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幸田露伴の随筆「潮待ち草24~26」

二十四 投胎
 人の死んだ後、極善は直ちに天国へ昇り、極悪は直ちに地獄に堕ちる。善であっても天に昇るほどのことも無く、悪であっても地に堕ちるほどのことも無く、また再びこの人間界に生れてきて、過去世の善悪の業(ごう)に従って苦楽の報いを受け、新たに為す善悪の業次第によって又それぞれの来世へと生まれ出る状態の者は、心は有っても身は無くて、ただただ暗闇の中をアチラコチラと彷徨(さまよ)いあるき、やがてその中(うち)に因縁の働きに引かれて、黒暗々(こくあんあん)の闇の中に一点の光明を認め、悦んでその光明のあるところへ慕い寄って自分をそこに託すると、自分が初めてそこで身を得て、即ち母の胎内に宿って、やがて十月(とつき)を経て人間となって世に出るという。これは古いインドの輪廻説の一部分の、人が死んでまた生まれるまでの間のことを説いたものであるが、その魂だけで涯も無い暗闇の世界を彷徨し、やがて一点の光明を認めて、そこに躍り込んで投胎する(宿る)というところは、何とも云えない詩趣があって面白いではないか。後世の人は鳥が鳥黐(とりもち)に触れて地で苦しむように、理屈に縛られてジタバタするだけで、このような幽妙な想像を掻き立てて、翼もろとも一挙に天に昇って雲に入るようなことは出来ない。

二十五 小鳥の智
 樹の枝に鳥黐(とりもち)を塗って小鳥を捕まえようとすると、賢い鳥は自分の足に鳥黐が付いたと知ると、少しも騒がずそのまま翼を収め、身を縮めて静かに逆様にブラ下がる。すると、僅かに足の裏の鳥黐だけで枝に粘着していることなので、身体の重みが次第に鳥黐の粘着力に打ち勝って、自然に枝から離れることができる。その時に勇ましく羽ばたいて飛び立てば命を奪われるような災いを避けられるのである。ツグミやヒヨドリなどにはこのような智恵がある。このためこれ等の小鳥を獲るには、螻蛄(けら)ハゴや千本ハゴ等を地面に挿して鳥黐を塗る獲り方を用いて、空中に鳥黐を設置する方法は用いないと云う。モズ・スズメ・メジロの類は身が鳥黐に触れると慌て騒いで悶え狂うので、翼は鳥黐にまみれて終(つい)にはどうしようもなくなって、オメオメと人に捕らえられていたずらに悲しむだけとなる。そのためこれ等の鳥を獲るには空中に鳥黐を置く方法を用いると云う。この事が本当ならば、ツグミ・ヒヨドリは実に嘆賞すべき智があると云うべきか。鳥が鳥であるのに必要なのは翼(つばさ)である。人が人であるために必要なのは精力である。翼愛すべし。精力惜しむ。たまたま禍(わざわい)に遭遇したとしても、みだりに愚かに振舞って後悔を取ってはいけない。

注解
・鳥黐:小鳥や虫を捕るのに用いる為にモチノキなどから採取した粘り気のある物質。
・螻蛄ハゴ:竹串や藁などに鳥黐を塗って囮(おとり)を使って鳥を獲るもの。
・千本ハゴ:鳥黐を塗った竹串を挿して置く方法。

二十六 トンボ取り
 トンボを取ろうと騒ぎ遊ぶいたずら盛りの子が、トンボが取れずに疲れ厭(あ)きた余りに、埃(ほこり)で黒ずんだ黐竿を友達の髪に差し付けて、「トンボトンボ」とふざければ、その子も一度は頭を抱えて逃げ帰ったが、やがて引き返して、「トンボトンボ」と云いながら、自分の黐竿でいたずらをした相手の髪を差そうとする。それからは一群の子供等は互いに、「トンボトンボ」と云って黐竿を振り廻し合い、髪の毛を毟り取られる者あり、袖や袂を黐まみれにする者あり、竿を折られる者あり、泣く者あり、喚く者ありで、とりとめなく騒ぎ合っていたが、夕べの鐘が鳴る頃には何と云うことも無くそれぞれ家に帰って終わる。これと同じことは大人の為(す)ることにもある。仮名遣いも一ツの黐竿であり、字遣いも一ツの黐竿であり、語法も一ツの黐竿であり、句法も一ツの黐竿であり、声調も一ツの黐竿であり、人々はそれぞれ得意のこれ等の黐竿を、既に埃にまみれて黒ずみ黐の粘りも衰えた黐竿を振り廻して、相手の頭上に差し当てようとする状(さま)は、全く子供等がするいたずら遊びに似てはいないか。醍醐の醍の字を忘れて祐筆(ゆうひつ・記録係)が困った時に、これで宜(よろ)しいと云って大の字を書いて教えたのは豊太閤(ほうたいこう・豊臣秀吉)で、自分で手紙に奥州を大しゅうと書いたのもこれまた豊太閤である。太閤の行為は学べないが、その少しもトンボを取ると云う真の目的を忘れなかったところは学ばなければならない。空しく騒ぎ疲れて夕べの鐘を聞くのは好ましいことではない。

注解
・黐竿:細い竹竿に鳥黐を付けたトンボなどを取るためのもの。


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