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幸田露伴の小説「運命1・発端」

運命(現代訳)

 世に運命と云うものは有るか、有ると云えば有るようで、無いと云えば無いようでもある。洪水が天下にはびこれば禹(う)の働きがこれを治め、大旱が大地を焦(こが)せば湯(とう)の力がこれを救う。運命は有るようであり、また無いようでもある。秦の始皇帝は天下を統一して皇帝を名乗る、権勢まことに敵なしの勢い。しかしながら水神が華陰(かいん)の夜に現れ、宝玉を使者に託して、「今年、始皇帝は死ぬであろう。」と云えば、果たしてやがて沙丘(しゃ丘きゅう)で崩去する。唐の玄宗皇帝は開元三十年間の太平を享楽し天宝十四年間の贅沢をほしいままにする。しかし開元の盛時において一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)が、「陛下は遠方にお遷りになられ、天子の位は不安定になりましょう。」と奏上(そうじょう)すれば、「戯(たわ)けたことを申すな」と云われたが、天宝十五年に安禄山(あんろくざん)の乱が起こり、蜀(しょく)の地にお遷りたまうことになり、万里橋(ばんりきょう)にさしかかって愕然として悟りたまわれたと云う。これ等を思えば運命は無いようであるが、また有るようでもある。「定命録」や「続定命録」・「前定録」・「感定録」等の小説や民間歴史書の記すところを見れば、吉(きち)も凶(きょう)も禍(か)も福(ふく)も皆運命であって、飲食や泣き笑いも悉(ことごと)く天意によるものと思われる。しかしながら、氾濫する雑書の類(たぐい)を何で信じることが出来よう。たとえ運命が有るにしても予測できないのが運命である。予測できない運命を恐れて占い師の前に首を垂れるよりは、知識の道に従って昔の聖人賢者の教えの下(もと)に安心を得るが善い。しかし人情において、破れた者は「天命」を云って歎き、成功した者は、「自己の力」を云って誇る。二者共に愚かである。事破れてこれを自己の力の不足とし、事成ってこれを運命のお陰とするならば、その人は間違いなく本物、その器(うつわ)は大きい。昔の賢人は云う、「知る者は言わず、言う者は知らず」と、運命を云う者は運命を知らない者で、運命を云わない者は或いは運命をよく知る者か。

 古(いにしえ)から今に至るまで、勝負の結果や禍福の運が人を不幸にし、歎かせることは勿論多い。しかしながら人は奇を好み、これでも足りないとし、才子は才に奔り、妄人は妄をほしいままにして、空中に楼閣を築き、夢に悲喜を画き、意(おもい)を筆にして、有りもしない話を作る。或いは少しは根拠があり、或いは全く根拠がない。小説と云い伝説と云い戯曲と云い寓話と云うものが即ちこれである。作者の心では奇を極め妙を極めたと思っても、中々どうして運命は綺語の奇よりも奇で、狂言の妙よりも妙で、才子の才も敵わない巧みさがあり、妄人の妄も及ばないほどの奇抜さがある。私の言葉を信じられない者は、試みに建文帝(けんぶんてい)と永楽帝(えいらくてい)の生涯を看よ。

 我が国の昔の小説家の雄は曲亭主人滝沢馬琴である。馬琴の作の長篇四・五種の中、「八犬伝」の雄大さと「弓張月」の壮快さは皆世間の評判となるところだが、「八犬伝」や「弓張月」に比べても優るとも劣らないものに「侠客伝」がある。惜しいことにその記すところ思うに未(いま)だ十の三四も終わることなく、中途で主人は逝去して冥界の客となり、鹿鳴草舎(はぎのや)の翁(おきな)がこれを継いだが、これもまた成し遂げることなく死んで、世はその偉大な構成と壮大な美を見ることなく終わる。しかしながら、その着想と構成の基となるものを考えると、楠木正成公が狐女(こじょ)を使って南朝のために気を吐いたことを記し、当然のこと大長編になるものであったが、その成らなかったことが惜しまれる。
 「侠客伝」は「女仙外史」を換骨奪胎して出来る。その一部に「好逑伝(こうきゅうでん)」を引用するといえども、全体は「女仙外史」からの引用であることを隠すことが出来ない。「侠客伝」の姑摩媛(こまひめ)は即ち「女仙外史」の月君(げっくん)である。月君が建文帝のために挙兵したことは、姑摩媛が南朝のために力を尽くしたことの原典ではないだろうか。これは馬琴の心の中のことなのであるが、仮に馬琴が今生きていれば私の言葉を聞いて笑って頷(うなづ)かれることであろう。

 「女仙外史」百回は中国・清(しん)の呂熊(りょゆう)の作で、康熙(こうき)四十年に着手して四十三年秋に成る。その文体は「水滸伝」や「平妖伝」と同じであるが、著作の趣旨はあるべき人の道を広め植えつけて、忠義の心を高めようとするもので、南安(なんあん)の郡守の陳香泉(ちんこうせん)の序や、江西(こうせい)の廉使の劉在園(りゅうざいえん)の評や、河西(かせい)の学使の楊念亭(ようねんてい)の論や、広州(こうしゅう)の太守の葉南田(ようなんでん)の抜(ばつ)を得て世に広まる。架空の話に兵談を挟んで国や世の不正義を嘆きいきどおり、且つ神仙譚(しんせんたん)のような趣(おもむき)をただよわせる。「西遊記」に似ているがその突飛さは少し譲り、「水滸伝」に近いがその豪快さには及ばず、「三国志演義」のようであるがその殺伐さはやや少ない。ただその三者のよいところを併せて一篇の奇話にしたところは、「女仙外史」が「西遊記」や「水滸伝」や「三国志」に優るところで、その大体のようすは「平妖伝」に似ていると云える。惜しいことに全篇を通して学生言葉が多く、文章は硬く、会話にもスッキリした滑らかさが足りない。
 「女仙外史」の名はその内容を示している。主人公の月君とこれを輔佐する鮑師(ほうし)・曼尼(まんに)・公孫大娘(こうそんたいじょう)・聶隠娘(しょういんじょう)等は皆女仙(じょせん・女仙人)である。鮑や聶等の女仙は古伝や雑説から引用して配置したもので、また月君は即ち山東省蒲台県の妖婦唐賽児(とうさいじ)なのである。賽児が乱を起こしたのは明(みん)の永楽十八年二月で、燕王(えんおう)の簒奪(さんだつ)と建文帝の遜位(そんい)には関係しない。建文帝が生きていたとしても、簒奪の事があってから既に十七年の歳月が経っている、賽児が何で建文帝の為に兵を挙げようか。ただ、一婦人の身で兵を挙げて城を破り、安遠侯の柳(りゅう)升(しょう)を征戦に疲れさせ、都指揮(としき)の衛青(えいせい)を撃退に努めさせ、都指揮の劉忠(りゅうちゅう)を戦死させて、山東地方一帯を一時騒擾させたことは、まことに小説の好材料である。これに加えて賽児が洞察の才に長(た)けて怪しい術を能(よ)くし、天書と宝剣を得て恵民布教の事を為(な)したことも、真(まこと)にこれは小説の絶好の材料ではないか。賽児の実績はすでにこのようである、これを借りて来て、月君を建文帝の遜位に涙を流し、燕王の簒奪に歯を噛んで悲憤慷慨して、回天の事業を為そうとした女英雄にする。「女仙外史」が人に愛読されるところ決して少なくなく、またそれが、活き活きした文章や高大な構成を得たのも決して偶然ではない。
 賽児は蒲台県の農民である林三(りんさん)の妻で、若い時から仏教を好み経を誦(じゅ)していたが、別に変ったところは無かった。林三が死んでこれを郊外に葬り埋葬を終えて賽児が帰える道の途中、或る山の麓を通るとたまたま豪雨の後で土が崩れて石が露出していた。見ると石箱があるので開けると異書と宝剣が在った。異書と宝剣を得てから賽児は妖術が使えるようになり、紙を切っては人馬に変え、剣を揮(ふる)って呪術を行い、髪を剃り尼となって教えを民に広める。祈りがよく叶い、言葉に有難みがあるので民は皆これに従う。また賽児は飢えた者には食を与え、凍える者には衣服を与えてこれを救済したので、終(つい)には尊んで追随する者は数万にも及び、仏母(ぶつぼ)と称えられてその勢いは極めて大きくなる。官がこれを嫌って賽児を捕えようとすると、賽児を信奉する董彦杲(とうげんこう)や劉俊(りゅうしゅん)や賓鴻(ひんこう)等は、敢然と起って戦い、益都(えきと)・安州(あんしゅう)・莒州(きょしゅう)・即墨(そくぼく)・寿光(じゅこう)等の山東の諸州を騒がせて、官と賊とは互角の形勢であったが、次第に官の勢いが増し、賊の勢いは日々に衰え、賽児は捕らえられて正に処刑されようとしたが、平然として恐れるところがない。衣類を剥(は)いで賽児を縛り、刀を振り上げて賽児を切るが、刀の刃は身体(からだ)に入らず、止むを得ず再び獄に戻す。身体に枷(かせ)をはめ足に錘(おもり)を着けてつないで置いたが、いつの間にか抜け出して行方が知れない。山東の高官や郡県の将校等は賽児を逃がしたことで罰せられる。賽児はその後どうしたことか杳(よう)として行方が知れない。永楽帝が怒って、およそ北京(ほくけい)や山東の尼を悉(ことごと)く逮捕し、終(つい)に天下の尼と云う尼を捕らえて都に上らせて厳重に勘問(かんもん)したが、賽児を捕らえることが出来なかったので、終(つい)に後の歴史家に「賽児はこれ妖(よう)か人か、吾これを知らず」と云わせている。
 世が伝える賽児のことからして既に甚だ奇で、そのまま既に一ツの伝説である。「女仙外史」の作者がそれに拠って著作したのも頷ける。しかしながら賽児の一党に初めから大志が有った訳ではない。官吏の過酷な虐待に堪えられなくなって爆発し、焔を揚げただけのことである。永楽帝が賽児一党をきびしく追求したことを考えると、賽児の一党が苦しみ窮まって武器をとって立ち上った時に、或いは建文帝の名を挙げて永楽帝に対抗したことがあったのかも知れない。永楽帝の時は正史にも事実を曲げた記事が多く、今その真実を知ることは難しい。永楽帝は簒奪に成功し、しかも聡明剛毅で政治に精通し、また賢良の輔佐も多い。このため賽児の一党は急速に勢いを失ったが、モシ秦の末期や漢の末期のような世であったならば、陳渉(ちんしょう)や張角(ちょうかく)のように天下を動揺させることになったかも知れない。アア、賽児は奇女子である。この奇女子を借りて建文帝に味方して永楽帝と争わせた「女仙外史」の奇は、奇を求めなくてもそのまま既に奇なのである。ではあるが私は思う、呂熊の脚色は架空にしてわずかに奇であるが、造物主の計らいは真にして且つ更に奇であると。

 明の建文帝は太祖(たいそ)洪武帝(こうぶてい)の後を継いで位に着かれた。時に洪武三十一年閏(うるう)五月である。そして詔(みことのり・宣旨)をして翌年を建文元年とされた。統治されること五年に亘(わた)ったが諡(おくりな・死後の称号)を得られることなく終わる。その後、正徳帝・万歴帝・崇禎帝の時にしばしば追諡(ついし)のことが議論されたが遂に行なわれず、明が亡んだ清の乾隆元年になって、初めて恭閔恵皇帝(きょうびんけいこうてい)と云う諡を得られる。その国の勢威が衰え運も尽き、内憂外患さし迫って将(まさ)に滅亡しようとする世には、死後に諡を得ない皇帝もあるには有るが、明の世はその後二百五十年も続いて、又この当時はまだ太祖の偉業が焔々(えんえん)と光を放っている時でもあり、このような不祥事が起こるハズの無い時代である。であるのに、このようなことになったのは天意か人為か分からないが、一波動いて万浪が動き、不思議な事が次々と続いて、その狂波は四年の間、天地を震撼させて、その余波が遠い国々にまで及んだためではないだろうか。 
 建文帝は諱(いみな)を允炆(いんぶん)と云い太祖洪武帝の嫡孫(ちゃくそん)である。父の懿文(いぶん)太子が太祖を継ぐハズであったが不幸にして早く亡くなられ、太祖はその時御年(おんこし)六十五にあらせられたので、さすが淮西(わいせい)の一農民から起って、腰の剣と馬上の鞭で四百余州を十五年に亘って駆け抜け切り従えて、終(つい)には皇帝と成られた大豪傑も、薄暮(はくぼ)に灯(あか)りを失い、荒野の旅に疲れた心地(ここち)がしたものか、堪えかねて泣き萎れたまわれる。翰林学士(かんりんがくし)の劉三吾(りゅうさんご)が、「お嘆きは御尤(ごもっと)もですが、すでに皇孫が居(お)られますれば御心配には及びません。孫君(まごぎみ)を皇太孫にすると仰(おお)せられれば天下は一致して御奉公致しましょう、御憂慮されるべきではございません。」と申せば、「そうであった。」と頷かれて、その年の九月に立位(りつい)して皇太孫と定められたのが即ち後の建文帝である。谷応泰(こくおうたい)の「明史紀事本末」に、「建文帝が生まれて十年にして懿文は卒(しゅっ)す」とあるのは思うに脱字であって、懿文太子が亡くなって皇太孫と成られたのは十六才の時である。生まれながらに一際(ひときわ)賢く温和で、孝行の心深く、父君(ちちぎみ)が病の床にあった間は三年に亘って昼も夜もそばを離れず、いざ亡くなられた時には、思慕の情、悲哀の涙の絶える間も無く、身も細々と痩せ細って仕舞われて居られた。太祖がこれを見て、「お前は本当に親孝行だな、子を失って孫を頼りに思うこの老いた儂(わし)を粗末にすることも無いだろう」と仰って、悲しみにくれて武者ぶりつくようにして愛撫されたと云う。その性質の美しさは推して知れよう。
 はじめ太祖は懿文太子に命じて法令を決めさせたが、太子は仁慈の心が厚かったので、獄内の待遇を緩(ゆる)められることが多かった。太子が亡くなって太孫がこれに代わったが、太孫もまた寛厚の性質なので自然と徳を施されることが多く、また太祖に願って、広く礼経を考え歴代の刑法を併せ考えると、刑法は教えを補完するものであるから、およそ人の道に在る者は法を緩めて情を伸ばすのがよいとの意(おもい)から、太祖の許しを得て法律の重いもの七十三條を改定されたので、天下は大いに喜んで、その徳を称(たた)えない者はない。太祖の言葉に、「儂(わし)は乱世を治めたので刑を軽くすることが出来なかったが、お前は平時を治めるのであるから、刑は自然と軽くすべきである。」とあるのは当時のことである。明の法律は、太祖が武昌(ぶしょう)を平定した呉の元年に丞相の李善長(りぜんちょう)等が考えたものが初めで、それを洪武六年から七年に亘って刑部尚書の劉惟謙(りゅういけん)等が改定して、いわゆる「大明律」は出来た。同九年に李善長の後を継いで丞相となった胡惟庸(こいよう)等が君命を受けて修正し、そして同十六年と二十二年の編纂を経て、ついに洪武の末になって「更定大明律」三十巻が大成して天下に公布された。呉の元年から此処までの長い年月の検討による一代の法が初めてここに定まり、明の世が終わるまでの間の刑罰の基準になったが、後の世の人に、「唐に比べ簡明で寛厚は宋に及ばない。しかし、その思い遣りの心は各條に散見される。」と評され、影響は遠く我が国にも及んで徳川期の識者に研究され、明治初期の法律作成においてはこれから採るものもあった。太祖が英明で深く民人を思われたことは云うまでもない。また太子の仁(じん)と太孫の慈(じ)に人君としての度量があったことで「大明律」は成ったとも云える。太祖が崩じて太孫が位に即かれると刑官に諭して云う、「大明律は皇祖(太祖)が親しく定められたところのもので、朕(ちん)に検閲を命じられた。前代の法律に比べると往々にして刑が重くなっているが、思うにこれは乱国の刑であるからで万国に通用する法律ではない。朕が以前改定したところは皇祖が既に命じて施行されている。しかし、罪を憐れむのはこれだけに止まらない、「律は大法を設け、礼は人情に順(したが)う」と云う。民を治めるのに刑で行うのは、礼で行うには及ばない。天下の役人に教え諭して、努めて礼経を尊び、疑いを赦し、朕が万民と共に喜べるようにせよ。」と、アア既にして父に孝、民に慈である。帝の善良な性質を誰が疑えよう。
 このような人であるのに皇帝と成って位を保てず、死んでは諡(おくりな)を得られず、廟(びょう)無く、陵無く、西山(せいざん)に憤墓を得ること無く終わる。アアまた奇である。しかもその因縁は錯雑と絡み合い、その結果は惨苦悲惨である。そしてその影響は過酷で測り知れない。奇もまた甚だしいと云える。
 建文帝が国を譲らざるを得ない事態になったそもそもの原因は、太祖が子供達を過当に各地の王に封じて領国を広く与え、権力を持たせ過ぎたことが原因である。太祖は天下を平定すると、前代の宋や元の滅亡の原因は宗家の孤立にあったと考えて、諸子を四方に配置して兵力を持たせて、それによって帝室の守りを固めて、京城(けいじょう)を護衛させようとした。これもまた理由の無いことではない。兵力が他人の手に落ち、財力が一家に無くなれば、将軍たちは任地で傲(おご)り、奸臣どもは朝廷内で勝手をする。ひとたび有事が起これば京城を守ることも出来ず、宗廟を祀(まつ)ることも出来なくなる。もし諸侯を多く立ててこれを諸子に分け与えれば、皇族は天下に満ち栄え、人臣が勢いを得る隙がない。そこで第二子の樉(そう)を秦王(しんおう)に封じて西安(せいあん)の守りに就かせ、第三子の棡(こう)を晋王(しんおう)に封じて太原府(たいげんふ)に居らせ、第四子の棣(てい)を燕王(えんおう)に封じて北平府(ほくへいふ)即ち今の北京に居らせ、第五子の橚(しゅく)を周王(しゅうおう)に封じて開封府(かいほうふ)に居らせ、第六子の楨(てい)を楚王(そおう)に封じて武昌(ぶしょう)に居らせ、第七子の榑(ふ)を斉王(せいおう)に封じて青洲府(せいしゅうふ)に居らせ、第八子の梓(し)を潭王(たんおう)に封じて長沙(ちょうさ)に居き、第九子の杞(き)を趙王(ちょうおう)にしたが、これは三才で死んで守りに就くこと無く、第十子の檀(たん)は生まれて二タ月で魯王(ろおう)にして十六才で兗州府(えんしゅうふ)の守りに就かせ、第十一子の椿(ちん)を蜀王(しょくおう)に封じて成都(せいと)に居き、第十二子の柏(はく)を湘王(しょうおう)に封じて荊州府(けいしゅうふ)に居き、第十三子の桂(けい)を代王(だいおう)に封じて大同府(だいどうふ)に居き、第十四子の楧(えい)を肅王(しゅくおう)に封じて甘州府(かんしゅうふ)の守りに就かせ、第十五子の植(しょく)を遼王(りょうおう)に封じて広寧府(こうねいふ)に居き、第十六子の椸(せん)を慶王(けいおう)に封じて寧夏(ねいか)に居き、第十七子の権(けん)を寧王(ねいおう)に封じて大寧(たいねい)に居らせ、第十八子の楩(べん)を封じて岷王(みんおう)にし、第十九子の橞(けい)を封じて谷王(こくおう)にする、谷王と云うのはその居るところが宣府(せんふ)の上谷(じょうこく)の地であるからによる。第二十子の松(しょう)を封じて韓王(かんおう)にして開原(かいげん)に居らせ、第二十一子の模(ぼ)を瀋王(しんおう)にし、第二十二子の楹(えい)を安王(あんおう)にし、第二十三子の柽(けい)を唐王(とうおう)にし、第二十四子の棟(とう)を郢王(えいおう)にし、第二十五子の㰘(い)を封じて伊王(いおう)にした。瀋王(しんう)以下は永楽帝になってから守りに就いたので今は論じないが、太祖が諸子を各地に封じて王にしたのもまた多い。そして枝は甚だ盛んになり幹は却って弱まる様相になった。明の制度では親王は金冊(きんさつ)と金宝(きんぽう)を授けられ、年俸は萬石、王府には役所を置いて、衛士は少ない者で三千人、多い者では一万九千人まで所有し、冕服(べんぷく・儀礼用の冠と衣服)や車旗や邸居は皇帝に準じ、公侯や大臣は平伏して拝謁する。皇族を尊くして臣下を抑えることに徹底したと云える。且(か)つ、元(げん)の残党が未だ残存し時には城下にも出没するので、国境に接する諸王には国中に専制を徹底させ、三護衛の大軍を持たせ、中央から将を派遣して諸方面から兵を徴収する際には、必ず親王に言上してから行わせるようにした。諸王に権力を持たせることもまた大である。思うに太祖の心では、このようであれば皇室と諸王は助け合って末永く栄え、権力が他に移ること無く、転覆の恐れの生じる余地は無いと思われたのであろう。太祖の深智達識は真(まこと)によく前代の失敗を考慮して、後継の永続を謀ろうとした。しかしながら人智には限りがある、天意は測り難い。何としたことか、太祖の熟慮遠謀の施策が、孝陵(こうりょう・太祖と皇后の陵墓)の土が未だ乾かないうちに、北平に靖難(せいなん)の変が起き、京城(けいじょう)に雨あられと矢玉が注ぎ、皇帝が京地を離れてさまようような原因になるとは。
 太祖が諸子を過当に封じたことを過ちとして、早くからこれを宜しくないとした者があった。洪武九年といえば建文帝が未だ生まれて居なかった時である。その年の閏九月にたまたま天地に異変があったので、詔(みことのり)を下して進言を求められたところ、山西の葉居升(ようきょしょう)と云う者が上書して、第一に分封が甚だ過ぎること、第二に刑を用いることの甚だ多いこと、第三に治を求めることの甚だ急なことの三条を言上した。その分封が甚だ過ぎることを論じて云う、「諸王の城が巨大なのは国の害であると伝文に出ていますのに、国は今や秦・晋・燕・斉・梁・楚・呉・閩の諸王にその地の全てを封じられ、諸王の城や宮室は天子の都に準じ、これに加えて盛強な衛士まで与えられる。臣はひそかに恐れます。数代の後には国よりも諸王の力が増して、その時になって諸王の地を削って権力を奪おうとすれば怨みが起こり、漢の七国や晋の諸王のようになりましょう。そうなれば、険しい地形を頼んで勝負を挑み、さもなければ多勢で入朝し、甚だしければ隙を見て決起しましょう。そうなってはこれを防ぐことは出来ません。漢の景帝は高帝の孫でありました。七国の王は皆、景帝の一族でありました。であるのに、ひとたび景帝が諸王の領地を削ると、諸王は兵を率いて西に向かいました。また晋の諸王は皆、武帝の子や孫でありましたが、武帝が崩じて恵帝の世に代ると互に兵を率いて皇室を危うくしました。昔、賈(か)誼(ぎ)は漢の文帝に勧めて禍(わざわい)を未然に防ぐ策を具申しました。願わくは、今は先ず諸王の城を小さくし、護衛の兵を減らし、領地を削りたまえ」と。居升の進言は道理である。しかし、太祖には太祖の思いがあり、居升の説くところは太祖の親族団結の思いに反するので、太祖は甚だ喜ばれず居升を投獄されて死に至らされる。居升の上書の二十余年の後(のち)に、太祖が崩じて建文帝が立たれると、居升の進言のような状況になって、漢の七国の喩えが現実になったのも仕方がない。
 七国の事、七国の事、アア、これ何と明の王室と因縁の深いことか。葉居升の上書に先立つこと九年の洪武元年十一月のことである。太祖が宮中に大本堂と云う建物を建てられ、古今の書を完備して儒臣に太子や諸王を教育させた。儒臣の魏観(ぎかん)、字(あざな・通称)は杞山(きざん)と云う者が太子に付いて書を説いていたが、ある日、太祖が太子に、「近頃儒者は経書や史書のどこを教えるか」と問われた。太子は「昨日は漢書の七国が漢に叛(そむ)いたことを教え聞かせました」とお答えした。それから話はそのことについて続いて、太祖は、「その正・不正は何方(どちら)に有るか」と問う。太子が、「不正は七国にあると聞きました」と答えと、その時太祖は頷かず、「イヤ、それは講官(こうかん)の偏(かたよ)った説である、景帝が太子で在った時にささいな口論から、六博(りくはく)の盤を投げつけて呉王の太子を殺したことがある。帝になると晁錯(ちょうさく)の進言を入れて諸侯の領地を削った。七国の乱は実にこれが原因である。諸子にこのことを教えるのであれば、藩主たる者は、上(かみ)は天子を尊び下(しも)は百姓をいつくしみ、王室を守り輔(たす)ける諸侯となって、天下の公法を乱すなかれと云うべきである。このようであれば、太子たる者は親族を厚く遇して親愛の情を深めることを知り、諸子たるものは王室を支えて君臣の道を尽くすことを知るであろう」と評された。この太祖の言葉は、正に太祖が胸中の意(おもい)を表されたもので、早くからこのような思いがあったればこそ、それから二年後の洪武三年に梜・棡・棣・橚・楨・榑・梓・杞・檀の九子を各地に封じて、秦・晋・燕・周などの王にして、その甚だしい者では生まれて二才、或いは生まれて僅か二か月の者ですら藩主にして、次いで洪武十一年と同二十四年にも幼弱な諸子をも封じられたのである。そしてまた早くからこの思いがあったればこそ、葉居升の進言を深く怒って、これを獄死させて仕舞ったのである。しかも太祖が懿文太子に漢の七国叛乱の事を諭(さと)した時は、建文帝が未だ生まれてない明の国号が初めて立ったばかりの時である、何でその後のことが測(はか)り知れよう。この太祖の深慮遠謀が、太祖が死ぬと直ちに禍(わざわい)のキッカケとなって、乱が展開され、懿文太子の子の建文帝が昔の漢の七国叛乱のように苦しもうとは、不世出の英雄である太祖も、運命の前ではただこれ一片の落葉のように秋風に舞うだけである。
 七国の事、七国の事、アア、これ何と明の王室と因縁の深いことか。洪武二十五年九月、懿文太子の後をうけて子の允炆皇太孫は位に即かれた。帝位継承は正にこのようにあるべきであり、万民の願うところである。皇帝が命令を下し、天下は喜んで「皇室万福」と慶賀する。太孫がすでに皇太孫となって明らかに跡継ぎに成られた上は、年が若くてもやがて天下の君主である。諸王は功績あり能力ありといえども、やがて頭を下げて君命を戴く身であれば、道理の上からもこれを敬うべきである。であるのに、諸王は積年の権勢と広大な領地の勢いを借り、且つ、叔父を笠に着た不遜なことが多く、皇太孫はどんなに心苦しく思われたことか。ある日、東角門に坐して、侍読(じどく)で太常卿の黄子澄(こうしちょう)に諸王の驕慢の状態を告げて、「叔父たちは各々大国大軍を擁し、且つ、叔父を笠に着て傲然と余(よ)に対す。この先どうしたものであろうか」と云われた。子澄、名は湜(てい)、江西省分宜(ぶんぎ)県の人、洪武十八年の試験に第一等で合格したことで、累進してここまで昇進する。しかし、経書や史書には精通しているが世情に通じているとは云えず、ただただ皇太孫の先生として日々専心勤めていたが、皇太孫のためにと、「このような例は昔もありましが、しかし諸王の兵が多いと申せども、もともとは護衛の兵であって自衛に役立つだけのものであります、どれほどの事がありましょう。漢が七国の領地を削ると七国は叛(そむ)きましたが、間もなく平定されました。天子の軍がひとたび乗り出せば誰がこれに対抗出来ましょう。当然のこと軍勢の大小の差や順逆の道理からもそうなります。ご安心下さい。」と七国の例を引用して答えると、太孫は子澄の答えを「成程」と信じられた。太孫未(いま)だ年若く、子澄は世情に暗い、どうして分かることがあろう。この時の七国の話の後日に山崩れ海湧くような大事変が起ころうとは。
 太祖は洪武三十一年五月に病(やまい)を発して、同閏(うるう)五月に西宮(せいきゅう)で崩じられる。その遺言には考え感じさせることが多い。山戦・野戦また水戦、何度となく危険な状況を経験し、財無く地位無く家も無く、何等頼れる者もない孤独の身を奮い、遂に国土を統一し天下に君臨して心を尽くして世を治め、思いを尽して民を救い、そして礼を尊び学を重んじ、忙しい中にも読書を止めず、孔子の教えを厚く信じて、「孔先生は、まことに万世の師である。」と仰って、心から孔子の教えを尊び仰ぎ、施政の大綱は必ず孔子の教えに依拠し、また若い時から仏教に通じ内典を知っていたが、梁の武帝のようには淫溺(いんでき)せず、また老子を愛して恬静(てん(せい)を喜び、自ら「道徳経註」二巻を編纂して、解縉(かいしん)には上疏(じょうそ)の書状の中で学の純で無いこと非難されたが、漢の武帝のようには神仙を好まず、かつて宋濂(そうれん)に、「君主はよく心を清くして欲を少なくし、民を郷里に安住させ、衣食が足り、隅々まで民に安心を感じさせることが出来れば、これが則ち神仙の世である」と云い、詩文を善くして、文集五十巻と詩集五巻を著わされたが、詹同(せんどう)と文章を論じては、「文はただ誠意の溢れ出るものを尚ぶ」として、また洪武六年九月には詔(みことのり)をして公文書の対偶文辞の使用を禁じて、無益な修飾を制限されたことなど、まこと学に通じられること広く、捉われること少なく、文武を兼ねて有し、知勇を併せ備え、体験心証、皆豊かで深い、この一大偉人である明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝(かいてんこうどうちょうきつきょくたいせいしじんじんぶんぎぶしゅんとくせいこうこうこうてい)と云う諡(おくりな)にそむかない李元璋(りげんしょう)、字は国瑞(こくずい)が、死に際して言われところはどうだ。小さな鳥でも死に際しては、その声は人を動かすと云うではないか。太祖の遺言に考えさせ感じさせるものは無いか。遺言に云う、「朕は天命を受けて帝位に在ること三十有一年、憂危の心を以って日々勤めて怠らず、もっぱら民の益のためにと志したが、いかんせん貧民から身を起こしたため、古聖人のような博(ひろ)い知識が無く、善を好み悪を憎むことの足りないところも多かった。今年七十一、筋力衰え、朝夕危惧することは、思うことを果たせずに終わることである。今や死という万物自然の理に遭遇する、それをどうして心配しよう。皇太孫允炆は思いやりあり、親に孝、兄弟仲良く、天下皆心を寄せる、正に帝位に登るべし、中外の文武臣僚は心を合わせてこれを輔佐し、以て人民を幸福にせよ。葬儀はひとえに漢の文帝のようにして異なることのないよう、天下に布告して朕の思いを伝えよ。孝陵の山川(さんせん・景観)は古いからと云ってこれを改めてはいけない。天下の臣民の哭(こく)に臨むのは三日の間にして、その後は婚姻のことなども妨げてはいけない。諸王は国に留まって哭し、都に出て来てはいけない。すべて令にないことはこの令に準じて従え」と。 
 アア、何とその言葉の人を感じさせることの多いことか。「憂危の心を以って日々勤めて怠らず、もっぱら民の益のためにと志して来た。」と云うのは、真(まこと)にこれぞ帝王の言葉であって、堂々とした正大の気象、和やかで情け深い気持ちは、百年後の人にも仰ぎ慕わせるものがある。「いかんせん貧民から身を起こしたため博い知識が無く」と云われたのは謙遜の態度であり、反省と工夫に熱心に取り組まれたことは真(まこと)に美(うるわ)しい。「今年七十一、筋力は衰え朝夕危惧する」とは、英雄もまた死が近づく事をどうすることも出来ない。そして、「今や死という万物自然の理に遭遇する、それをどうして心配しよう。」と云われるのは、さすがに孔子や孟子・釈迦・老子の教えを会得された言葉である。酒後に英雄多く死後に豪傑の少ないのが世の常であるが、太祖はこれぞ真の豪傑、生きて不老長寿の妄想を抱かず、死に臨んでは万物自然の運命に安んじ、従容として迫らず、安心して恐れず、偉大ではないか。「皇太孫允炆、正に帝位に登るべし。」と云うこの一言は、正に鉄で鋳られたような一言で、衆論の糸のもつれを一言で防ぐ。これは以前のことであるが、太孫が後継の位につかれると、太祖は太孫を愛していない訳ではないが、太孫の人柄は仁孝聡明で学を好み書をよく読むが、しかし勇猛果敢の意気に甚だ欠ける。このことを太祖は太孫が詩を作るたびに、「その詩は婉美(えん(び)柔弱(にゅうじゃく)で豪壮(ごうそう)魁偉(かいい)のところが無い。」として悦ばれなかった。ある日、太孫に詞句の対句を作らせたが甚だ気に入らない。そこで燕王に作らせたところ、燕王の句はなかなか佳(よ)い。燕王は太祖の第四子である。容貌が立派で髭美(うるわ)しく、智勇あり、大略あり、誠を通し、人に任せ、太祖に似たところが多い。太祖もこれを悦び、また周りも燕王に心を寄せる者がいて、このため太祖は後継を代えようと考えたが、この時に劉三吾がこれを止めた。三吾は名を如孫(じょそん)と云い元(げん)の遺臣であるが、博学で文章に長(た)けていたので洪武十八年に召されて仕える。時に年は七十三才。当時において汪叡(おうえい)や朱善(しゅぜん)と共に三老と云われた。人柄は不正を憎み、人に対して分け隔てせず、坦々翁と自称したことにもその風格がうかがえる。坦々翁の平生は実に坦々、文章学術で太祖に仕え、礼儀の制度や選挙の法を定める会議に加わり、法を定めたことも多い。太祖の法注が出来や君命を受けて序を作り、啓蒙の書の「省躬録」や「書伝会要」や「礼制集要」等の編集総裁となって、居ながらにして大儒者として世の認める人であった。そして、大きな節目に当たっては毅然として譲らず、懿文太子が亡くなると太祖の前に進み出て、「皇孫は世継ぎであります。皇統を継承なされるのが礼であります。」と云って周囲の迷いを落ち着かせ、太孫を後継者にした者は実にこの劉三吾であった。三吾は太祖の思いを知って黙ってはいられず、「もし燕王を立てたまえば、秦王や晋王をどの地に置きたまわるか」と云う。秦王や晋王は燕王の兄であり、孫を廃して子を立てることさえ定めを覆(くつがえ)すことであるのに、まして兄を越して弟を主君にするのは序列を乱すというものであります、どうして世が乱れないで済みましょう。と云う意味が言外に明らかなので、太祖も英明絶倫の君主である、即座に非を悟りたまわれてそのことは済んだ。このようなことがあったので、太祖自ら死後の動揺を防ぎ不穏の動きを抑えるために、特に厳しく、「皇太孫允炆、正に帝位に登るべし。」と遺言を遺されたのであろう。太祖の治を思う配慮は深く、皇孫を愛する情は篤い。「葬儀は漢の文帝のようにせよ」と云う。「天下の臣民が哭に臨むのは三日の間にして、後は皆喪服を脱ぎ平常にもどり、婚姻のことなどを妨げてはいけない」と云う、何と倹素で仁恕な言葉であろう。「文帝のようにせよ」とは華美にするなということである。「孝陵の山川は古いとして、これを改めてはいけない」とは、改装の工事などを起こしてはいけないとい云うことである。「婚姻のことなどを妨げてはいけない」と云うのは、民に迷惑を及ぼさないためである。「諸王は国に留まり哭して、都に出て来てはいけない。」と云うのは、諸王が葬儀のために領地を離れて都に出てくれば、その隙を見て元(げん)の残党や辺境の蛮族等が兵を挙げるようなことになって、戦火が延焼し燎原の勢いとなることを恐れたれたのであろう。これもまた愛民憂世の念(おもい)からの当然の言葉であろう。太祖の遺言、アア、何と人に感じさせることの多いことか。

 しかしながら太祖の遺言、考えるべき点もまた多い。「皇太孫允炆に天下皆心を寄せる、正に帝位に登るべし」と云われたのは何だ。すでに立って皇太孫である。遺言が無くても帝位に登れるのである。特に帝位に登るべしと云われたのは、或いは周囲に皇太孫が登らないことを望む者がいて、太孫は年も若く勇気もとぼしいので、自ら謙遜して諸王の中の大略雄材な者に位を譲られることを望む者がいたように思われる。「思いやりあり、親に孝、兄弟仲良く、天下皆心を寄せる」と云うのは何だ。明が世を治めて僅か三十一年、未だ元の残党は亡びない。また中国にいないにしても漠北や塞西や辺南に、元と同様に広大な領地を有して勢力を張る者があり、太祖の死後二十余年にも猶、大いに平和を乱すことがある、国外の状況はこのようである。であれば、国内は英主によって治められることが望ましい。思いやりあり、親に孝、兄弟仲良いことは尊いことではあるが、時勢が必要とするのは実は大略雄材である。「天下皆心を寄せる」と云うが、天下を十として心を寄せる者が七八に過ぎないことを恐れる。「中外の文武臣僚は心を合わせて、これを輔佐して以て人民を幸福にせよ」と云われたのは、文武臣僚の中に心を合わせない者のあることを恐れているようでもある。太祖の心に安心できないものが有るのではないか。「諸王は国の中で哭し、都に出て来てはいけない」と云うのは何だ。諸王がその領国を留守にして悪臣の乗ずるところとなるのを恐れるというが、諸王の臣に一時の留守を託せる者の無いことはあるまい。子が親の葬儀に出るのはコレ自然の情であり当然なことである。礼に背き道に反することをさせて諸王に会葬させないという遺言は、果たして太祖の言葉から出たものか。太祖がこれを遺言したとすれば、太祖は密かに嘗(かつ)て葉居升が云った、「諸王が衆を率いて入朝して、甚だしければ隙を見て決起いたしましょう、決起されてはこれを防ぐことが出来ません。」と云った事を思われたのであろうか。アア、子であるのに親の葬儀に出られない、父の考えだとしても子からして見れば、父に期待されていない憾(うら)みが生じる。遺言は或いは時勢に中(あた)っているかも知れない。しかし実に人情に遠いと云える。およそ行為であれ命令であれ計画であれ意見であれ、それが人情に遠いこと甚だしければ、善意であっても、理屈が通っていても、計画が中っていても、意見が通っていても、必ず弊害が生じてよくない事が起こるものである。太祖の遺言は善い、しかし人情に遠い。これ以前の洪武十五年に皇后が亡くなられた時は、秦王や晋王や燕王等諸王は皆領国に在ったが、諸王は会葬のために都へ上って葬礼を果して帰国した。太祖の死と皇后の死では天下に与える影響は異なるといえども、母の葬儀には会葬できて父の葬儀には会葬できない。コレまた人を強(し)いて人情から遠くする。太祖の遺言は真(まこと)に人情に遠い。どうして弊害や凶事の原因にならないことが有ろう。果たして事変の始まりは此処から発したのである。死を聞いて諸王は会葬のために都に入ろうとし、正に燕王が淮安(わいあん)に着こうとした時に、齊泰(せいたい)が建文帝に進言して、勅使(ちょくし・使者)を派遣し諸王を領国に還(かえ)らせた。燕王を始めとして諸王は皆大いに悦ばず、これは兵部尚書の齊泰の仕業であると思った。建文帝は位について劈頭(へきとう)一番に諸王を悦ばせた。「諸王は帝の叔父である、尊属である、領国を有し、兵馬民財を有する。諸王に悦びが無ければ、宗家の繁栄と皇室の守りをどうしよう」と。アアこの罪は齊泰にあるのか建文帝にあるのか、ソモまた遺言にあるのか諸王にあるのか、これは分からない。また思い返せば太祖の遺言に、果して諸王が葬儀に臨むのを禁じる言葉があったものか、どうも疑わしい。太祖は人情に通じ世情に通じる。正にそのような遺言こそ遺されるべきである。もし太祖が、自身の葬儀に際して諸王の会葬を望んでないのであれば、平生無事の時において、或いは諸王が都を去って領国に赴く時において、親しく諸王に意(おもい)を話すべきであった。であれば諸王もまた葬儀に赴く途中において、止められるような不快な事に会うことも無く、各々がその領国で哭臨(こくりん)し、他を責めることも無かったであろう。太祖の智がこのことに思い及ばず、遺言を遺して諸王の情を不快にするとは、到底理解の出来ないことである。人は不快になれば悦ばない、悦ばなければ恨みを懐いて他を責めるようになる。恨みを懐いて他を責めるようになれば無事では済まない。太祖は人情に通じる、何でこれを明察出来ないことがあろう。そこで云う、太祖の遺言で諸王の会葬のための入京を止(と)めたのは、太祖が為したことでは無くて、齊泰や黄子澄の輩が謀ったところであろうと。齊泰の輩はもともと諸王が帝を害することを恐れる。遺言を改竄(かいざん)する例は世に多い。このような事が無かったとは云えない。しかしながらこれは推測の言葉である。真か偽か、太祖の過失か否か、齊泰の為したことか否か、それともまた齊泰が遺言に託(かこつ)けて諸王の入京会葬を止めざるを得ない情勢があったためか否か、建文帝と永楽帝とのことは史書にも事実を偽る記述が多い。今、あらたな史実が得られないのであれば、疑いがのこるだけで、確かな事を知ることは出来ない。(②につづく)

注解
・禹:中国古代の伝説的な帝王。夏王朝の創始者で黄河の治水を成功させたという。「史記・夏本紀」
・湯:中国古代・殷王朝の初代の王。湯王が夏を滅ぼしたのち七年間も大日照りが続いた、そこで湯王は桑林で神をまつり雨乞いをしたところ、大雨が降って国中が潤ったという。「史記・殷本紀」
・始皇帝:始皇帝は中国史上初めて天下統一した秦王朝の初代皇帝。水神が華陰の夜に現れ・・・「史記・始皇帝本記」
・玄宗皇帝:中国・唐の第六代皇帝。治世の前半は開元の治と称された善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛したことで安禄山の乱の原因を作った。
・一行阿闍梨:一行、中国・唐の僧、密教の真言八祖の一人。阿闍梨は密教伝授の師の名称。
・安禄山の乱:玄宗皇帝の寵遇を受けていた安禄山が起こした反乱。玄宗は一時蜀に逃れた。
・建文帝:中国・明の第二代皇帝。靖難の変により永楽帝に帝位を簒奪された。
・永楽帝:中国・明の第三代皇帝。靖難の変を起こし帝位を簒奪する。建文帝の叔父にあたる。
・滝沢馬琴:江戸後期の読本作家。代表作は「椿説弓張月」「南総里見八犬伝」「開巻驚奇侠客伝」など。
・鹿鳴草舎の翁:江戸後期の国学者の萩原広道。
・楠公:楠木正成。南北朝時代の武将、正成は南朝の後醍醐天皇を奉じ北朝側の足利尊氏に対抗して湊川の戦いで敗れて自害した。公は稲荷大明神を守護神としていた。
・都指揮:地方軍事組織の司令部である都司の将官。都司将官。
・回天の事業:天下の形勢を一変させる事業。
・北京:北平。永楽帝の時に北京に改称。
・陳渉:中国・秦末の農民反乱の指導者。
・張角:中国・後漢末の黄巾の乱の指導者。
・洪武帝:明の初代皇帝、廟号は太祖、諡号は高皇帝。その治世の年号から洪武帝と呼ばれる。
・詔:天皇の仰せを書いた文書。宣旨。
・諡:死後の称号。
・懿文太子:洪武帝の長男で皇太子。第二代皇帝建文帝の父。
・翰林学士:翰林院学士職。皇帝の詔勅の作成や史書の編纂などを担当する翰林院にあって、詔勅の作成などを担当する学者。
・劉三吾:中国・元末明初の儒学者で官僚。懿文太子が死去すると、洪武帝は東閣門に群臣を召し出して諮問した。三吾は進み出て、太子の嫡子である皇孫に皇統を嗣がせるのが礼であると述べた。
・谷応泰:中国・明末清初の中国史家。字は賡虞、号は霖蒼。
・刑部尚書:中央政府にあって司法を掌る刑部の大臣。刑部大臣。
・律は大法を設け・・:後漢の県令卓茂の言葉、「律は大法を設け、礼は人情にしたがう。今、我れ汝を霊を以って汝を救う。汝、必ず怨悪無からん。律を以って汝を収めれば何ぞその手足を措くところあらんや。」
・靖難の変:明の太祖・洪武帝が死ぬと、北平(後の北京)の燕王棣(後の永楽帝)が「君側の奸を除き、帝室の難を靖(やす)んずる。」ことを口実に挙兵して第二代皇帝の建文帝から帝位を簒奪した争い。
・葉居升の上書:「万言書」。
・漢の七国の事:漢の初代皇帝の高祖は諸子一族を各地に封じて帝権の安定を図ったが六代景帝の時に、呉・楚・趙などの有力な七国が朝廷に対して反乱を起こした。
・晋の諸王の件:中国・西晋の武帝が没し恵帝が即位すると、皇后の賈后とその外戚が実権を握ったが、諸王の一人趙王が賈后を殺害し一時晋の帝位を奪ったが、一族の諸王も各地で兵を挙げて大混乱に陥った。
・賈誼:中国・前漢の政治家・思想家・文学家。
・六博の盤:囲碁と並ぶ古代中国の遊びである六博で用いる盤。
・晁錯:中国・前漢の政治家。諸侯の勢力を削る政策を進めたが、反発を受け七国の乱を招き殺される。
・侍読:翰林侍読。翰林院に属して天子や皇太子に学問を教授。翰林院侍読職。
・黄子(こうし)澄(ちょう):中国・明初の官僚。侍読として建文帝に仕えて太常卿に任命される。
・孔子:中国・春秋時代の思想家、哲学者。儒家の始祖。
・梁の武帝:中国・南北朝時代の南朝・梁の初代皇帝。仏教保護と文化興隆に傾注したため、ほぼ一代で滅んだ。
・老子:中国・春秋時代の哲学者。道家は彼の思想を基礎とする。後に生まれた道教は彼を始祖に置く。
・解縉:中国・明の翰林学士、永楽帝に任用されて諸制度の確立に尽力した。
・宋濂:中国・明初の学者。太祖に招かれて側近となり明朝の礼楽を多く制定し、『元史』編纂では総裁官とされた。 翰林学士承旨・知制誥まで進んで全ての制誥文を担当した。
・詹同:中国・元末明初の儒学者で官僚。
・対偶文辞:表現が違っていても本質的な論旨が変らない関係にある対の文の文辞をいう。
・孝陵の山川:洪武帝と皇后の墳墓。
・哭:泣き叫び悲しんで死者を送る儀式。
・孟子:中国・戦国時代の儒者
・釈迦:仏教の創始者。
・齊泰:中国・明初の官僚、洪武帝に仕えて皇太孫の側近になったが、建文帝が即位すると兵部尚書に任命さる。
・勅使:勅旨を伝えるために天皇が派遣する使者。
・兵部尚書:中央政府にあって軍事を掌る兵部の大臣。兵部大臣。

◎参考(当時の状況と明の組織)
元を倒して明を建国した洪武帝(太祖)は、国の安定を図るために子供達を王として各地に封建し、辺境の王には外敵への対応、内地の王には少数民族への対応を期待した。各王府には承奉司と長史司が置かれ、承奉司は府内の諸事を、長史司は中央との連絡・奏上と王府を輔導の任務を担った。朱子学による王府の輔導を期待した洪武帝は長史司に多くの儒者を配属した。また王府の軍隊として左・中・右の三ツの護衛が置かれた。また中央には尚書(大臣)・侍郎(次官)以下司務や郎中など属官で構成する、史部(人事)・戸部(財務)・礼部(儀礼)・工部(建設)・刑部(司法)・兵部(軍事)の六ツの部局が置かれそれぞれ内政を担当した。また都御史(長官)・副都御史(副長官)・僉都御史(事務官)・監察御史(巡察官)などで構成された地方行政監察機関としての都察院や翰林学士(詔勅の作成)・侍読(学問の教授)・編修(史書の編纂)などで構成され皇帝の詔勅の作成や史書の編纂などを担当する翰林院や天文を担当する欽天監などが置かれ、また地方には行政を担当する布政使司(布政司)と地方行政の監督を担当する按察使司(按察司)の二ツの役所が置かれ、それぞれ布政使(布政司長官・知事)とその属官の参政(次官・副知事)・都事(事務官)。按察使(按察司長官)とその属官の副使(次官)・僉事(事務官)が配置された。また国防については左軍(浙江・遼東・山東方面軍)・右軍(雲南・貴州・四川方面軍)・中軍(中央軍)・前軍(福建・湖西・広東方面軍)・後軍(北平・山西方面軍)の五ツの都督府(統括本部)を置いて、都指揮使司(都司)以下の地方軍事組織(都司は数衛所を率い、衛所は五千戸所で構成、千戸所は十百戸所で構成)を統括させた。国境の防衛(鎮守)に際しては都督府の都督(司令官)が総兵官として都指揮使配下の衛所兵と諸王の護衛兵を率いて対処する形になっていた。しかし親族の一致団結で国を護る方針の太祖は、当初は歴戦のつわものである建国の勇将の下に経験を積ませていたが、建国の武将たちが粛清によって次々と去った洪武二十年頃からは、親王を国境防衛の統率者として衛兵や護衛兵を率いて辺境の外敵に当たらせるようになった。そのため北辺の王の力は大きくなり、特に兄の秦王や晋王が死んだ後の燕王の力は強大で、太祖の死後の皇室にとって脅威となっていた。




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