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幸田露伴の小説「五重塔16~20」

       その十六

 「エッありがとうござります、無暗やたらに酔いました、モウ飲めません」とうるさいほど遠慮はしても、猪口を持つ手を後へは退(ひ)かないのが酒飲みの常、清吉は既に馳走酒に十分酔ったが、自制の心に三分(さんぶ)の真面目をとどめて健気(けなげ)顔して座り込み、「親方の留守にコウ酔ってはモウいけません、姉御と対酌(さし)で「夕暮(ゆうぐれ)」を躍るようになってもいけませんからナ、アハハ無暗に嬉しくなって来ました、モウ行きましょう、羽目を外すと親方からお眼玉だ、だがしかし姉御、内の親方にはお眼玉をもらっても私(わっち)は嬉しいと思っています、なにも姉御の前だからといってお世辞を云うんじゃありませんが、本当に内の親方は茶袋(ちゃぶくろ)よりもありがたいと思っています、何時ぞやの凌雲院の仕事の時も鉄(てつ)や慶(けい)を相手につまらないことから喧嘩を始め、鉄の肩先へ大怪我をさせたその後で鉄の親から泣き込まれ、アア悪かった気の毒なことをしたと後悔してもこちらも貧乏、どうしてやることも出来ないで、困りきって逃亡(かけおち)まで思ったところを、黙って親方から療治や手当てをして下すったうえ、かけら半分も叱言(こごと)らしいことを云われず、ただものやさしく、清(せい)お前の喧嘩は時のはづみで仕方が無いが気の毒と思ったら謝って置け、鉄の親の気持も好かろうし、お前の寝覚めも好いというものだと、注意して下すったその時は、アアどうしてこのように情け深いのだろうと、有難くて有難くて私は泣きました、鉄に謝る理由は無いが、親方の一言に我慢して私も謝りに行きましたが、それからは異(おつ)なもので何時(いつ)とはなく鉄とは仲良しになり、今では何方(どちら)かに万一のことが有ったら骨を拾って遣ろう貰おうという付き合いになったのも皆親方のお蔭、それに引変え茶袋なんぞは無暗に叱言を云うばかりで、ヤレ喧嘩をするな遊興(あそび)をするなと下らないことを小ウルサク耳の傍で口説きます、ハハハ、いやはや話になったものではありません、エッ茶袋とは母親(おふくろ)のことです、ナニ酷くはありません茶袋で沢山です、しかも渋(しぶ)をひいた番茶の方です、アッハハ、ありがとうござります、モウ行きましょう、エッ、また一本燗をつけたから飲んで行けと仰るんですか、アアありがたい、茶袋だとこちらが一本というところをアベコベにもう止せと云いますハ、アア好い心持になりました、歌いたくなりましたナ、歌えるかとは情ない、松づくしなぞは彼奴(あいつ)に賞められたほどで」と罪の無いことを云えばお吉も笑いを含んで、「そろそろ惚気(のろけ)とは恐ろしい」などと、からかっているところへ帰って来た源太、「オオ丁度よい清吉居たか、お吉飲むぞ、支度しろ、清吉今夜は酔いつぶれろ、胴間声(どうまごえ)の松づくしでも聞いてやろう」。「ヤ、親方、立ち聞きしておられたナ」。

注解
・「夕暮」:邦楽の「夕暮」を躍る。
・松づくし:松の名または松にちなんだ名を列挙する唱。
・彼奴:清吉のなじみの女、小蝶。
・胴間声:調子はずれの濁った太い声。

       その十七

 清吉は酔って締りがなくなり、砕けた源太の話ぶりと捌(さば)けたお吉の接待(とりなし)振りに何時しか遠慮も打ち忘れ、差されて辞さず受けては飲み干し、杯の数を重ねるままに、常日頃(つねひごろ)から可愛らしい紅(あか)ら顔を一層みずみずしく、実の熟した丹波ホオズキのように紅くして、罪も無い高笑いや相手なしの空力(からりき)み、朋輩の誰彼の噂、自分の声色(こわいろ)がドコドコで喝采を得た自慢、盗める盗めないと云い争った末に、何楼の獅噛火鉢(しかみひばち)を盗み出そうとして友達の仙(せん)の野郎が大失敗をした話、五十間で地廻りを殴った事など、縁に引かれ図に乗って、それからそれへと饒舌(しゃべ)り散らすうちに、フとのっそりの噂に火が飛べば、トロリとなった眼を急に見張って、グニャリとして居た肩を聳やかして、冷たくなった飲みかけの酒を変に唇を曲げて飲み干し、「一体あんな馬鹿野郎を親方が可愛がるというのが私(わっち)には頭(てん)から解りません、仕事と云えば馬鹿丁寧で遅くって、柱一本、敷居一ツで下手をすれば鉋を三度も研ごうというノロマな奴、何一ツ頼んでも間に合った例(ためし)が無く、赤松の炉縁(ろぶち)一ツに三日の手間がかかると云うのは大方ああ云う奴等だろうと、仙の奴が笑ったも無理はありません、それを親方が贔屓にしたので一時は正直のところ、済みませんが私も金も仙も六も、あんまり親方の腹が大き過ぎて、それ程でもない者を買いかぶり過ぎているのでは無いか、念入りばかりが気に入るなら俺達もこれから羽目板にも、仕上げ鉋をノロリノロリと充分かけて碁盤肌にでも削ろうかと僻みを云った事もありました、第一あいつは付き合い知らずで、女郎買いはしない、シャモ鍋をつつき合った事もない唐変木(とうへんぼく)、いつか大師へ皆で行く時も、マア親方の身辺に居る者で一人だけ仲間外れにしてもと、私が親切に誘ってやったのに、俺は貧乏で行かれないと云った切りの御挨拶、何と愛想も義理も知らな過ぎるじゃアありませんか、銭が無ければ女房の一枚着を質に曲げても付き合うのが友達だ、それも解らない白痴(たわけ)の癖に段々親方の恩を被(き)て、私や金と同じように今ではどうにか一人立ち、しかも憚りながら青洟(あおっぱな)を垂らして弁当箱の持ち運び、木片(こっぱ)を担いでヒョロヒョロ帰る餓鬼の頃から、親方の手について居た私や仙とは違って奴は渡り者、それを云えば私等より一倍深く親方を有難い忝(かたじけな)いと思って居なけりゃならないハズ、親方、姉御、私は悲しくなって来ました、私はモシもの事があれば親方や姉御のためなら黒煙りの煽りを食っても火事場に飛び込むぐらいの気持ちを持っているのに、畜生ッ、アア情け無い野郎め、のつそりめ、あいつは火の中へは恩を背負っても入り切れまい、碌(ろく)な根性は持って居まい、アア情け無い畜生だ」と、酔いが云い出させた不平のうちに浸り込んでメソメソ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て例の癖が出て来たかと困った風情をしながらも、自分の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清の言葉を道理と聞く気持ちもあろう。
 源太は腹に戸締りの無いほど愚かでも無いので、猪口を差し付け高笑いして、「何を云い出す清吉、寝ぼけるな俺の前だぞ、愁嘆場を演じても始まらないぞ、その手で女でも口説きやがれ、随分コロリと来るだろう、お前の惚(のろ)けた小蝶様のお部屋じゃア無いぞ、アッハハハ」と冗談を云えば、尚も真面目に大粒の涙を払うその手をペタリと刺身皿の中に突っ込み、しやくり上げ、しやくり上げして泣き出し、「アア情け無い親方、私を酔っ払い扱いとは情け無い、酔ってはいません、小蝶なんぞとは飲みません、ソウ云えばあいつの顔がどこかのっそりに似ているようで口惜しくて情け無い、のっそりは憎い奴、親方を相手に大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんぞは憎い奴、憎い奴、親方がやさし過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智のようなのは道理(もっとも)だと伯龍(はくりゅう)が講釈しましたが、あいつのようなのは大悪無道(たいあくむどう)、親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打ちましたか、いつ蘭丸にのっそりの領地を遣ると云いましたか、私はモシもあいつが親方の言葉に甘えて連名で塔を建てれば打捨(うっちゃ)っては置きません、叩き殺して犬に呉れてやります、このように叩き殺して」と、空徳利の横面(よこつら)を突然叩き飛ばせば、破片が散って皿小鉢が跳り出してチンカラリ。「馬鹿野郎め」と親方に大喝されて、そのままググズリと座りおとなしくなったと思えば、散らかった還原海苔(もどしのり)の上に額を押し付けて既に高鼾(たかいびき)。源太もこれには大笑い、「愛嬌のあるこの阿呆に掻巻をかけてやれ」と云いながら手酌でグイと引っかけて、酒気を吹くことやや暫く、「怒って帰って来たもののアノ様(ざま)では、まるで清吉同然、サテ分別がまだ要るゾ」。

注解
・獅噛火鉢:獅子の頭を足や把手に鋳付けた丸火鉢。
・五十間で:吉原遊郭の衣紋坂から大門までの道で。
・地廻り:土地のならず者。
・碁盤肌に削る:縦横(たてよこ)に削ることか?。
・シャモ鍋:軍鶏(しゃも)の鳥鍋。
・愁嘆場:芝居に中の歎き悲しむ場面。
・明智:明智光秀。
・伯龍:神田伯龍、江戸時代の講談師。
・蘭丸:森蘭丸、織田信長の小姓。本能寺の変で戦死。信長が命じて蘭丸に鉄扇で光秀の頭を打たせたとか、光秀の領地を没収して蘭丸に与える約束をしたとかが光秀の謀叛の原因だという話が歌舞伎や講談になっていた。
・還原海苔:干した浅草海苔を水でもどしたもの。

       その十八

 源太が怒って帰った後、腕を組んで茫然とする夫の顔をさしのぞいて、つくづくお浪は歎いて、「親方様を怒らせば、つまりは仕事も手に入らず、夜も寝ないで模型まで製造(こしら)えた、何日もの骨折り苦労も無駄にして、揚句の果てに他人(ひと)の気持を悪くして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのは余りと云えば情け無い、女が差し出た事を云うとただ一口に云われるかも知れないが、正直や律義にも程があるもの、親方様があれほど云って下さる御意見に随って一緒にしたとて恥にはなるまいに、片意地張っての何とも詰らない意気地(いきじ)立て、それを誰が感心と褒めましょう、親方様の御意見に随えば第一御恩ある親方のお心持も好く、また貴方の名も上り、骨折り苦労の仕甲斐もあり、三方四方みな好いのに何故(なぜ)その気になられないのか、少しも貴方の考えが私には分かりません、能(よ)くマア考え直して親方様の御意見に随って下されないか、貴方が考えさえ変えれば私がすぐにも親方様のところへ行って、どうにかこうにか謝りを云って、一生懸命精一杯、打たれても叩かれても動かない覚悟で謝って謝って謝りぬいたら、お情け深い親方様がまさか何時までも怒ってはおられまい、一時(いっとき)の心得違いと堪忍して下さる事もあろう、考えを変えて意地を張らずに、親方様の云われた通りにして見る気になられませんか」と、夫を思い一筋に口説く女の道理は尤もだが、十兵衛は尚も眼も動かさず、「アアもう云ってくれるな、アア五重の塔と云ってくれるな、詰らない事を思いたって、成程恩知らずとも云われよう人情なしとも云われよう、ソレもコレも十兵衛の考えが足りなくて出来たこと、今更どうにも仕方がない、しかしお前の云うように考えを変えるのはどうしても厭だ、十兵衛の仕事に手下(てもと)は使うが助言は頼まない、人の仕事の手下になって使われはしようが助言はしない、桝組(ますぐ)みも椽配(たるきわ)りも俺がやる時は俺の勝手、何処から何処まで一寸たりとも他(ひと)の指図は決して受けない、善いも悪いも一人で背負って立つ、他人(ひと)の仕事に使われればただ正直に手間取りとなって、渡されただけの事をするだけで生意気な差出口は夢にもしない、自分が主でも無い癖に自分の色を際立たせ、誇り顔の寄生木(やどりぎ)は俺は虫が好かない、他人の仕事の寄生木になるのが厭なら、俺の仕事に寄生木を入れるのも虫が嫌えば仕方ない、やさしい源太親方が義理人情を噛み砕いてわざわざ勧めて下さるのは、俺にも分ってありがたいが、なまじ俺の心を生かして寄生木扱いとは情け無い、十兵衛は馬鹿でものっそりでもよい、寄生木になって栄えるのは嫌いじゃ、小っちゃな下草になって枯れもしよう、大樹に頼まれれば肥料(こやし)にもなろうが、ただ寄生木になって高く止まる奴等を幾らも見ては、卑しい奴めと心のうちで身下げて居たのに、今俺がこのまま親方の情に甘えてソウなるのは、どうしても小恥しくて成り切れないハ、いっそのこと親方の指図通りにコレを削れアレを挽き割れと使われるのなら嬉しいけれど、なまじの情けが却って悲しい、お前もさぞかし分らない奴と恨みもしようが堪忍してくれ、エエッ仕方ない、分らないところが十兵衛だ、ここがのっそりだ、馬鹿だ、白痴(たわけ)だ、何と云われても仕方がないハ、アア火も小くなって寒くなった、もう寝て仕舞おうヨ」と、聴けば一々尤もな心のうち、お浪も返す言葉がなく無言になれば、尚も寒い一室を照らす行灯の灯りも丁字頭(ちょうじがしら)で暗くなる。

注解
・桝組み:軒を支える木組み。
・椽配り:椽木(垂木)の配置。
・丁字頭:心の燃えさしの先端にできる黒いかたまり。形が丁子の実に似ているところからいう。これが大きくなると炎が小さくなる。

       その十九

 その夜源太は床に入っても中々眠れず、一番鶏二番鶏を耳確かに聞いて、朝も常よりは早く起き、うがい手水(ちょうず)に見ぬ夢を洗って熱茶一杯に酒の残り香を払う折しも、ムクムクッと起き上った清吉がねぼけ眼(まなこ)をこすりこすり怪訝顔(けげんがお)してまごつくのを、お吉ともども噴き出して笑い、「清吉、昨夜(ゆうべ)はどうした」とからかえば、急に畏(かしこ)まって無茶苦茶に頭を下げて、「ツイ御馳走になり過ぎて何時か知らずに寝てしまいました、姉御、昨夜私(わっち)は何か悪いことでも為(し)はしませんか」と、心配そうに尋ねるのも可笑しく、「マア何でも好いハ、飯でも食って仕事に行きナ」と、やさしく云われてますます畏れ入って、ウットリ腕を組んで頻りに考え込む風情、正直なのが可愛らしい。
 清吉を出してやった後、源太は尚も考えに独り沈んで日頃のサッパリとした調子にも似ないで、碌(ろく)にお吉にさえ口をきかないで考えに耽っていたが、アア解ったと、ひとり言をするかと思えば、「不憫だ」と溜息をつき、「エエッ投げようか」と云うかと思えば、「どうして呉れよう」と腹立つ様子を傍で見るお吉のつらさ、訊いて慰めようと口を出せば、「黙っていろ」とやりこめられ、仕方なく胸の中で空しく心をいためるばかり。源太はそれに構いもしないで夕暮れ方まで考えに考え、ようやく思いをきめたのか急に起って衣服を改め、感応寺に行き上人にお会いして昨夜の一部始終を隠すことなく話した末に、「一旦は私も余りに分らない十兵衛の応答(こたえ)に腹を立てたものの、帰ってよくよく考えてみれば、たとえ私一人で立派に塔は建つにせよ、それでは折角お諭しを受けた甲斐も無く、源太の我慾ばかりがつよい男らしくも無い話、と云って十兵衛は十兵衛の考えを滅多には捨てないようす、彼(あれ)が全く自分を抑えて譲ったとしても、源太も自分を抑えて彼に仕事をさせ下さいと譲らなければならないのが義理人情、いろいろと愚かな頭を使ってようやく考え出したことでも十兵衛が乗らなければ仕方なく、それを怒っても恨んでも仕方の無い話、もはやこの上は変った考えも私には出ません、ただ願うのは御上人様、たとえ十兵衛一人に仰せつけられたとしても私は何とも思いませんので、十兵衛になり私になり二人共々になりどのようにも仰せつけ下さいませ、御上人様のお言葉であれば十兵衛も私も互に争う心は捨てておりまするので露ほどの故障もござりません、私等二人の相談では手に余って御願いに参りました」と実意を顔に現わして願えば、上人はホクホク笑われて、「そうじゃろうそうじゃろう、流石に其方(そなた)は見上げた男じゃ、好い好い、その心掛一ツでモウ生雲塔を見事に建てたよりも立派に其方は成っている、十兵衛も先刻来て同じ事を云って帰ったハ、彼も可愛いい男ではないか、ノウ源太、可愛がってやれ可愛がってやれ」と意味あり気に云われる言葉を源太早くも合点して、「エエ可愛がってやりますとも」とたいそう清(すず)しげに答えれば、上人は満面を皺にして悦ばれ、「好いハ好いハ、アア気味の好い男じゃナ」と真底(しんそこ)から褒めれて、勿体なく思いながら源太思わず頭をあげて、「お蔭で男になれましたか」と、一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。この時すでに十兵衛の仕事に助力する心が、世にも美しく湧いたのであろう。

       その二十

 十兵衛が感応寺に行って朗円上人にお会いして、涙ながらに辞退の旨を云って帰ったその日の味気無さ、煙草をのむ気もしないで力なくボンヤリと、つくづく我が身の不幸せや浮世の渡り難さなどに思いをめぐらせば、思いめぐらすほど嬉しくなく、時刻になって食う飯の味もいまさら変わる訳ではないが、箸持つ手さえためらいがちで舌が美味(うま)くは受け取らない、いつもは六碗七碗と快く食うところを僅かに一碗二碗で終えて、茶ばかりを却って多く飲むのも、心に悲しみを持つ人の免れ難い常である。
 主人が沈めば女房も、何の罪もないヤンチャ盛りの猪之までもが自然と沈み込み、さびしい貧家は一層さびしく、希望も無ければ楽しみ一ツ無い日を暮らして、暖か味のない夢に物寂びた夜を明かしたが、お浪は暁の鐘に眼覚めて猪之と一緒に寝ていた床からソッと出ると、朝風が寒いので火の無いうちから起こさずに、も少し寝させてやろうとの優しい親心だが、何も知らずに他愛(たわい)なく寝ているいつもとは違って、どうしたことか忽ち飛び起き、襦袢(じゅばん)一ツで蒲団の上を跳ね廻り跳ね廻り、「厭じゃい厭じゃい、父さんを打っちゃ厭じゃい」と、蕨(わらび)のような手を眼にあてて何か知らないが泣き出せば、「エエこれ猪之、どうしたの」と、ビックリしながら抱き止めるが、抱かれながら猶も泣き止まない。「誰も父さんを打ちはしません、夢でも見たか、ソレそこに父さんはまだ寝ておられる」と、顔を押し向けて知らせれば不思議そうにのぞき込んで、ようやく安心したもののまだ疑いが晴れない様子。
 「猪之や何にも有りはしないハ、夢を見たのじゃ、サア寒いから風邪をひいてはなりません、床に入って寝ているがよい」と、引き倒すようにして横にならせ、掻巻きを隙間の無いよう上から押し付けてやる母の顔を見ながら眼をパチリ、「アア怖かった、いま他所(よそ)の怖い人が」、「オオ、オオ、どうかしましたか」、「大きな、大きな玄能(げんのう)で、黙って座っている父さんの頭を打って、幾ツも打って、頭が半分こわれたので坊は大変ビックリした」、「エエッ、鶴亀(つるかめ)鶴亀(つるかめ)、厭なこと、縁起でも無いことをいう」と眉をひそめる時も時、戸外(おもて)を通る聞き覚えのある納豆売りの奴がふるえ声で、「チェッいまいましい草鞋(わらじ)が切れた」、と打ちつぶやいて行き過ぎるのに、女房はますます気色を悪くして、台所に出て釜の下を焚きつければ、思うように燃えない薪(まき)もまた腹立しく、引き窓のすべりよく開かないのも今更のように焦れったく、「アア何となく厭な日」と思うのも、気のせいだとは知りながら、猶も気になる事だけが、気にするだけに多いけれども、また云い出せば笑われると自分で叱って、いつもより笑顔をつくって言葉にも活気をもたせ、生き生きと夫をあしらい子をあしらうが、根がわざとする偽りなので、却って笑いの尻声(しりこえ)が憂いの響きを残して消えるありさまの悲しげなところへ、「十兵衛殿お宅か」と、横柄に大人びた口を利きながら入って来る小坊主、高慢にチョコンと上り込み、「御用があるので直ぐ来られたい」と前後(あとさき)無しの棒口上。
 お浪も不審、十兵衛も分らないが、断ることも出来ないので、もはや感応寺の門をくぐるのは無駄な事と思いつつも、何の御用かと行って見れば、天地転倒コリャどうしたこと、夢か現(うつつ)か真実か、円道を右に為右衛門を左に朗円上人は中央に座わられて、円道から言葉おごそかに、「この度建立する生雲塔の工事一切は、川越源太に任せられるハズのところを、上人には思召(おぼしめ)されるところがあり、格別の御詮議と例外のお慈悲を以って、十兵衛其方(そのほう)に確(しか)とお任せに相成(あいな)る、辞退の儀は無用である早々に有難くお受け申せ」と云い渡される。そのうえ上人は皺かれたお声で、「これ十兵衛よ、思う存分仕遂げて見よ、よく仕上がれば嬉しいぞヨ」と、身に余る有り難いお言葉。のっそりはハッと俯伏したまま五体をワナワナと揺るがして、十兵衛メの生命は、さ、さし出しまする」と云ったきり、喉がふさがって言葉は絶えて、森閑(しんかん)とした広座敷に言葉にならない呼吸の響きが幽かに人の耳を打つ。

注解
・襦袢:和服の下着。ここでは子供の夜着。
・掻巻き:綿入れの着物を掛け布団にしたような寝具。
・玄能:石や鑿を打ったり叩いたりするための鉄の槌。
・坊は:僕は。
・鶴亀鶴亀:縁起の悪いことが起きた時に使う魔よけの呪(まじな)い言葉。
・棒口上:一本調子の口上。
・森閑とした:しっそりとした。


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