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幸田露伴の小説「五重塔21~25」

       その二十一

 紅蓮(あかはす)や白蓮(しろはす)のゆかしい香りが袂(たもと)の裾に薫って、浮葉(うきは)に露の玉がゆらぎ立葉(たちは)に風のソヨと吹く面白(おもしろ)い夏の眺めは、赤トンボや菱藻(ひしも)をなでて初霜が向ヶ丘の梢を染めた後は、全てサラリと無くなったけれども、赭色(たいしゃ)に枯れた蓮の茎だけが情けなく立つ間を、世を忍ぶように白鷺がソロリソロリと歩む姿もおかしく、紺青色(こんじょういろ)に暮れて行く空に、次第に輝き出す星を背中に擦って飛ぶ雁の鳴きわたる音も趣きのある、不忍の池の景色を景物(さかな)に、酒を亀の子に飲ませるほどに飲ませる蓬莱屋の裏二階で、気持好さそうな顔をして嬉しそうに人を待つ一人の男。唐桟(とうざん)揃いのアッサリづくりに住吉張りの銀煙管(きせる)もおとなしく、職人らしい勇み肌風の物云いや素振りでいて、少しも下卑(げび)ない上品な様子、サゾや親方親方と多くの者に立てられる棟梁株の人であろうと、予(かね)てから思い知る馴染のお伝と云う女が、「サゾお待ちどおでござりましょう」と膳を置きながら云う世辞(せじ)を、待つ退屈さに捕まえて、「待ち遠しくて、待ち遠しくて堪らない、ほんとに人の気も知らないで何をしているのだろう」と云えば、「それでもお化粧に手間のかかるのも無理のないハズ」、と云い差してホホと笑う慣れきった返しの太刀筋。「アハハハ、それももっとももじゃ、今に来たらよく見てくれ、マア恐らくこの辺には類が無かろうというものだ」、「オヤ恐ろしい、何をおごって下さります、そして親方、と云うものはお師匠さまですか、イイヤ娘さんですか。イイヤ後家さま、イイヤお婆さんですか」、「馬鹿を云え可愛想に」、「では赤ん坊」、「こやつめ人をからかうな、ハハハ」、「ホホホホホ」とくだらなく笑うところへ、襖の外から、「お伝さん」と名を呼んで「お連れさま」と知らせれば、立上って唐紙を開けにかかりながら一寸後ろを振り向いて、人の顔へ意味ありげに眼をくれて無言で笑うのは、「嬉しいでしょう」とからかって焦らして底喜びさせようとする冗談だが、源太が却って心から可笑しく思うとも知らないで、お伝がスイと開ければノロリと入って来る客は、色気のある新造どころか香りも艶もない無骨男、ボウボウ髪のゴリゴリ顎鬚、顔は汚れて、衣服の垢づき破れた、見るからに厭気がゾッと立つ程の様子に、さすがに呆れて挨拶さえドギマギして急には出ない。
 源太は笑みを含みながら、「サア十兵衛ここへ来てくれ、構うことはない大胡坐で楽にしてくれ」と、オズオズするのを無理に座に据え、やがて膳部が備わった後、サテ改めて飲み干した杯をとって源太は差して、黙っている十兵衛に向かって、「十兵衛、先刻富松をわざわざ遣ってこのような所に来てもらったのは、何でも無い、実は仲直りをして貰いたくてだ、どうかお前とアッサリ飲んで互いの胸を和解させ、過日(こないだ)の夜に俺が云ったアノ云い過ぎを忘れて貰いたいと思うからだ、聞いてくれコウ云う訳だ、過日の夜は実は俺もお前を分らない奴と一途に思って腹を立て、恥しいが肝癪を起こし業も沸(にや)してお前の頭を打ちくだいてやりたいと思ったほどだが、しかし、幸せなことに源太の頭は悪玉にばかりに乗取られずに、清吉の奴が家へ来て酔ったあげくに云い散らした無茶苦茶を、アア、考えの小い奴はつまらないことを理屈らしく恥かしくも無く云うものだと、聞ているさえ可笑しくて、堪らなくて、フとそう思ったその途端、その夜お前の家で並べ立ててきた俺の云い草は、気がついて見れば清吉の言葉と似たり寄ったり、エエッ間違った、一時(いっとき)の腹立ちに捲き込まれたか残念、源太の男がすたる、意地が立たない、上人のさげすみも恐ろしい、十兵衛がなにもかも捨てて辞退するものを変に受け取って、逆意地(さかいじ)を立てたのは大間違い、とは思っても、余りにお前が分らな過ぎるので腹立しく、四方八方どこからどこまで考えて、ここを押せばあそこに歪が出る、あすこを立てればここに無理があると、マア俺の知恵分別のありたっけを尽して、俺の為ばかりを考えないで云ったことを、素っ気なく云い消されたのが忌々しくて忌々しくて、ずいぶん我慢も仕かねたが、サテいよいよ考えを決めて上人様にお眼にかかり考えを申し上げると、好い好いと仰せられたその一言にモヤモヤはもう無くなって、清(すず)しい風が大空を吹いているような心持(ここち)になったハ、昨日はまた上人様からわざわざのお招きで行って見ると、俺をお褒めのお言葉の数々、その上で、いよいよ十兵衛に普請の一切を申し付けたが蔭になって助けてやれ、皆其方(そなた)の善根福種になるのじゃ、十兵衛の手には職人もおるまい、彼がいよいよ取り掛かる日には何人も雇うその中に其方の手下の者も交(まじ)ろう、必ず嫉みや僻みなど起こさないようにそれらの者に其方から能く云い含めてやるがよいとの細いお諭し、何から何まで見透しのお慈悲深い上人様のありがたさにつくづく感心して帰って来たが、十兵衛、過日(こないだ)の云い過ぎは堪忍してくれ、コウした俺の心意気が分ってくれたら今までどおり清く仲良く付き合ってもらおう、一切がコウと決って見れば何と思った彼(か)と思ったは皆夢のような無意味な話、後に遺せば面倒こそあれ益の無いこと、この不忍の池の水にサラリと流して俺も忘れよう、十兵衛お前も忘れてくれ、木材の調達や鳶人足の手配などは、まだ顔の売れていないお前にはちょっと仕難(しにく)がろうが、それ等には俺の顔も貸そうし手も貸そう、丸丁、山六、遠州屋、良い問屋は皆馴染で無くては先方がこちらを見くびってならない、万事歯痒いことの無いよう俺の名を自由に出して使え、め組の頭の鋭次(えいじ)というのが短気なことはお前も知っているだろうが、憚りながら骨は黒鉄(くろがね)、性根は火の玉だと普段云うだけあって、サテじっくり頼めばグッと引き受けて一寸も退(ひ)かない頼もしい男、塔は何より地盤が大事、空風火水(くうふうかすい)の四ツを受ける地盤の固めを彼にさせれば、火の玉鋭次の根性だけでも不動の台座を岩より堅く、基礎を確り据させると諸肌脱いでしてくれるのは間違いない、彼にもやがて紹介しよう、コウなった暁には俺の望みは唯一ツ、天晴れ十兵衛お前が能く仕出かしてくれさえすりゃアそれで好いのだ、ただただ塔さえ能く出来ればそれに越した嬉しいことは無い、かりそめにも百年千年の末世に遺(のこ)って、云わば俺達の弟子筋の奴等の眼にでも入った時にヘマであっては悲しかろうではないか、情けないではなかろうか、源太十兵衛の時代にはこの様なくだらない建物に泣たり笑ったりしたそうだと云われた日には、ナア十兵衛、二人の舎利(しゃり)も魂(たましい)も散々に悪口を云われて消し飛ばされるぜ、拙(へた)な細工も世に出なければ恥も却って少ないが、遺したものを弟子等に笑われた日には馬鹿親父が息子に意見されたと同じで、親に意見される子よりも何段にも増して恥かしかろう、生磔刑(いきはりつけ)されるより死んだ後で塩漬けの上で磔刑(はりつけ)になるような目にあってはならない、初めは俺もこれほどに深く思いも寄らなかったが、お前が俺の対面(むこう)に立ったその対抗心から、十兵衛に塔を建てさせて見ろ源太に劣りはしないと云うのか、クソ源太が建てて見せくれようナニ十兵衛に劣るものかと、腹の底で擦(こす)り合い、出した火で見る先の先、我意は何にも無くなった、ただ好く出来てくれさえすればお前も名誉、俺も嬉しい、今日はこれを云いたいだけだ、アア、十兵衛その大きな眼をうるませて聴いてくれたか嬉しいぞ」と、磨いて研いで研いで研いで研いだ生粋のねばり気(け)なしの江戸ッ子だ、一(ぴん)で無ければ六と出る、怒りの裏の優しさの飽くまで強い源太の言葉に、身じろぎしないで聞いていた十兵衛、何も云わず畳に食いつき、「親方、堪忍してくだされ口がきけません、十兵衛口がきけません、こ、こ、このとおり、ああ、有り難うござりまする」と、愚かしくも真実にただ平伏して泣いている。

注解
・菱藻:水面に浮く水草の一種。(不忍池の水面を覆っている)
・向ヶ丘:蓬莱屋(上野方面)から見て不忍池の向うに見える台地(現在は東大などがある台地)。
・裏二階:江戸時代は武士を見下ろさないようにとの理由で二階建ての町屋は認められなかった。そこで一階の屋根裏に窓を開けて作られた二階のこと。
・唐桟揃い:唐山(紺地に浅黄・赤・黄・茶などで織った縦じまの綿織物)で羽織・着物を揃えた姿。
・住吉張りの銀煙管:江戸・下谷の煙管屋・住吉屋製の銀煙管。
・め組の頭:め組は江戸町火消しの一ツ、平時は鳶職を兼ねていた。
・空風火水の四ツ:仏教では、空風火水地の五大要素から成ると云う。その空風火水の四ツを受ける地(基礎)。
・ヘマ:不出来
・一で無ければ六と出る:サイコロの一の目の裏は六、一(怒り)で無ければ六(優しさ)を出す、サッパリした江戸っ子の気性。

       その二十二

 言葉は無くても誠の見える十兵衛のそぶりに源太はよろこび、春風が湖(みず)を渡って霞(かすみ)が日に蒸すとでも云うように、温和の表情を顔にあらわし、尚もやさしく語気なだらかに、「コウ打ち解けてしまった上は、互に不妙(まず)いことも無く、上人様の思し召しにも叶い俺達の一分も立つと云うもの、アア何にせよ好い心持、十兵衛お前も過してくれ、俺も今日は充分酔おう」と云いながら違い棚に載せておいた風呂敷包みを取り下ろし、結び目を解いて二束(ふたたば)にした書類を出して、十兵衛の前に置いて、「俺には必要の無いこの品の、一ツは面倒な材木の詳細を調べたのから、運搬費用その他種々様々な入費を幾晩もかかってようやく調べあげた見積書、又一ツは彼処(あそこ)をドウして此処をコウしてと工夫に工夫をこらした下絵図で、腰屋根の地割だけなのもあり、平地割だけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出組(だしぐみ)ばかりなのもあり、雲形・波形・唐草・生類(しょうるい)の彫り物だけを書いたのもあり、何よりも面倒な真柱(しんばしら)から内法長押(うちのりなげし)、腰長押、切目長押に半長押、椽板、椽かつら、亀腹柱、高欄垂木、桝肘木(ますひじき)、貫(ぬき)やら角木(すみぎ)の割合などの計算方法、墨縄の入れ方、曲尺(かねじゃく)の使い方などを余さず洩さず記したのもあり、中には俺だけが持つ我家秘蔵の先祖の遺品(かたみ)、外へは出せない絵図もあり、京都や奈良の堂塔を写し取ったものもあり、これ等は全てお前に預ける、見れば何かの足しにもなろう」と、自分が心を込めたものを惜し気なく譲り与える胸の広さを頼母しく思わない訳では無いが、のっそりにものっそりの気性がある。他人(ひと)の力を借りて成すような事は好まない、「親方まことに有り難うはござりまするが、御親切は頂戴したも同然、これはそちらに御納めを」、と心はそれほどでも無いが言葉に素っ気の無さ過ぎる返事をすれば、源太は大いに心を害し、「これをお前は要らなと云うのか」と怒りを底に隠して問うのに、のっそりはソウとは気づかず、「別段拝借いたしても」と一句迂濶(うかつ)に答える途端、鋭い気性の源太は堪らず、「親切の上に親切を尽して俺が知恵や思案を尽した絵図まで与えようというものを、素っ気なく返すというのか、これは意外、どれほどお前の手腕(うで)が好いと思って他人(ひと)の情けを無にするのだ、ソモソモ最初にお前が俺の相手に立った時にも腹は立ったが、ジッと堪えて争わず、普通の者ならば俺のお陰で生きる身で俺の仕事に手を出すだろうか、打ち叩いても飽き足りない奴、と怒って怒って何(どう)にかするのを、可愛いと思えばこそ一言半句の厭味も云わず、ただただ自然の成り行きに任せて置いたのを忘れたか、上人様のお諭しを受けた後も考えに考えをこらし、わざわざ出掛けてお前のために相談してやっても勝手な意地を張り、普通ならとても我慢できないところを、よくよくお前を可愛いと思えばこそ堪(こら)えたのを分らないのか、お前の運が好いだけで、お前の手腕(うで)が好いだけで、お前の心の正直だけで、上人様から今度の仕事を命じられたと思っているのか、この品を与(や)ってこの俺が恩がましくするとでも思うのか、又はもう既に慢心して頭から何の詰らないものと俺の絵図を易(やす)く思うのか、要らないと云うのなら強要(しい)はしない、余りにも人情のない奴、ああ有り難うござりますると喜び受けて、この中の仕様を一ツ二ツ用いた上で、あの箇所はお蔭げで上手(うま)く行きましたと後で挨拶するほどの事があっても当然なのに、開けもしない覗きもしないで、知れ切ったことと云わないばかりに、愛想も素気(そっけ)もなく要らないとは、十兵衛よくも拒んだナ、この源太の図の中はお前の知ったものだけか、お前等の工夫の輪の外に源太が跳り出ないで居るものか、見るに足りないとお前が思うようなら、お前の腕も知れている、お前の塔も高(たか)が知れている、建たない前から眼に見えて気の毒ながら難もある、もはや堪忍の緒も切れた、卑劣な仕返しは仕ないけれども、俺も烈しい仕返しをする時に仕ないでは置かない、今までは酸っぱくなるほど口もきいたが、最早きかない、一旦思い切った上は口をきくような未練は持たない、三年でも十年でも仕返しするのに充分な事のあるまで物蔭から眼を光らせて見詰め、無言でジッと待っててやろう」と、気性が違えば考えも一二度終(つい)に三度目で無残至極に食い違い、たいそう物静かに言葉を低めて、「十兵衛殿」と殿の字を急に付けて丁寧に、「要らないという図は仕舞いましょう、お前一人で建てる塔さぞや立派に出来ようが、地震か風のある時に壊れることは有るまいナ」と軽く云うが、嘲(あざけ)りの深い言葉に十兵衛も快(こころよ)くなく、「のっそりでも恥は知っておりまする」と底力のある楔(くさび)を打てば、「中々見事な一言じゃ、忘れないように覚えて居よう」と釘をさしつつ、恐ろしく睨んだ後は物云わず、やがて急に起ち上って、「アア、飛んでも無い事を忘れた、十兵衛殿ゆるりと遊んで居てくれ、俺は帰らなくてはならないこと思い出した」と、風のようにその座を去って、アレッと云う間に推定勘定、幾金(いくら)か遺してフイと出て、直ぐその足で同じ町の或る家の敷居をまたぐやいなや、「厭(や)だ厭だ、厭だ厭だ、詰らねえ下らねえ馬鹿馬鹿しい、愚図愚図しないで酒をもって来い、蝋燭(ろうそく)いじってそれが食えるか、ドジめ肴で酒が飲めるか芸者を呼べ、小兼・春吉・お房・蝶子、四の五の云わせず掴(つか)んで来い、足の達者な若い衆を頼もう、我家(うち)へ行って清・仙・鉄・政、誰も彼も直ぐに遊びに寄越すよう」と云う片手間に、グイグイ呷(あお)る、間も無く入って来る女共に、「今晩はなぞとは手ぬるいゾ」と、真っ向から苛立ちを吹っ掛けて、「飲め、酒は車懸かり、猪口は巴と廻せ廻せ、お房気取るな、春婆(はるばあ)かしこまるな、エエお蝶それでも血が循環(めぐ)っているのか頭に鼠花火をのせて火をつけるぞ、サア歌え、じゃんじゃんやれ、小兼め気持の好い声を出す、あぐり踊るか、かぐりもっと跳ねろ、ヤア清吉来たか鉄も来たか、何でも好(い)い滅茶滅茶に騒げ、俺に嬉しい事が有るのだ、無礼講に遣れ遣れ」と大将が無暗に元気なので、後れて来た仙も政も煙に巻かれて浮かれたち、天井が抜けようが根太(ねだ)が抜けようが抜けたらこちらのお手のものと、飛ぶやら舞うやら唸るやら、潮来出島の歌もしほらしく無く、甚句に鬨(とき)の声を湧かして、カッポレに滑って転び、手品の太鼓を杯洗(はいせん)で鉄が叩けば、清吉はお房の傍に寝転んで「簪(かんざし)にお前そのように酢ばかり飲んで」を稽古する馬鹿騒ぎの中で、政が得意げに木遣りの声を丸くしたような声で、「北に峨々たる青山を」と乙なことを吐き出すという勝手三昧、大騒ぎの末は拳(けん)遊びも下卑て、乳房の脹(ふく)れた奴が臍の下に紙の幕を張るほどになれば、「サアもう此処は切り上げて」と源太が一言、それから先は何処へ行ったやら。

注解
・腰屋根の地割:腰屋根(通風や採光のために大屋根の上に設ける小さい屋根)の配置。
・平地割:平面図。
・初重の仕形:塔の一番下の屋根の構造図。
・二手先・三手先・出組:壁面から出ている屋根を支える組み物の部位のそれぞれの名称。
・雲形・波形・唐草・生類の彫り物:建物の各種装飾物。
・真柱:塔の衷心に下がっている柱。
・内法長押、腰長押、切目長押に半長押:壁面の周囲を飾る部材を長押と云い、開口部のすぐ上にあるのが内法長押、柱の低いところにあるのが腰長押、敷居と縁の境目にあるのが切目長押、普通の長押より幅の狭いものが半長押。
・椽板、椽かつら:縁の床板と側板か。?
・亀腹柱:漆喰を塗った饅頭型の基礎の上の柱。
・高欄垂木:欄干の垂木。
・桝肘木:軒を支える組み物の肘木。
・貫:柱と柱を繫ぐ水平材、貫(ぬき)木(ぎ)。
・角木:軒の四隅に張り出した大きな垂木。
・推定勘定:大方この位と推定した勘定。(を残して)
・蝋燭(ろうそく)いじって:灯りを点けようと蝋燭を手にしている。
・今晩は:芸者連が入って来ての挨拶。
・車懸かり:車輪のように次々と休みなく懸かる。
・巴と廻せ:巴字を書くようにグルッと廻せ。
・あぐり、かぐり:半玉(まだ一人前の芸者になっていない年少の芸者)の名。
・潮来出島:俗謡の「潮来節」、しおらしくという文句があるが、
・杯洗:酒席で杯を洗うための水を入れる器
・簪にお前その・・:俗謡の文句か
・木遣りを丸くした声:
・北に峨々たる青山を:長唄の「老松」。
・拳遊び:じゃんけんのように二人で手や指を使って勝負する遊び。
・乳房の脹れた奴:芸者や半玉。
・臍の下に紙の幕を張る:拳遊びで負けると一枚一枚着物を脱いでゆく。

       その二十三

 鷹の飛ぶ時は他所見(よそみ)をしない、鶴なら鶴の一点張りで雲をも突き抜け風にも向って、目指す獲物の咽喉仏を引っ掴むまでは納得しないものである。十兵衛はイヨイヨ五重塔の仕事が決まってからは、寝ても起きてもその事だけを思い、朝飯を食うにも心の中では塔を噛み、夜に夢を結ぶにも魂魄(こんぱく)は九輪の頂きを廻(めぐ)るほどなので、まして仕事にかかれば妻のいることも忘れ子のあることも忘れて、昨日の自分を頭に浮べず明日の自分を想いもせずに、ただただ手斧を振り上げ木を伐る時は満身の力をそれに込め、一枚の図を引く時には一心の誠をそれに注ぎ、自分の身体は犬が鳴き鶏が歌い権兵衛の家に吉慶があれば木工衛門の所には悲哀がある俗世に在りながら、心はゴタゴタした因縁に捉われること無く、必死になって勤め励めば、前夜の源太に面白く思われなかったことが気にならないことはないが、日頃ののっそり気を益々長じて、もはや何処に風が吹いたか位に自然と軽く感じて、やがては全く打ち忘れただただ仕事だけに取り掛かったのは愚かなだけに情に鈍(にぶ)くて、通り慣れた一本道より外へは駈けない老牛の痴(ち)にも似ている。
 金箔・銀箔・瑠璃・真珠・水晶の以上合せて五宝、丁子・沈香・白膠・薫陸・白檀の以上合せて五香、その他五薬五穀まで備えて大土祖神(おおつちみおやのかみ)・埴山彦神(はにやまびこのかみ)・埴山媛神(はにやまひめのかみ)あらゆる地鎮(じちん)の神々を祭る地鎮祭も済み、地曳き土取り故障なく、サテ礎石はその月の生気の方位から右廻りに次第に据えて行って五星を祭り、手斧始めの大礼には鍛冶の道を創(はじ)められた天の目一箇(まひとつ)の命(みこと)、工匠の道を開らかれた手置帆負(ておきおおい)の命・彦狭知(ひこさち)の命から思兼(おもいかね)の命・天児屋根(あまつこやね)の命・太玉(ふとたま)の命、木の神という句々廼馳(くくのち)の神までの七神を祭って、その次の清鉋(きよがんな)の礼も首尾よく済み、東方の持国天、西方の広目天、南方の増長天、北方の多聞天の、四天にかたどる四方の柱が千年万年動(ゆる)がないことを祈り定める柱立式(はしらたてしき)、天星・色星・多願の玉女(ぎょくじょ)三神、貪狼(たんろう)巨門(きょもん)等の北斗七星を祭って願う永久安護、順に柱の仮楔(かりくさび)を三ツづつ打って脇司(わきつかさ)に打ち緊(し)めする十兵衛は、幾多の苦心もここまで運べば汚い顔にも光の出るほどの喜びに気は勇み立ち、「動きなき下津盤根(しもついわね)の太柱(ふとばしら)」と式で唱う古歌さえも、何とはなしにつくづく嬉しく、「身を立つる世のためしぞ」とその下の句を吟ずるにもニコニコと、二度壇に向って礼拝恭(つつし)んで拍手(かしわで)の音を清く響かせ一切成就のお祓いを終えるここの光景に引きかえて、源太の家の物淋しさ。
 主人は男の心強く思いを外に現わさないが、お吉は捌けていても流石に女の胸は小さく、出入の者に感応寺の塔の地曳きが今日済んだ、柱立式は昨日済んだ、と聞く度ごとに忌々しくて、嫉妬の炎が衝き上がり、「十兵衛の恩知らずめ、良人(うちのひと)の心の広いのをよい事に付け上がり調子よく、名を揚げ身を立るつもりか、万一名が揚り身が立てば、取りあえず礼にも来るべきところを知らん顔して鼻高々と、その日その日を送りくさるか、余りに人が好過ぎる良人も良人なら、面憎いのっそり奴(め)もまたのっそり奴」と、折に触れてはやたらと癇癪の虫を跳ねめぐらせ、自分の小鬢の後れ毛を上げるにも、「エエッ焦ったい」と罪の無い髪を掻きむしり、一文貰いの乞食が来ても甲張った声で酷く断りなどしていたが、ある日源太の不在のところへ仲の良い医者の道益というお喋り坊主が遊びに来て、よもやま話の末に、「ある人に連れられてこの間蓬莱屋へ参りましたが、お伝という女から聞きました一部始終、イヤどうもこちらの棟梁は違ったもの、偉いもの、男はソウ有りたいと感服いたしました」と、お世辞半分に何気なしに云い出した言葉を、手繰ってその夜のようすを詳しく聞けば、知らずにいてさえ口惜しいのに知っては重ね重ねも憎い十兵衛、お吉はますます腹を立てた。

注解
・手斧始めの大礼:工事の無事を祈って行う着工前に宮大工の儀式。
・清鉋の礼:組み立てる前に神前に建築用材を並べて仕上げの鉋をかけて清める儀式。

       その二十四

 「清吉お前は不甲斐ない、意地も察しも無い男、なぜ私にこの間の夜の顛末(てんまつ)を今まで話してくれなかった、私に聞かせては気の毒と乙に遠慮をしたものか、余りといえばケチな根性、万一話を聞いたなら私が狼狽(うろた)えて動転すると思ってか、女と軽く見て何事も知らせずに隠し立てして置く良人の了簡はとにかく、お前達まで私に内緒にするとは余りな仕打ち、また親方の腹の中を見す見す知っていながら平気の平左で酒に浮かれ、女郎買いの供をするばかりが男の能でもあるまいに、暢気にコウして遊びに来るとは、清吉お前もおめでたいネ、何時もは留守でも飲ませるところだが、今日は私は相手ができない、海苔一枚焼いてやるのも厭なら下らない世間話の相手をするのも虫が嫌う、飲みたければ勝手に台所へ行って呑口ひねって水でも飲め、話がしたければ猫でも相手にするがよい」と、何も知らない清吉は道益が帰った後へ偶然行き合わせて、散々にお吉の不機嫌を浴せかけられて、訳が分からず驚き呆れてヘドモドしながら段々とようすを訊けば、自分も今の今まで知らないでいた事だが、聞けば成程ドウあっても我慢できないのっそりの憎さ、命と頼む我が親方に重々の恩を被た身で、無遠慮過ぎる十兵衛メの応対振り、飽くまで親切で真実な親方の顔を踏みつけた憎さも憎い、どうして呉れよう。
 ムムッ、親方と十兵衛では相撲にならない身分の違い、のっそり相手に争っては夜光の玉を小石に打ち付けるようなもの、腹立ちは十分だが分別強く堪えに堪えて、誰にも鬱憤を洩さず知らさずに居(お)られたのだろう、エエ親方は情け無い、他(ほか)の奴はともかく清吉だけには知らしても可(よ)さそうなものを、親方と十兵衛ではこちらが損、俺とのっそりなら損は無い、よし、十兵衛メただでは置かないと逸(はや)りきった目先の考え、「姉御、知らないうちは仕方が無い、堪忍して下され、コウと知っては憚りながらもはや叱られては居りますまい、この清吉が女郎買の供をするばかりが能の野郎か野郎で無いか見ていて下され、さようなら」と声も烈しく云い捨てて、格子戸を開けっ放にして草履も穿かず後も見ず風より疾(はや)く駆け去れば、お吉は今更ながら心配で、続いて追い掛け呼び止める二タ声三声、四声目にはもはや影さえ見えなくなる。

       その二十五

 材を斫(はつ)る手斧の好い音、板を削る鉋の音、孔を穿つやら釘を打つやら丁々カチカチと響きせわしく、木片(こっぱ)が飛んで疾風(はやて)に木の葉が翻るように鋸屑(おがくず)が舞って、晴天に雪の降る感応寺境内普請場のありさま賑やかに、紺の腹掛を首筋にくい込むように懸けて、小胯の切れ上がった股引(ももひき)もイナセな突っかけ草履の勇み姿、サモ利口気に働く者あり、汚れ手拭を肩にして日当りの好い場所にしゃがみ込み悠々と鑿(のみ)を研ぐ衣服(なり)の汚い爺もあり、道具捜しにまごつく小童(わっぱ)、しきりに木を挽(ひ)く日傭取り、人さまざまの骨折り気づかい、汗をかき息を張るその中に総棟梁ののっそり十兵衛、皆の仕事を見廻りながら墨壺・墨差し・曲尺(かねじゃく)を持って、胸中の計画を実物にする指図命令。このように切れ、あのように穿(ほ)れ、ここをコウしてコウやって、そこにコレだけ勾配を持たせよ、孕(はら)みが何寸凹(へこ)みが何分(なんぶ)と口で知らせ墨縄に云わせ、面倒なものは板片(いたっぺら)に画(え)を書いて示し、鵜の目鷹の目油断無く必死になって自ら励み、今しも一人の若者に彫物の画を描いて与えようと余念なく居るところへ、猪(いのしし)よりもなお疾(はや)く埃(ほこり)を蹴立てて飛び込んで来た清吉。
 忿怒の顔に火玉のような逆釣(さかづ)った目を一段と見開いて、「畜生、のっそり、くたばれ」と大喝すれば、十兵衛驚き振り向く途端に、真っ向から岩も裂けよと打ち下すのは、ギラギラするまで研ぎ澄ませた手斧を縦にその柄にすげた大工に取っての刀であれば何堪ろう、避ける間もなく左の耳をそぎ落され、肩先を少し切り裂かれたが、「仕損じたか」とまた踏み込んで打つのを、逃げつつ投げつける釘箱・才槌・墨壺・曲尺、刃物が無いので防げずに身を翻して逃げるはずみに、足を突込む道具箱、グザッと踏み抜く五寸釘、思わず転ぶところを得たりやと笠にかかって清吉が、振りかぶった手斧の刃先に夕日の光がキラリと宿って電光石火に打ちおろす、その時この時、後ろの方から乳虎の一声、「馬鹿め」と叫ぶ男が二間丸太で問答無用と両臑(りょうすね)をなぎ倒せば、倒れて益々怒る清吉、たちまち勃然と起きようとする襟元を把(と)って、「ヤイ俺だハ、血迷うなコノ馬鹿め」と何の苦も無く手斧をもぎ取り捨てながら、上からぬっと出す顔は八方睨みの大眼(おおまなこ)、一文字口の怒り鼻、渦巻き縮(ちぢ)れの両鬢(りょうびん)は不動をあざむくばかりの形相(ぎょうそう)。
 「ヤア、火の玉の親分か、訳がある、打捨って置いてくれ」と、力の限り払いのけようと藻掻きあせるのを、サザエのような拳固(げんこ)で押し鎮(しず)め、「エエッじたばたすれば殴り殺すぞ、馬鹿め」、「親分、情けない、ここをここを放してくれ」、「馬鹿め」、「エエ分らねエ、親分、あいつを生かしては置けネエのだ」、「馬鹿野郎め、ベソをかくのか、おとなしく仕なければなお打つぞ」、「親分ひどい」、「馬鹿め、やかましいヤ、殴り殺すぞ」、「あんまりだ、親分」、「馬鹿め、それ打つぞ」、「親分」、「馬鹿め」、「放して」、「馬鹿め」、「親分」、「馬鹿め」、「放して」、「馬鹿め」、「親」、「馬鹿め」、「放」、「馬鹿め」、「お」、「馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、ざまア見ろ、おとなしくなったろう、野郎、俺の家へ来い、ヤイどうした、野郎、ヤアこいつは死んだな、詰らなく弱い奴だな、ヤアイ、誰か来い、肝心の時には逃げ出して今頃十兵衛の周りに蟻のように群(たか)って何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには亡者が出来かかっているのだ、鈍遅(どじ)め、水でも汲んで来てぶっかけてやれ、落ちた耳を拾っている奴があるか、白痴(たわけ)め、汲んで来たか、かまうことはない、一時に手桶の水を残らず面(つら)へぶっかけけろ、こんな野郎は簡単に生き返るものだ、それしめた、清吉ッ、確りしろ、意地の無え、どれどれ、こいつは俺が背負って行ってやろう、十兵衛の肩の傷は浅かろうな、ムムよしよし、馬鹿どもさようなら」。

注解
・小胯の切れ上がった股引:キリッとした格好よい股引姿。
・鵜の目鷹の目油断なく:鵜や鷹が獲物を捜すような油断の無い目で。
・乳虎の一声:子育て中で気が立っている母虎の恐ろしい声。
・不動をあざむくばかりの形相:不動と間違えるような憤怒の形相。


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