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幸田露伴の随筆「古革籠③」

古革籠③

 袁了凡(えんりょうはん)

 私は若い時に「歴史綱鑑補」を読んで、袁了凡と云う名を覚えた。了凡の二字が僧のようなのを些かおかしく思っただけで、心に留めることも無く過ぎたが、後に「了凡四訓」を読んで、これもまた一人物であることを知った。四訓とは一に立命之学、二に積善之方、三に改過之法、四に謙徳之効である。その説くところは、凡そ実践躬行を主とした身近な教えで、高論玄旨で人を驚かすようなものでは無い。中でも立命之学の一篇は了凡の信念を理解する根幹のものであって、了凡の名の由って来るところのものなので、一読三思する価値がある。今その要旨を搔い摘んで語ろうと思う。
 立命之学の記すところに拠ると、了凡は早く父を失い、母の勧めに従い学業を捨てて医術を学ぶ。一芸で名を成すことは勿論悪いことでは無いが、当時は科挙の試験(官吏登用試験)に合格して官職を得ることが全ての人の願うところであった。しかし父が亡くなって思うにまかせなくなったところから母は医術を勧めたのであろう。了凡は母の勧めに従っていたが、或る時慈雲寺と云う寺で一人の老人に遇った。長い髯、ものもしい顔立ち、只人(ただびと)では無いと思い了凡が之に礼をしたところ、老人は了凡の有様を見て、「貴方は何故書を読んで試験に応じる準備をしないのか」と云う。了凡はコウ訊かれて隠すこともないので、身の上や母の言葉などのあらましを語った。老人は、「私は孔と云う雲南の者だが、宋の邵康節(しょうこうせつ)の皇極経世の正伝を会得している。貴方に之を伝えて与えよう」と云う。了凡がこの人を連れて家に帰り母に告げると、母も「善くもてなすように」と云う。サテ老人の言葉を信じて行うと悉く効果があった。了凡も次第にその言葉に随うようになり、ついに書を読んで科挙の試験に応じることにした。老人は或る時了凡の為に易を起こして一生の運勢を占ったところ、県の童生の試験には第十四位で合格し、府の試験には第七十一位で、挙人の試験には第九位で合格すると云う。翌年試験に応じたところ、これはどうしたこと、三ツのことが三ツとも少しも違わずに当った。これには了凡も非常に驚いた、その占いの結果には修身の吉凶(きっきょう)、何年に何の官職になり、その任に在ること何年、五十三才の八月十四日の丑の時に家に在って死ぬであろう、惜しいことに子は無い等までが、つぶさにが記されてあった。しかも不思議な事に了凡のその後のことは何時も老人の記して置いた通りで、それ以外である事は無かった。そこで了凡も今はソウかと納得するところが有って、不満に思うことも無く落ち着いて、花の色は天がこれを定め、人の窮通は神がこれを司ると理解して、休み無い日々の謀(はかりごと)もただ徒(いたずら)に心を苦しませるだけ、齷齪(あくせく)した思いもただ魂を焦すに過ぎないと悟り、世の人と争う心も無くなり落ち着いて日々を送っていた。
 任命されて燕京に入り留まること一年、その翌年に雲谷禅師と云う人を棲霞山に訪れ、一室で対座すること三昼夜に及ぶ、雲谷が了凡の有様を見て、「貴方は坐すること三日、一ツの妄念も起こすことが無い、どうしてこのように成れたのか」と問うと、了凡は「別に私に修証したことがある訳ではありません、ただ私は孔先生と云う人から悟りを得て、栄辱や死生は皆運命であると知ったので、妄想する必要も無いので妄想いたしません」と答えた。雲谷はこれを聞いて大いに笑い転げ、「私は貴方を豪傑と思って居たが、ソレでは貴方は凡人ではないか」と云う。納得できないので了凡がその訳を訊くと、雲谷は、「人生に運命はあろう、世には定まった運命があろう、但し凡人に運命はあっても極善の人は運命も彼を捉えることが出来ない。極悪の人もまた運命は彼を捉えることが出来ない。貴方は二十年来、孔老人から運命を占われて少しも動顛しないと云う。それでは極善でも極悪でも無い、凡人で無くて何であろう」と罵る。了凡は押し返して、「では、運命を逃れることが出来ますか」と訊く。雲谷答えて、「運命は我が作り福は己(おのれ)から求めると云う、まして諸仏諸菩薩は、衆生の為に苦を抜き楽を与え、罪を滅し福を生じることができなければ、諸仏諸菩薩は妄語して人を欺くというものである。六祖の説かれたところを知らないのか、一切の福田(ふくでん)は方寸(ほうすん・心)を離れずと云う、心から求めれば感じて通じないことは無い、孔老人は貴方の運命を占って何と云ったか」と云う。了凡が一ツ一ツ事実を告げると、雲谷は、「では貴方自身の力を考えると、進士の試験に合格するだろうか、子を得るだろうか」と問う。了凡はヤヤ暫く省察して云う、「思うに私は徳乏しく福が薄いので、進士に合格し子孫を得ることは出来ないでしょう、孔老人の言葉は当たって居るでしょう」と。雲谷は頷いて、「善い、善い、貴方は既に出来ないことを知っている、今から進士に合格し子孫を得ることの出来ない貴方を改め、徳を積み、和を湛え、精を惜しみ、怒りを懲らし、今までの種々の貴方を昨日で死なせ、これからの種々の貴方を今日ここに生みなさい、これが義理再生の身である、血肉の身にすら運命がある、義理の身がどうして天に通じないことがあろうか、「書経」の太甲に云うでは無いか、「天の作った禍は猶避けることが出来るが、自ら作った禍は活かすことが出来ない」と、孔老人が貴方を占って、「貴方は進士に合格しない、貴方は子孫を得ないと云うのは、之は天の作った禍である、之は避けることが出来るものである、貴方が今から徳を積み善に努めることが出来ないとすれば、之は自ら作った禍である、どうして福を享けることが出来よう、吉に付いて凶を避けるのが易の道では無いか、運命が常に変わらないものであれば、どうして吉に付くことができよう、どうして凶を避けらることができよう、積善の家には必ず余慶(吉事)があり、積不善の家のは必ず余殃(よおう・禍)がある、諸仏諸菩薩が何で妄語されよう、聖賢が何を苦しんで後人を欺(あざむ)こう、貴方はただ悟りなさい、信じなさい」と云う。了凡はここに於いて孔老人の影響を脱することを得て悲喜交々感じて、そこで雲谷の教えを受けて仏前に懺悔し、誓って善事を行って、天地の恩や祖先の徳に報いようとする。この時まで了凡は未だ了凡と名乗っては居ないで、「百川海を学んで海に至る」の意味を取って学海と名乗っていたが、この日を立命の節目と悟って、断じて凡人の窮地に陥ることの無いよう、凡人を終了したとして了凡と名乗りを改めた。
 これからの了凡の境涯は前日までとは変わって、ただコレ悠々として運命に安んじて居たのは昨日まで、常に自ら恐々(きょうきょう)として励むのは今日、人は非難するが自身は平然として務め、室は暗いが自身は粛然として慎み居る、そのように過ごす中、翌年の進士の試験において、孔先生の占いでは第三位になる筈であったのが第一位となり、その占いの験(しるし)は無くなり、後十年して子の厳(げん)を得て孔先生の占いの験は無くなり、五十三才で死ぬと云う占いも六十八才でもなおも元気で、自ら文を作りこの事を記すまでになる。孔老人の占いは甚だ神妙で、雲谷の言葉は無論正しい。そしてまた厭きることなく継続し実践した了凡もまた得難い人である。了凡が徳を積み善に努めるに際しては、了凡の妻も一事を行う毎に羽ペンを用いて朱点を暦の上に記(しる)して、多い時には十数点余りにもなったと云う。また夫の為す善事が多くないと見ると、眉を顰めて憂えたと云う。助け合って善を為した了凡の妻も得難い人と云うべきか。

注釈
・袁了凡:中国・明の人。三十七才で挙人、五十三才で進士に合格し県知事や兵部主事などの役職に就く。六十八才の時に今までの経験をもとにして勧善の書「陰騭録」を書く。
・邵康節:中国北宋時代の儒学者。易学の書「皇極経世書」を著わした。
・義理再生の身:人間は、正しいことを実践し道理心で生活を重ねれば、日々に生まれ変わって成長してゆくという教え。


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