原辰忠を殺し、六年には鈴鹿山に群盗が居て、十五年には上野介の藤原厚載も群盗に殺され、十七年には朝廷で菊宴が開かれたが世には群盗が充ち、十九年には前武蔵権介の源任(みなもとのとう)が府舎を焼いて官物を掠奪して、現任の武蔵守の高向利春を襲ったりなどすると云う有様であった。幸いに天皇の御聖徳が深厚なことによって大事に至らなかったが、盗賊と云うのは一揆や騒擾の徒で唯の物取りとは少し違うのである。このような不祥事の有る度に威張るのは僧侶や巫覡(ふげき・呪術師)で、「扶桑略記」や「日本紀略」や「本朝世紀」などを見れば、イヤらしいほど現世の利益を祈る祈祷が繰り返されていて、どれほどイヤらしい宗教状態であったかと思わせられる。将門の乱が起きた時にも、浄蔵が大威徳法で将門を呪い、明達が四天王法で将門を調伏し、その他神社仏寺で祈り立て責め立てて、とうとう祈り伏せたと云う事になっている。こう云う時代であるから、下では石清水八幡の本宮の徒と山科の八幡宮の徒とが大げんかをしたり、東西両京で陰陽の具を刻み絵にした男女の神像を供養礼拝して、岐神(さいのかみ・今の道祖神であろう)と云って騒いだり、下らない事をしている。先祖自慢や故郷自慢の心理で、今まで多くの人は平安朝文明を大層立派なものとして云って来た者も多いけれど、少し料簡の有る者が見れば、平安朝は少なくとも政権を朝廷から幕府へ、公卿から武士へ推移させる準備を気長に根深く丁寧に着々と進めて居たのである。こう云う時代に将門も純友も成長したのである。純友が南海道の群盗の追補に従事して、そして自分が賊の首領となったのも、盗賊になった方が役人になるよりも有利で真面目な生活だと思ったところから乱を起こして、後に従五位下の官位を以て役人になるよう招かれたにも関わらず、伊予・讃岐・周防・土佐・筑前と南海・山陽・西海を狂い廻ったのかも知れない。純友は部下の藤原恒利と云う信頼しきった奴に裏切られて大敗した後ですら、余勇を鼓して一挙に大宰府を陥れた。いやしくも大宰府と云えば西海の重鎮であるが、それすら実力はそんなものであったのである。その当時、屈強の男で天下の実情を洞察出来る者は、君臣の大義や順逆の道理を気にしない限り、何で頭を垂れて生白い公卿の下に付こうやと、勝手な理屈で暴れ出しそうな状勢が有ったのである。
 将門はしかしながら最初から乱を起こそうとしたのでは無い。自身は天皇の血筋から出て未だ近い者であった。思うに天皇を尊び公に殉ずる心が強い邦人の心情から考えると、初めは尋常におとなしく日々を送っていたことであろう。将門の事を考えるためにマズその家系と親戚等を調べて見ると、ザッとこのようである。桓武天皇の御子に葛原親王と云う一品式部卿の宮がおられた。その宮の御子に無位の高見王がおられる。高見王の御子の高望王が平の姓を賜って、従五位下・常陸大掾・上総介等に任じられたと平氏系図に出ている。桓武平氏が関東に根を張り枝を連ねて大勢力になったことは、この高望王が上総介や常陸大掾になられたことから起るのである。高望王の御子は、国香・良兼・良将・良繇・良広・良文・良持・良茂と数多くあった。その中で国香は従五位上・常陸大掾・鎮守府将軍とある。この国香(本名は良望)が思うに長男であった。即ち高望王亡き後の一族の長男として勢力を持って居たに違いない。良兼は従五位上・陸奥大掾・上総介で常陸平氏の祖である。次に良将は従四位下或いは従五位下で鎮守府将軍とある。将門はこの良将の子である。次に良繇は従五位上、上総介とある。それから良広の官位は出ていないが、次に良文が従五位上で村岡五郎と名乗った、この良文の子孫に日本将軍と名乗った上総介忠常なども出ていて、千葉氏や三浦氏など源平時代に光を放った家々の祖先なのである。次に良持は従五位下、下総介で長田家の祖先である。次に良茂は常陸大掾である。
 サテ将門は良将の子であるが、長男かと云うとソウでは無い。「大日本史」は系図に拠ったものと見えて三男としているが、二男としている人もいる。長男将持・二男将弘・三男将門・四男将平・五男将文・六男将武・七男将為と系図には出ているが、将門の兄の将弘は将軍太郎と名乗ったとある。将持の事は何も分からない。将弘が将軍太郎と云い、将門が相馬小次郎と云い、系図には出ていないが千葉氏の系図には将門の弟に御厨三郎将頼と云うのがあって、その次が大葦原四郎と云ったことを考えると将門は二男かも知れない。モシ三男であったとしても、長男の将持は早くなくなって仕舞って実際は二男のようにして成長したに違いない。イヤそれどころでは無い、兄の将弘が早世したので、将門は実際において良将の相続人として生長したのである。将門の母は犬養春枝の娘である。この犬養春枝は思うに万葉集に名の出ている犬養浄人の子孫であろう。浄人は奈良朝では下総少目を勤めた人であって、浄人以来下総の相馬に居たのである。この相馬郡寺田村相馬総代八幡の地方一帯は多分犬養氏が根拠地として居たところで、将門が相馬小次郎と名乗っていたのはその関係からに違いない。寺田は取手と守谷の間で、守谷の飛び地と云うことであり、守谷が将門の拠有の地であったことは人の知るところである。将門はこう云う大家族の中で生まれて来て、沢山の伯父や叔父を持ち、また伯父の国香の子には貞盛・繁盛・兼任、伯父の良兼の子には公雅・公連・公元、叔父の良広の子には経邦、叔父の良文の子には忠輔・宗平・忠頼、叔父の良持の子には致持、叔父の良茂の子には良正(後述の良正とは別人か?)、これ等沢山の従弟兄弟を持っていた訳である。(②につづく)

注釈

・将門の頃の中央と地方の状況:
桓武天皇が平安京へ遷都して始まった平安時代は、中央朝廷の要職は藤原氏一門に占められ、他の貴族等の多くは国司(地方官)として地方へ赴任して云った。その中には六年間の任期が過ぎても都へ帰らずその地に土着して武士化する者も出る。桓武四代の子孫である高持王は将門の祖父にあたるが、国司(上総介)として関東にやって来てその子供たちが土着した。将門は高持王の孫にあたる。
・国司:
地方官(守が筆頭で今日の知事に当たり二番目が介、以下、掾、目とつづく、また守の次に権守が追加されることもある。)。
・関東各地の水の上で度々遊んだ舟中の夢の跡:
芭蕉は義経を偲んで、「夏草やつわものどもの夢の跡」と衣川の戦場跡を詠んだが、露伴先生も利根川などでの釣りの折には将門を偲ばれたことがあったものか。
・林羅山が詩にした大河の水:
 林羅山(江戸時代初期の儒学者)の漢詩か?
・承平、天慶の恨み:
 平将門と藤原純友が東国と西国でほとんど同時に起こした反乱を承平天慶の乱と云う。 その恨み。
・大日本史:
 徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した日本の歴史書。
・日本外史:
 江戸時代後期に頼山陽が著した民間歴史書
・藤原純友:
 純友の乱の首謀者。
・神皇正統記:
 南北朝時代に南朝公卿の北畠親房が著した歴史書
・史記:
 中国の漢の時代に司馬遷によって編纂された歴史書。楚の項羽や漢の高祖の事は項羽本紀と高祖本紀にある。
・大鏡:
 平安時代後期に成立したとみられる紀伝体の歴史物語。
・織田鷹洲:
 明治時代の歴史学者、著述家。
・清宮秀堅:
 江戸後期~明治時代の国学者。「下総国旧事考」の著者。
・桓玄:
 東晋を滅ぼし楚を建国して帝となったが三ケ月後に劉裕にほろぼされる。
・司馬倫:
 西晋の皇族、八王の乱の八王の一人。一時的に皇帝に即位したが正史の晋書本紀には伝がない。
・検非違使佐:
 都の治安維持にあたる組織の官員、
・蛭ケ小島:
 頼朝が流刑された伊豆の地
・大江広元:
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての下級貴族、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、幕府創設に貢献した。
・宮本仲笏:
 江戸時代後期の儒者。「扶桑略記」の著者
・石田三成と上杉景勝のした共謀:
 家康軍を挟み撃ちにしようと、関ヶ原の戦いの前に交わした密約。
・李自成:
 中国・明末の農民反乱の指導者。首都の北京を陥落させ明を滅ぼしたが、直ぐに清に滅ぼされる。
・藤原忠平:
 平安時代前期から中期にかけて長く政権の座にあった。
・菅公の左遷:
 平安時代の貴族菅原道真は、右大臣にまで昇進したが謀反を計画したとして大宰府へ左遷された。
・大宰府:
 律用制度のもとに九州に置かれた役所。九州・壱岐・対馬を管轄し、外敵の防禦、外交等にあたった。
・酒呑童子:
 丹波の大江山に住んでいたという伝説上の鬼の頭目
・鬼同丸:
 鎌倉時代の説話集『古今著聞集』などに登場する鬼
・日本紀略:
 平安時代に編纂された歴史書で
・本朝世紀:
 藤原通憲著、 平安時代末期の成立。 鳥羽法皇の命を受け,六国史のあとを継承し,宇多天皇から近衛天皇までの事跡を編年体に記したもの。
・浄蔵:
 平安時代中期の天台宗の僧。平将門の乱で調伏の修法
・明達:
 平安時代中期の天台宗の僧。平将門の乱で調伏の修法
・犬養浄人:
 奈良時代の官吏、下総少目(しもうさのしょうさかん)であった時に防人部領使として筑紫に赴く。その時の献上した防人たちの歌が万葉集におさめられている。


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